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136 二人だけで
しおりを挟むその気分を一言で言えば「爽快」だった。
爽やかで、快い。
地を蹴るたびに風の音が聞こえて、まるでその音に背を押されるかのように自然と脚がグイと延びてまた地を捕える。
蹄に程よく伝わる土の感触。駆ける快感。疾走の心地よさ。
慣れない道を全力で駆けることへの不安はほんの一瞬だけ。騎士を背に踏み出せば、すぐにそれは魅力へと変貌していった。
数多の花の香り。木々の香り。美しくも目まぐるしい、次々移り行く景色。耳の奥に響く、自分の心臓の音。
今まで知らなかったことばかりだ。
全てが胸を高鳴らせ、もっともっと、と見えない熱となって白羽を突き動かす。
白羽の、騏驥としての心を昂らせる。
道はどこまでも続いている。遮るもののない広い広い世界。空と触れる地平。かつてない開放感。
そして——背中に感じる騎士の気配。
レイゾンの体温。
彼の騎乗は無駄がなく、指示は的確で、常に白羽に勇気を与えてくれる。
時に、彼に促されて街道を外れることもあったけれど、それは全て白羽の脚の負担を考慮してくれてのこと。より柔らかな草地を走らせてくれるためだった。
白羽はレイゾンを乗せて走りながら、改めて彼の騎士としての腕の確かさ、そして判断能力の高さに驚き、感激してばかりだった。
何度か調教で乗ってもらった時にも感じたけれど、彼は騏驥に安心感を与えてくれる。白羽は他の騎士を知らないから、なおさらそう思うのかもしれないけれど、彼に手綱を取られていると何の不安もなく走れる。
心沸き立つままに夢中で走り、いつしか流石に疲れ、渇いてしまい、時折、ああ、もう走れなくなってしまった——と残念に思いながら速度を落とすと、まるでそれを見計らっていたかのようにレイゾンは白羽を水辺へ導いてくれる。
もしくは——緩やかに脚を止めさせて、持参していた水を与えてくれた。
同じ水を二人で——一人と一頭で分け合うのはなんだとても不思議で——奇妙で(何しろ白羽には今まで経験のないことだ。他のこともだが)、気恥ずかしいような気もしたけれど、悪い気分ではなかった。
そんなふうに休みを挟みながら駆けて駆けて駆けて——。
風と一体になるかのように駆け続けてどのくらい経っただろうか。
世界中を照らしているかと思えた鮮やかな陽もそろそろ翳り、紫とも青とも橙ともつかない、それら全てが混ざり合ったような幻想的な色合いの光が天空を染め上げる。
その神秘的な光景に白羽が目を奪われていると、手綱を通して減速の指示が伝わってきた。
襲歩から駈歩、そして速歩から常歩——。
やがて、白羽が静かに歩を止めると、その頸を軽く叩きながらレイゾンは言った。
「見事な夕焼けだな。王都では見られない空だ。せっかくだ、少し眺めてから行くとしよう」
まるで白羽の気持ちを掬い上げてくれたかのようなレイゾンの言葉に、白羽は嬉しさを覚えながら<はい>と応じる。
そのまま、次第に色を変えていく夕焼けをしばし共に眺めると、やがて、レイゾンは再び白羽を走らせる。
刻一刻と暗くなっていく景色のその先に広がるのは森。水の香りがする。
見たことのない木々や苔、聞いたことのない鳥の羽ばたきや鳴き声に警戒しつつ白羽が脚を進めていると、
「今日はここで野宿だ」
レイゾンが言った。
「騏驥は夜目が効くというが、無理をする必要もない。疲れもあるだろうし、一度この辺りで休む。お前には解ると思うが、もう少し進むと水が湧いているはずだ。そこにしよう」
そう続けると、レイゾンは手綱を心持ち緩める。白羽の行く気に任せるようだ。
近づく夜と木々のせいで薄暗い中、音と香りを頼りにしばらく行くと、やがて、小さな池のある場所に出た。レイゾンは白羽を止めると、労うように頸を叩いてその背から降りた。
「頑張ったな」
手綱を手にしたままレイゾンは言うと、すぐに白羽の脚の様子を確認し始める。
発光石を幾つか使って辺りを明るくすると、手綱を曳いてゆっくりと白羽を歩かせ始める。ゆったりと、なんども大きな円を描くように。
白羽は指示に従って素直に動いた。
自分としては疲れてはいても、身体のどこにも異常はない気がするけれど、レイゾンに確かめてもらえるならそれに越したことはない。今までこんなに長く、速く駆けたことはなかったから。
昂っていた気持ちも、レイゾンに曳かれて歩いていると次第に収まってくる。
やがて彼は元の場所に白羽を立たせると、今度はしゃがみ込むようにして白羽の前脚の管に触れて来た。熱っぽくなっていないかを念入りにチェックするように左右のそこを何度も撫でると、
「痛むところはないか」
顔を上げて白羽に尋ねて来た。白羽は<大丈夫です>と伝える。
息も苦しくないし、どこも痛くない。
(以前は、頑張りすぎてコズんだりしたこともあったのに……)
いつしか体力がついていたようだ。
白羽が昔の自分との変化に驚いていると、レイゾンは「それならよかった」とようやくほっとしたような顔を見せる。
白羽の脚を、体調をとても気にしてくれていたのだ。白羽が胸が熱くなるのを感じていると、
「だが、もし何か少しでも気になることがあればすぐに言え。——いいな」
念を押すような少し強い口調で、レイゾンはそう続ける。
白羽が頷くと、レイゾンは「よし」とやっと微笑み、続けて、池の方へ顎をしゃくって見せる。
「なら、汗を流してくるといい。ああ——それから、ここでは馬の姿でも人の姿でも、楽なほうでいろよ。くれぐれも無理はするな。メシも両方の場合にあわせて持ってきているし、着替えも、人用、馬用両方ある。池の側に置いておくから、人の姿でいるならそれに着替えればいい。馬の姿のままでいるなら、俺が水を拭いて馬服を着せてやる」
だがそう促されても、白羽は動けなかった。
騎士を差し置いて、自分が先に? そんなこと、できるわけがない。
(それぐらいは、わたしにもわかります……)
白羽は首を振ってレイゾンを見る。
するとレイゾンは愉快そうに目を細めて笑った。
「そう困ったような顔をするな」
そして白羽の身体を撫でながら、説得するように続ける。
「俺はこれからこの辺りに結界を張る。安全な森のはずだが、念には念を入れた方がいいだろう。寝床を作る必要もある。だからお前が先にさっぱりしてくるといい、ということだ」
<でも……>
「いいから行け。お前のその白い美しい馬体が砂埃や土埃で汚れているのを見ているのは、騎士として胸が痛い」
<…………>
そこまで言われると、断り続けることの方が失礼だろう。
白羽が頷くと、レイゾンが手綱を外してくれる。代わりに、鬣に小さな石を付けられた。
「護符代わりだ。音にも香りにもお前の方が敏感だし、暗くても色々見えるだろうが……経験のないお前にとっては、こんな場所で野宿では不安もあるだろうからな」
レイゾンの気遣いに、白羽は「ありがとうございます」というように軽く頭を下げる。
森には夜の帳が降り始めていた。
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