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92 騎士からの言葉と
しおりを挟む「……お前の侍女には随分と嫌われているな」
ややあって——レイゾンの最初の言葉はそれだった。
張り詰めている空気を破ろうとするかのように彼は軽い口調でそう言うと、再びぐるりと部屋を見回す。
そして、長椅子に座る白羽から遠い壁へ背を預けた。
怖がらせるつもりはない、という意思表示だろうか。だが騎士を立たせて自分が座ったままというのは、どうにも居心地が悪い。
それに、レイゾンの声は聞こえても白羽は筆談だ。混み合った会話になれば長く文書を書くかもしれないし、そうなれば、書いた字がレイゾンに見えるかどうかわからない。
白羽は、
[もう少し近くの方が]
と書いて見せた。
レイゾンが近付いても怖くない、と言えば嘘だが、今のありようは不自然だ。
するとレイゾンは少し考えるような顔をしたのち、
「——ではこうしよう」
と、部屋にあった椅子を一つ選ぶと、それを白羽から少し離れたところに据え、そこに腰を下ろした。
部屋で二人で話すには不自然に遠いが、さっきよりは近い位置。そして……白羽と扉との間を妨げない位置だ。
白羽はどきどきする胸中を感じながら頷いた。
彼が近くにいると、また何かされるのでは不安になる。だが同時に、彼の仕草や行動の一つ一つから、過日の後悔と反省が感じられて戸惑ってしまう。
騙されているのかもしれない……。けれど今、彼は間違いなくあれこれとこちらを気遣ってくれているのが伝わってきて、絆されてしまいそうで困惑してしまう。
サンファがいれば『あんなことをしたのだから気遣うのは当然です。どれだけ気遣っても足りないぐらいです。というか気遣うのが遅いのですよ。これだから慣れない騎士は——』ぐらい言いそうだが……。
白羽は慄きつつもじっとレイゾンを見る。
なにを考えているのかわからない。
強引に部屋にやってきておきながら、気遣いを見せるなんて。
それに。
(どうしてそんなにじっと見るの……?)
何か変なのだろうか。
ただでさえ細い身体がさらに細くなっている気がするし、体力も落ちているだろう。みすぼらしい、と気になっているのだろうか。
目を合わせると胸のどきどきが大きくなってしまう気がして、白羽は逃げるように視線を逸らし、筆をとると、
[お話とはなんですか]
と書いてみせる。
特にレイゾンと話したいわけでもないにも関わらず、自分の方から尋ねることになったのは不本意だが、ただ目を逸らしただけでは無礼だと言われかねない。だがこれなら理由があってのことだから大丈夫だろう。
するとレイゾンはその紙を見て、微かに両の唇を上げる。そして言った。
「紙は城から持ってきていたのか?」
<!?>
思いがけない言葉だった。まるで世間話のようなそれに、白羽は戸惑いつつも小さく頷く。レイゾンは「そうか」と頷くが、白羽の頭の中は疑問でいっぱいだ。
彼は、一体どうしたのだろう?
そんな白羽の耳に、
「足りなかったら言え」
というレイゾンの言葉が届く。
「買い足そう。どんな紙がいいのか俺には見当もつかないが……好みのものがあるなら揃えさせる」
<…………>
白羽はぎこちなく頷いた。
正直なところ、白羽が用いている紙は、たとえ筆談に用いる程度のものであっても、そう簡単には手に入らない質のものだ。
ティエンが分けてくれたもので、だから特別な方法でしか入手できない。
だがそんなことより、気になるのはレイゾンの態度、そして言葉だ。
まるで人が変わったよう、と言えばいいのだろうか。
かと言って白羽に阿っているわけでもない様子だ。
ならば——どうして。
白羽は声が出せないことにもどかしさを覚えていた。
声が出れば、さほど大仰にせず、さりげなくなにがあったのか尋ねられただろうに、今はレイゾンの様子を伺うしかない。
彼は、じっと白羽を見つめてくる。
話があると言っておきながら、当たり障りのない一言二言の後はまたじっと白羽を見つめてくる。
やがて、何かを振り切るようにふっと小さくため息をつくと、
「——白羽」
わずかに前のめりになりながら、レイゾンは言った。
「……お前を、返上しようと思っている」
静かな、低い声だ。
けれどそれは意志を感じさせる声だ。
息を呑む白羽に、レイゾンは続ける。
「この数日間考えて……決めたことだ。だが誤解するな。これはお前のせいではなく俺の技量と度量のなさゆえだ……」
<…………>
白羽は息をすることも忘れていた。
だから。
だからあんなにも密度の濃さを感じさせる視線だったのだろうか?
見つめられていると苦しくなるような。
そんな決意が秘められていたから?
