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84 魔術師(4)
しおりを挟むその名を耳にした途端、レイゾンは自分の頬が引き攣るのを感じた。
表情に出さずにいようとするが、上手くできているかわからない。
気持ちを抑えようとしても、胸の奥がざわざわするのだ。
なぜ今、魔術師が前王の名を?
目の前のこの状況と関係していると言うのか?
白羽が何度も叫んでいた名前。ずっと呼んでいた名前。
彼の最愛の主。
きっと今この時でも——意識のない時でも想い続けている主。
この世からいなくなってもなお、白羽と深く繋がり続けている唯一人。
知らず知らずのうちにぎゅっと拳を握りしめてしまう。
すると傍の騏驥がそんなレイゾンの気持ちを察したかのように、
「なぜ今、亡き陛下の御名を? 今の白羽の様子と関わりが?」
微かに咎めるような口調で言う。
礼儀正しいこの騏驥にしては珍しい態度だ。
魔術師は一瞬、意味深な表情でダンジァを見つめ、苦笑した。
「そう怖い顔をするな。他意はない。この白い騏驥を見ていて思い出したのだ。吾らは大抵のことを上手くやるが、そうでなかったこともある。そして大概、そうでなかったことの方が大きく、だからいつまでも残る。そのうち一つがティエンだ……。あれを『塔』に迎えられておれば……」
「!?」
その言葉に、レイゾンは眉を寄せた。
『塔』? 『塔』は魔術師の集うところのはずだ。それも魔術師の中でも稀有な力を持ったものばかりが。——それがレイゾンの知る『塔』。
なのに、どうしてそこに騎士であったはずの前王を迎える・迎えないの話をしているのか。
(魔術師……だったのか……?)
「…………」
レイゾンは顔を顰めたまま考える。が、わからない。
それもそのはずだ。レイゾンは前王のことを何も知らないのだから。
白羽の前の主で、現王の兄。夭逝したということぐらいしか。
(何も……知らない……)
改めてそのことに思い至り、レイゾンは愕然とした。
下賜されるときに耳にした噂や、白羽の美貌、元は踊り子だったという経歴、そして馬の姿になったことがなかったらしいことから、前王と白羽との仲は、いかがわしいものだとばかり思っていた。
前王は、白羽に誑かされて囲い、色欲に溺れて溺愛していたのだと——そして白羽はその見た目で前王に近づき、寵を得て好き勝手に振る舞っていた騏驥だと思っていた。——そうだとばかり思っていた。
だから自分などに下賜されるのだと。
『レイゾンさまはわたくしよりも噂の方が大事なのです……』
『レイゾンさまはわたしを信じて下さったことはおありですか』
白羽の声が耳の奥で蘇り、こだまする。
そうだ。
自分は白羽を信じようとしなかった。彼を見ようとしなった。何も話そうと思わなかった。訊こうと思わなかった。信じず、見ず、話さず、訊かなかった。
何も。
彼の以前の主のことはもちろんだ。
白羽の口から聞きたくなかった。きっと幸せそうに語る様子を見たくなかったのだ。そんな声を聞きたくなかった。
(だから俺は……何も知らない……)
王のことはなにも。
だから——彼と共にいた”本当の”白羽のことも。
「……前王は……魔術師、だったのか……?」
そろそろとレイゾンは尋ねる。自分でも馬鹿な質問だとわかっていたが、確かめたかったのだ。知りたかった。白羽を慈しみ、白羽に愛されている、以前の主のことを。少しだけでも。
すると魔術師は「いや」と首を振った。
「騎士だ。もちろん。王族は生まれながらの騎士だ。だが騎士にしておくには勿体無いほどの魔術力を秘めていた」
「そんなことが……」
「……際立って優れたものは出現の経路が二種類ある。一つはその優れた特性を極限まで極めていった場合。そしてもう一つは、全く思いもよらないところから出現する場合だ。ティエンは後者だった……」
思い返すように、魔術師は言う。
「そうした突然変異的なものは、ある意味、前者よりも貴重だ。だからこそ『塔』に迎えたかったのだが……」
残念だ、と繰り返すその口ぶりと表情から、彼が本当に前王のことを惜しんでいるのが見てとれた。それほど魔術の才能があったのだろう。
王太子として生まれて、生まれながらの騎士で……けれど『塔』の魔術師が今でも惜しむほどの魔術力を秘めていた——男。
けれど彼は、『塔』の魔術師とはならずに王となった。
魔術師が残念だと嘆くということは、おそらく、前王自身の意志だけで決められたことではなかったのだろう。
考えてみれば当たり前だ。
生まれた時から騎士として生きていくことが決められた者が、それ以外で生きていけるはずがない。生かしてもらえるわけがない。
周囲が許さないだろう。
そうした圧力や鎖の重さは、よく知っている。
レイゾンとは真逆の立場だ。だが、よく知っている感覚だ。
レイゾンは、「騎士になるのは無理だ」と決められていた。
貴族ではないから「無理だ」「なれない」と決められていた。
「いままでそんなものは誰もいない」という過去に縛られて。
「お前には無理だ」と周囲からの言葉に縛られて。
けれどレイゾンはそれを打ち破れた。
自由だったからだ。頼れるのは自分一人だけ、自分の情熱だけだったけれど、その分自由だった。なんのしがらみもなかった。背負うものがなかったからだ。
けれど王族ともなれば——それも王太子として生まれた身では……。
(そんな方だったのか……)
思いがけず触れた、前王の一片。
ほんの一欠片だけだが、それを聞けたことで、今までよりもその輪郭が鮮やかになった気がする。
もっと知っていれば……自分と白羽との関係も違っていたのだろうか……。
自分の所業を思い出し、レイゾンは再び顔を顰める。
その耳に、
「だが……まあ良い」
そう続けた魔術師の声が聞こえた。
風が止み始めている。
魔術師は白羽をじっとみつめたまま続ける。
「幸い、この騏驥が残った。ならば、それで良い……」
「……俺なんかの騏驥になってしまったがな」
レイゾンが言うと、魔術師は一瞬不思議そうな顔を見せ、くすりと笑う。そのまま彼が何か言いかけた——その時。
風がぴたりと止む。
レイゾンがハッと白羽を見つめ直した直後。
微かな息音がしたかと思うと、伏せられていた瞼が震え、長い睫毛が震える。
——白羽が目を覚ました。
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