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95 馬のわたし+人のわたし=騏驥のわたし?
しおりを挟む白羽はひとしきり駆けると、ゆっくりと減速して水辺へ足を向ける。
乾いた喉を潤すと、ふう、と息をついた。
こんなに駆けたのは初めてだ。気持ちがよかった。
心の中には、レイゾンを恨むような気持ちもまだあるし、物につられるような自分じゃないと思っている。けれど、この放牧場を駆け回る高揚感は、他のなににも変え難いのは事実。そしてそれを白羽に贈ってくれたのはレイゾンなのだ。
心を砕いて、騎士として申し分のない贈り物をしてくれた。
それは、嬉しく思っている。
(ならば胸中のどこかでは、あの方を認めているということなのだろうか。求めているということ……なのだろうか……)
ふと。そんな考えが脳裏を過ぎる。
直後、白羽は慌てて頭を振った。
ありえない。
馬の姿の時に嬉しいからと言って、それがそのままレイゾンを認めているわけではない。求めているわけなどないのだ。
でも。
でも——ではなぜ今自分はレイゾンのことをこんなに思っているのだろう。
こんなに考えているのだろう?
彼がこの草原を見せてくれた時のことは、まだ鮮明に覚えている。
あの声、横顔。
白羽の返上を口にした時のこともだ。
そして、あの干した果実をくれた時の……。
あの干し果実は、結局、白羽が全て食べた。
サンファには内緒で——なぜか内緒にして、全て白羽だけで食べた。
味は美味しかったような——美味しくなかったような、だ。けれどなぜか一口食べるごとに、胸が温かくなった。そんな効果はないはずなのに。どうしてか。
(…………)
白羽はまた一つ頭を振ると、空を見上げる。そろそろ日暮れだ。思っていたよりも長く駆けていたらしい。サンファが来る前に帰らなければ。心配させてしまう。
馬の姿になると思っていなかったから、着替えは持ってきていない。このまま馬の姿で帰ることになりそうだ。
(今度から四阿にでも着替えを置いておこうかな……)
ここからなら、調教用の馬場を通れば部屋の庭まで行けるはずとはいえ、馬の姿にはまだ慣れない。万が一突発的なことが起こったときに自分がどうなるかわからないから、人の姿の方が安心できる。
(“今度から”か……)
白羽は、直前にほとんど無意識に思ったことを改めて一人ごちる。
今度から、なんて思ったということは、自分はまたここで走りたいと思っているということだ。この放牧地で駆け回りたい、と。
(…………)
(…………)
(まあ……誰が造ったとしても、どんな理由で作ったとしても、別に放牧地は放牧地なのだし……)
レイゾンから贈られたものだと特別意識しなくてもいいのかもしれない。
いや、意識しなくていいのだろう。そのはずだ。
彼だって自己満足だと言っていたし、気にしなくていいのだ。気にしなければいい。
ただの……走りやすく走っていて気持ちのいい放牧場ができたのだと——そう思えば。
白羽は自分に言い聞かせるように胸の中で呟くと、のんびりと部屋を目指す。
走って汗をかいたから、この姿のままサンファに身体を洗ってもらおうか……それとも人の姿に戻って清めた方がいいだろうか?
放牧場で駆けた後はそういうこも考えなければならないのだなと新鮮に思いつつ、白羽は自身の部屋に面した庭に足を踏み入れる。
思い切り駆けた爽快感と程よい疲れ。気分よく——それこそ彼にしてはとても珍しく、鼻歌交じりに脚を進めて——。
ぎくりと脚が止まった。
大きく開け放たれた窓。その向こうには——部屋にはレイゾンの姿が見えたのだ。
(え……ど、どう……)
どうして。
どうしよう——!?。
白羽は混乱する。思わずみっともなくばたついてしまった。
いっそ引き返そうかと思ったが、もう遅い。気付いたレイゾンがこちらを向いた。目が合ってしまう。
固まってしまっていると、
「白羽さま!」
レイゾンを監視するかのようにして一緒に部屋にいたサンファが、庭に駆け出してきた。
「おかえりなさいませ。ぁ……あの、そのお姿は……」
戻れなくなったのですか?
サンファがこっそりと尋ねてくる。白羽は首を振る。が、そこではっと気付いた。
(このままでいればいいんだ)
そうだ。
馬の姿でいればレイゾンと話さなくても済む(そもそも話せないけれど)。
そう決めた白羽がいくらかほっとしていると、
「馬の姿とは珍しいな。走っていたのだな」
部屋から、ゆっくりとレイゾンがこちらへやってきた。
彼は今日も城へ調教に出ていたはずだが、今の身なりは寛いだものだ。帰宅して着替えたのだろう。質素だが落ち着いた色合いの装いは、彼の男っぽさに似合っている。
(悪くないな……)
白羽は思った。
誰かに——あの従者にでも見立ててもらったのだろうか。それとも自分で工夫したのだろうか? この騎士は下手に着飾るよりもシンプルな装いの方が似合うタイプだ。体格に恵まれているし、強面な面差しだから煌びやかな装束では浮いてしまうと思っていたのだ。
それよりも、いまのようにもっと……。
(っ……何を考えて……)
白羽はぶるぶると頭を振る。
レイゾンの格好などどうでもいいのに、つい考えてしまった。
ティエンの側にいた時の癖のようなもので、騎士の装いが気になってしまう。以前の主はいつも彼に相応しく身だしなみを整えていて、そのために白羽もいつしか纏うものに興味を持つようになった。
美しいものを見ていると心が和んだし、季節や行事に合わせた装いを考えることは楽しかったためだ。高価なものではなくとも、ちょっとした工夫で洒落た出来栄えになったし、それをティエンに褒めてもらうのも嬉しかった。
おかげで、今はそれなりに知識も経験も身に着いた。
そのせいだろうか。レイゾンのことも気にしてしまったのは。
取り敢えずとはいえ、彼は自分の騎士だから、やはり彼の格好は気になってしまって……?
「——大丈夫か?」
しかし、白羽がそんな風に慌てて頭を振ったためだろう。
レイゾンは心配するように顔を顰めて速足で近づいてくると、そっと首に触れてきた。
武骨な男なのに、その手は驚くほど優しい。繊細さに、どきりとした。
白羽の耳の奥で、心なしか鼓動が大きくなってきている。皮膚の薄い首筋からは、レイゾンの体温が伝わってくる。
(う、馬の姿でよかっ……た……)
白羽は胸の中で一人呟く。
なぜこんなことになっているのかわからないが、人の姿だったらきっと……とても見せられない顔だっただろう。狼狽して……慌てて。
人の姿だったなら、レイゾンは触れてこなかっただろうけれど。
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