前王の白き未亡人【本編完結】

有泉

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86 七日後、騎士

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 ◇



 二頭の騏驥の朝の調教を終え、調教師との意見交換も終えると、レイゾンは西の厩舎地区を後にした。
 次の調教は、東の厩舎地区に所属する騏驥だ。

 東の厩舎地区は、城を挟んで反対側にある。そこを目指して、レイゾンはゆるゆると歩き始めた。

内埒内うちらちない」と言われている「城の敷地内」も大概広いが、その外——内埒と外埒の間にある、俗に「城内」と呼ばれている部分は更に広く、ちょっとした街なら入るのではないかと思えるほどに大きい。
 それもそのはずで、ここには騏驥の厩舎地区が二つに騏驥のための放牧場や診療所が複数、さらには普通の馬の厩舎や官吏たちの宿舎もあるほか、騎士たちの聖地ともいうべき騎士庭、さらには魔術師の集う『塔』もそびえている。
 そんなところを横切るようにして移動するのだから、当然ながら結構な時間がかかり、多くの騎士は、移動の面倒さを嫌って、主に西か東かどちらかだけの騏驥の調教を担当する。だが、レイゾンはできるだけ多くの騏驥に乗りたいと望んでいたため、頼まれれば二つを行き来して調教に乗ることも厭わなかった。

 そのおかげもあってか、城の中のことについては不慣れなレイゾンだが、厩舎間の道のりについてだけは幾らか詳しくなった。
 人の多い場所を通らなければならない経路もあれば、しばしば城にやって来る行商人たちが休憩している付近を通る経路もある。そして、木々に隠れるようにある、いつもあまり人けがない経路も。

 今日、レイゾンはその静かな道を選んで東の厩舎に向かう。
 誰とも会いたくなかったのだ。城で働く官吏や女官たちとも、他の騎士とも、誰とも。





 あの日から——あの夜から七つの昼と夜が過ぎていた。
 白羽を深く傷つけ、彼が声を失ってから、それだけの時間が過ぎていた。
 彼の声は、今だに戻っていない。
 
 レイゾンは思い出して眉を寄せる。
 あの夜。白羽が声が出なくなったと知った時。
 感じたのはそれまで経験したことがないほどの苦しさだった。身体ではなく、胸が苦しかった。胸の奥が。

 彼の——あの声。
 可憐で愛らしく、軽やかで清かな——。あの声をもう聞くことができないかもしれないと想像すると、どうすればいいのかわからなかった。

 しかも——。

(最後に自分に向けられたのがあの言葉とは……!)

 あなたは過去にわたしを弄んだ男たちと同じだと——白羽にそう言い放たれたことを思い返すと、後悔に苛まれる。
 レイゾンは思わず足を止めると、空を仰ぎ——ぎゅっと目を閉じる。
 そして項垂れるように深く俯くと、大きくため息をついた。


 あの夜、魔術師は、声が出ずに動転している白羽を落ち着かせながら言った。

『今の見立てではなんとも言えぬが……おそらく、完全に声が失われたわけではないだろう』

 溢れた涙は、サンファが拭いてやっていた。レイゾンはなにもできず——触れることも慰めることもできず、ただそこに立ち尽くしていた。
 
『心の理由で、喉が上手く機能しなくなっているのではないか? いずれにせよ、日を改めてのことだ』

 日を改めて?

 ようやくレイゾンが尋ねると、魔術師は頷いて言った。

『今ここですぐに状態を確認して治療をとなれば、時間もかかり周囲への影響も大きくなる。この騏驥にも却って良くない。今夜はこのまま連れ帰るがいい。それだけの体力は戻っているはずだ。後日、其の元へ赴こう』

 白羽のためとはいえ、「塔」の魔術師が、わざわざレイゾンの屋敷へ?
 そんな事態が公になったら……。

 戸惑うレイゾンに、魔術師は『なに、心配するな』と続けた。

『吾のことなど誰にもしかとは見えはせぬ。それに今更他の医師には任せられぬだろう? 吾も、この騏驥のことは今少し面倒を見たい』

 そう言われれば断れるはずもなく、レイゾンは言われるまま白羽を連れて帰ったのだった。世話になったダンジァに礼を言い、魔術師言われた通りの道を行き、言われた通りに用意されていた軒車で。

 そして、魔術師は言ったとおりにやってきた。
 翌日、彼はいつの間にか屋敷の中に入り込み、当然のように白羽の診療を始めたのだった。

「…………」

 東の厩舎へ向けて再び歩き出しながら、レイゾンはこれまでのことを思う。

 魔術師が診た結果、やはり喉が上手く機能していないとのことだった。
 しかも詳しく調べたところ、心の問題だけでなく実際に傷ついていたらしい。

『よほど喉を酷使したな』

 昏い顔で言った魔術師のその言葉に、レイゾンは再び打ちのめされた。
 
 無理やりに組み伏せたあの時。
 そんなレイゾンから逃げようと暴れ、抗い、幾度も、数えきれないほどの悲鳴を上げていた白羽の悲痛な声が耳の奥に蘇り、反らされた白い喉が目の奥に蘇る。

 辛うじて馬の姿のときに手綱を通して会話をすることは可能のようだったが、

『……ただ……いつ治るかは吾にもわからぬ。明日かも知れぬしもっとかかるかもしれぬ』

 その言葉はやはりショックだった。

 しかもその診察の間中、レイゾンは白羽をただ見ていることしかできなかった。寝台の上の彼から離れて、部屋の隅で、椅子に腰を下ろし、じっとしていることしかできなかったのだ。
 白羽から離れようとしないサンファはもちろん、レイゾンが連れ帰り、今や白羽のものとなった猫でさえ、主を慰めるように側にいたのに——だ。

(しかしそれも……)

 自らが招いた事だ。
 自らの愚かしさが。醜い嫉妬が。

 レイゾンはもう何度目になるかわからないため息をつく。

 その後も、レイゾンは白羽の様子を詳しくは知れていない。
 互いの侍女と従者を通してしか。

 レイゾンはまだ白羽の騎士なのだし、ならば部屋に立ち入る権利も直接状態を問う権利ももちろんある。むしろ騎士は常に自身の騏驥の状態を把握しておくべき——そうわかってはいても、その権利を行使することが今はどうしてもできなかったのだ。
 治療によって回復してきているとはいえ、今だ元気を失い、声をも失った白羽を前にしては。

(以前からおとなしい騏驥だったが……)

 今はもう傷つき項垂れた白い鳥を見るかのようだ……。

 今朝も出かける前に見た白羽の姿を思い出し、レイゾンは思う。
 言葉を交わすことはできなくても、せめて様子だけでもと立ち寄った部屋。わずかに開かれた扉の隙間。立ち塞がるサンファ越しに見た白羽の姿は、切なくなるほどやつれていて……。
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