見つめる白羽の前で、レイゾンが髪をかき上げる。彼の顔は切なげに歪められていた。
「とはいえ、今すぐと言うわけじゃない。少なくともお前の身体が癒え、声が戻るまでは……俺が責任を持ってお前の騎士であるべきだろうと思っている。傷を負わせておいて突き放すような真似はしない」
<…………>
「こういうことは俺も初めてで、どうすればいいのかわからぬことも多いが……悪いようにはしないつもりだ。これで償いになるとは思わないが……」
レイゾンはじっと白羽を見つめたまま、噛み締めるように言う。
一言一言が重く、白羽では受け止められない。
もう会いたくないと思っていた人だった。
彼の側にはいたくない、と。
だからこれは——彼の申し出は願ってもないことのはずだ。
なのに。
なのにどうして、自分はこんなに不安になっているのだろう。
放り出されてしまうような、悲しいような、寂しいような気持ちになっているのだろう?
予期していなかったから?
突然のことだから、だから動揺して……。
戸惑っているだけ?
少し時間が経てばこの動揺は収まって、この寂し異様な気持ちは収まって、「よかった」と思えるのだろうか。
喜べるのだろうか。
(わからない……)
わからない。
白羽は知らず知らずに俯くと、ぎゅっと拳を握りしめる。
こうしていても感じるのは、レイゾンからの視線の熱だ。
今は焼くような圧するようなものではなく、不思議なほど穏やかだ。なのに熱い。包むような熱。
程なく、レイゾンが立ち上がった。
はっと顔を向けた白羽に、
「……とりあえず、それを伝えておきたかった。邪魔してすまなかったな」
そう言うと、小さく笑う。
そして続けた。
「騎士と騏驥にとって大事な話だと思ったから二人だけで話したが、別に秘密にしなければならないことじゃない。俺が部屋を出て行ったらあの侍女にも話してやれ。……喜ぶだろう」
その声音は決して皮肉めいたものではなく、むしろ仕方がない、とでも言いたげなそれだ。その声と自嘲するような表情に、白羽の胸がツキンと痛む。
何か言わなければと思うのに、声が出ない。
もどかしい。
けれどたとえ出たとしても、なにを言えばいいかわからなかっただろう。
見つめ返すことしかできない白羽に微笑むと、レイゾンは部屋を出て行こうとする。
だが、あと少しで扉と言うところで、
「ああ、そうだ」
彼はふと立ち止まった。
そして振り返ると、少し迷うような様子を見せながらも白羽に近づいてくる。慎重な足取りで、白羽を怖がらせないようにして。
次いで彼は懐から何かを取り出した。小さな袋……だろうか。
差し出されて、白羽は素直に受け取った。
開けてみると、そこにあったのは滋蓉桃の干し果実だった。干し果実が、二つ。
(え……?)
思いがけないことに、白羽は目を瞬かせる。
レイゾンを見上げると、彼は初めて見るようなはにかむような困っているような顔で言った。
「城に出入りしている商人から買い求めたのだ。俺は詳しくはないが、騏驥の身体に良いものだと聞いて……。珍しいものなのだろう? あいにく手持ちがなくて、それだけしか買えなかったが、良いもののようなので、口に合えば食べるといい。嫌ならば、猫にでもやればいい」
(…………)
白羽はレイゾンの声を聞くと、再び手の中の干し果実を見た。
それは確かに滋蓉桃の実を干したものだが、シィンから贈られたものに比べればさほど大きくなく、厚みも乏しい。いくらか干しすぎて少し硬めだ。香りも残念ながら薄い。
普通に食べるにはなんら問題のないものだが、「良いもの」とは程遠い品質だ。これなら、騎士であるレイゾンなら十個買おうが二十個買おうが、まず「手持ちがない」状態にはならない。
おそらく、物知らずな騎士だと察した商人に、高く売りつけられたのだろう。王都ではよくあることだ。
(でも……彼はわざわざ……)
慣れないのに、買い求めてくれたのだ。
——自分のために。
白羽は果実を見つめる。
こんなもので自分の気持ちは変わらないと思っている。
彼が自分にしたことを忘れてはいない。今更こんなもので機嫌を取ろうとしてももう遅い。彼が自分にしたことは、こんなもので帳消しにできることではないのだ。絆されない。
それはわかっている。そう思っている。
でも——。
でも——それなのに、この手の中の二つの果実は、シィンからの立派なそれよりも、なぜか美味しそうに見えるのだ。見えてしまう。
そんなはずはないのに。
そんなはずはないのに、大きくも香りがいいわけでもないこの果実を見つめていると——胸が温かくなる。
それを見ているだけで、手の中にあるだけで。
<ぁ…………>
白羽はハッと我に返ると、礼を言おうとした。けれど声が出ない。
今度はさっきよりも一層もどかしかった。お礼を——感謝を伝えたいのに。
白羽は慌てて近くの紙に[ありがとうございます]とお礼を書く。
だが足りない。これだけでは今の自分の気持ちはきっと伝わらない。けれど伝えられない。
焦ったさに泣きそうになっていると、それを勘違いしたのだろう。
「すまない。近づきすぎたな」
レイゾンは慌てたように白羽から離れる。
白羽は咄嗟に立ち上がり、「違う」と首を振ったが、それは彼に見えていただろうか。
レイゾンは白羽のために早く出て行こうとする様子でさっと踵を返すと、「とにかくそういうわけだ」と口早に言い残して去っていく。
白羽は、引き止める声も出せず閉まる扉をただ見つめるしかなかった。
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