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137 二人だけで(2)
しおりを挟む水浴びを終えて戻った白羽の姿を見ると、地に腰を下ろしていたレイゾンが「あ」とも「お」ともつかない声を小さく零す。少し遅れて、彼は自分の傍らを視線で指した。
彼の前では、小さく火が焚かれている。なにか調理中だ。発光石が撒かれていることとも相まって、二人がいる周囲だけは明るくなっている。
白羽は頷くと、促された通りに彼の隣に脚を向けた。
「その姿なら……食事は俺と同じものでいいか」
尋ねられて、白羽は小さく頷く。
けれど内心は、先刻からどきどきし通しだ。
ほんとにこの姿でよかったのだろうか——?
改めて考えると少し不安になる。同時に、この姿を選んだ自分に自分自身戸惑っていた。
迷いはしたのだ。
とても迷った。
池の水は澄んでいて、ほどよく冷えていて、汗を流せてほっとした。
考えてみれば遠征に出てからというもの、こんなに水を使えたことはなかったから、全身の埃を洗い流せてとても気持ちよかった。溜っていた疲れもすっかり癒えたような気がしたものだった。
けれど、そんな風に水浴びを終えていざレイゾンのもとに戻ろうとしたとき。
白羽は、どうするかとても迷ったのだ。
頭の大半では「馬の姿の方がいい」と考えていた。
他の騏驥たちほど警戒に慣れていないとしても、人の姿の時に比べれば馬の姿の時の方が周囲に敏感だ。だとすれば、こんな森の中なのだ。いくらレイゾンが結界を張ってくれているとはいえ、騎士と自分を護るためには馬の姿の方がいいに違いない、と。
それに、馬の姿の時なら手綱を通して意思の疎通ができる。言葉が通じるのだから、と。
だから——。
だから多分、馬の姿でいる方が「正しい」のだ。こんなときには。
ちゃんとした騏驥ならそうするだろう。……多分。
それなのに。
(なのにわたしは、この姿で……)
白羽は、レイゾンが用意してくれていた着替えを——羽織っている単衣を知らず知らずのうちにぎゅっと掴んでいた。
自分の行動を思うと、不思議でしかない。
どうして頭で考えていたことと違うことをしてしまうのだろう。
でも気持ちが——心がどうしてもこの姿を望んだのだ。
今は人の姿でいたい、と。
(馬の姿に変化し慣れていないせいだろうか)
ぱちぱちと音を立てて小さく燃えている火を見つめながら、白羽は思う。
この姿では、上手く言葉を交わすこともままならないだろう。白羽の姿を見たレイゾンはすぐに筆と紙を用意してくれたけれど、これではいつもと同じだ。何か不測の事態が起きた時に、即座に反応できない。すぐに気持ちを伝えられない。
ただ一つ——。レイゾンに触れる、という方法を除けば。
レイゾンが話してくれたことが本当で、そしてそれが今も続いているなら、白羽が触れれば気持ちはレイゾンに伝わるはずだ。
触れさえすれば。そうできれば。
けれど——それは出来ない。怖くて。
じっと座っていると、白羽は自分の判断が間違っていたような気がして、どうすればいいのかわからなくなる。
いや、きっと間違っていたのだ。間違っている。
“良い騏驥”なら、自分がどうしたいかではなく騎士のことを第一に考えるのだから、やはり馬の姿のほうが良かったのだ。
白羽は混乱したまま、衝動的に立ち上がる。馬の姿に変わろうと思ったのだ。
が、
「どうした?」
傍らからの驚いたような声に引き留められる。レイゾンが驚くのも当たり前だ。隣に座った白羽が、いきなり立ち上がったのだから。
白羽は狼狽えつつも座りなおして筆をとると、
[馬の姿に変わってまいります]
と書いて見せる。レイゾンが訝しそうに眉を寄せた。
「なぜだ。その姿では疲れるか?」
いいえ、と白羽は首を振る。
するとレイゾンは白羽が馬の姿に変わろうとした理由を書く前に、
「ならそのままでいいだろう。俺は、その姿がいい」
そう、続けて言った。
直後、彼は「あっ」という顔を見せる。そして慌てたように言葉を継いだ。
「べ——別に馬の姿が嫌だというわけじゃないぞ。馬の姿のお前も十二分に美しく立派だ。ただ……日中はずっと馬の姿のお前と接していたからな。夜が明けるまでは、人の姿のお前も見ていたいと言うか……」
最後はだんだん小さくなる声でそう言うと、彼は白羽から目を逸らすようにして、火に視線を移す。
白羽は、行儀が悪いことを承知しつつ、気になってちら……と横目でレイゾンを見た。
本当に——本当にこのままでいいのだろうか。
すると、
「……気分はどうだ。少しはさっぱりできたか」
黙っている白羽の態度をどう思ったのか、レイゾンが軽い口調で話を向けてくる。白羽は慌てて頷く。だが直後、姿かたちのことよりも、自分がまだ何もしていないことに——なにも働いていないことに気づいた。
急いで筆をとると、
[わたしはなにをすればいいでしょうか]
と書いて見せる。
が、レイゾンは首を傾げ不思議そうな表情でじっと紙を見つめる。次いで白羽に目を向けると、ほどなく「ああ」という顔を見せた。
「大丈夫だ」
苦笑して、レイゾンは言った。
「メシはもうすぐ出来るし、寝床らしきものも作ってある。どちらも急ごしらえだが、そこは我慢してくれ。ああ——結界はしっかりと張っているはずだから安心しろ」
言いながら、レイゾンは二人の背後に視線を流す。
白羽が見てみると、刈った草の上に布が敷かれ、横になれる場所が出来上がっていた。
自分が水浴びしていた間に、レイゾンはなにもかも済ませてしまったのだ。
これでは騏驥ではなく「お客さま」だ。
恥ずかしさに白羽が俯いてしまうと、レイゾンは慌てたように「気にするな」と顔を覗き込んできた。
「俺がやりたかっただけだ。お前に先に池に行けと言ったのも俺なのだし、お前が気にすることじゃない。俺とお前と、より疲れている方が先に休んで疲れていないほうが動けばいい——それだけだ。俺の方が疲れていたなら、お前に仕事を頼んでいた」
<…………>
「今夜は、まずお前に疲れを癒してもらいたかった。それが最善だと考えたからだ。明日もお前には走ってもらわなければならないんだからな。これは、俺の判断だ。それとも——騎士の判断に不満があるか?」
最後の言葉は脅しめいているものの、その表情も声音も意地悪っぽいもので、彼がふざけてそんな風に言ったのだとすぐにわかる。
これ以上白羽が気に病まないように気遣ってくれているのだろう。白羽はレイゾンの配慮に感謝しつつ<ありません>と首を振ると、[わかりました]と書いて見せた。
続けて、
[では次の時は、わたしに仕事を任せてください]
と書き足す。そして少し迷って、
[わたしも騏驥としてお役に立ちたいのです]
と更に書き足した。本当は”レイゾンさまのお役に”と書きたかったけれど、それは恥ずかしくて書けなかった。
すると白羽の書いたものを見たレイゾンはふっと頬を綻ばせる。目を細めた柔らかな笑み。そして彼は噛み締めるように「わかった」と頷いた。
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