前王の白き未亡人【本編完結】

有泉

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 ◇


 ここはなんだ?

 信じられないような目の前の光景に、レイゾンは暫く息をすることも忘れていた。

 ……ここはなんだ……?

 レイゾンは胸の中で幾度も繰り返す。

 目に映るものを判断することはできているから、この場所が霊廟だろうことは想像がついた。
 だが、それまでレイゾンが知っていた霊廟とはあまりにも違っていて、すぐに事態が飲み込めない。
 第一、いったい自分はどうやってここへ来たのだ?

(確か、妙な細い通路に足を踏み入れて……)

 そのまま自然と、導かれるようにここへ来たのだ。いつの間にか辿り着いた。
 しかしその道は、振り返っても既にない。来たはずの道は掻き消えてしまっている。今や、ここにはぽつんとレイゾンだけだ。いや——レイゾンと、既にここにいた白羽だけだ。
 生きているのは二人だけ。
 二人だけが、まるで誰かにぽんと置かれたようにここにいる。
 もしくは、誰かに呼ばれたかのように。

「…………」

 レイゾンはそっと周囲を見回した。
 
 気づけば、清涼で且つ甘い香りが漂っている。
 白羽がいつも纏っていた香りだ。
 柩の周りに供えられている花の香りだろうか。それとも……。

 そしてこの、吸い込まれそうなほどの白い床石は、いったい何でできているのか。城の床や壁も白いが、ここのそれは一際だ。
 踏むことが——動くことが躊躇われてしまう。
 かと言ってずっとこのままというわけにもいかず、レイゾンは詰めていた息をゆっくりと吐き出すと、そろりと——ついそんな動きになってしまうのだ——足を進める。
 すると、その衣擦れの音で気付いたのだろう。
 柩を抱くように、凭れるように——頬ずりするようにしていた白羽が、はっと顔を上げる。その貌は、これ以上ないほどの驚きに満ちていた。

「……ど……」

 おそらくは「どうして」と言いかけたのだろう。
 しかし彼の唇はそのまま止まり、元々大きな瞳も一層大きく見開かれている。
 彼は驚愕の貌のまま、ゆっくりと柩から身を離す。白く長い髪が柩から滑り落ちる。それでも、彼はその場から離れようとはしない。
 まるでこの世で唯一の墓守のように。

 レイゾンはその光景にきつく拳を握り締める。
 そのまま一呼吸、二呼吸と置くと、声を押し出した。

「お前を……お前を連れに来た。探したのだぞ。どうして急に——いや」

 今はそれを話している場合ではない。

「……それはいい。とにかく帰るぞ。来い」

 しかしそう言って手を伸ばしても、白羽は動こうとはしない。
 むしろ顔を背け、より柩に寄り添うように身を縮こまらせる。

「…………」

 レイゾンは一歩近づいた。
 この状況で、ここが誰の霊廟かわからないほど愚かではない。
 ここは前王の——白羽の以前の主が弔われているところだ。
 だがこんな形の御霊は見たことがなかった。
 
 もちろん、土地によって弔われ方が違うことは知っている。特にこの国は周辺国を次々と併合して大きくなっていった歴史があるため、風土や風習の違いもまた大きい。徐々に統一されたと言っても、まだまだ、様々な違いは残っているのだ(土地によっては言葉すら違うこともあるらしい)。

 それに加えて王族——それも王ともなれば、レイゾンなどには想像もつかない葬られ方や弔われ方をしているのかもしれないが……。それにしても。
 こんな……まるで生きているような姿で弔われているのを見るのは初めてだ。
 おそらく生前もそうだったのだろう、高雅で優しげな面差し。優美な——そしてある意味弱々しげな肢体。柩の中の前王は美しい衣に包まれ、まるで生きているかのようだ。ただ眠っているだけのよう。
 そんな様子だから、だからなおさら、レイゾンは居心地の悪さを感じてしまう。
 柩の中にいるのは死者なのに死者ではないような……もういないのにまだいるような——。そんな気味の悪さが感じられるのだ。
 周囲の美しさとも相まって、なんだかここは異境のようにも思える。
 異境……。そう——別世界のように。

 自分は、そんな別世界に間違って嵌り込んでしまったかのように思えるのだ。なのに、白羽は当たり前のようにここにいる。むしろここにいることこそが自然だとでも言いたげな気配で。
 それがとても不愉快で、レイゾンは早く彼を連れて帰ろうと、さらに足を踏み出す。が、白羽は顔を逸らしたまま首を振った。
 
「……嫌です」

「? なんだと?」

「嫌です……わたしは、もうどこにも行きません!」

「…………」

 帰る——ではないのか。
 帰りたくありません——ではないのか。

(お前は……拒絶の言葉ですら、俺の側は自分の居場所ではないと——そう言うのか!?)

 レイゾンは、自身の胸の中に一気に怒りが噴き上がったのを感じ、堪えるように一層きつく拳を握り止めた。
 
「……白羽」

「嫌です……」

「白羽、いいから来い!」

「嫌です!」

「言うことを聞け! 俺はお前の騎士だぞ!?」

 しかしとうとう堪らず、レイゾンは声を荒らげた。
 白羽からの繰り返しの拒絶の言葉に、頭の奥が熱くなるようだ。
 騎士でありながら騏驥に拒絶される屈辱——。そしてなにより、白羽に拒絶される悔しさに、レイゾンは全身が震えるのを感じる。

「っ——」

 レイゾンは奥歯を噛み締め大股に白羽に近づくと、強引に彼の腕をとった。 

「来い!」

「嫌です!!」

「白羽!」

「あなたなど、わたしの騎士ではありません!!」

 刹那、叫ぶような声が白羽の口から上がる。その悲鳴のような声と内容に、レイゾンは思わず掴んでいた白羽の腕を離していた。
 見下ろす視線の先、白羽は全身で拒絶を示し、レイゾンを睨み上げてくる。色の違う宝玉のような左右の瞳が、果実のような唇が、雪のような肌が、髪が、全てがレイゾンを拒み、敵意を漂わせてそこに在る。

 この上ない屈辱と憤りを感じながら、レイゾンは白羽を睨む。が、白い騏驥はレイゾンから目を逸らすことなく、強い意志を持ってレイゾンを睨み返してくる。その様は、まるで白い炎のようだ。
 どこにそんな激情を隠し持っていたのか。
 その壮絶なまでに美しい怒りを目の当たりにしながら、レイゾンは過去の一瞬を思い出していた。

 ああ……。
 ああ——そうだ。
 彼は一度、同じように怒りを露わにしたことがあった……。

 初めて会った日。彼がレイゾンのものになったはずの日。
 彼の以前の主について、レイゾンがあまりいい言い方をしなかったときだ……。

 ——

「……いい加減にしろ、白羽」

 レイゾンは自分の声が自分のものではないほど低く昏くなっていることを感じつつ、しかしそれを御せないまま言葉を継いだ。

「勝手に姿を消した挙句その言い草では、俺の我慢にも限界があるぞ」

「っ……ほ、本当のことではありませんか! レイゾンさまは……レイゾンさまは、陛下の理不尽なご命令に対してもわたくしを従わせようとなさった。命令を受け入れて差し出そうとなさった! あの酒宴の場でご自分が何をなさろうとしたか、もうお忘れですか?」

「し……」

「レイゾンさまがお忘れでも、わたくしは覚えております! 即座にお断りくださったならともかく、あんな……あんなに迷われた挙句にわたしを従わせようとなさったような方を、どうしてわたくしの騎士と思えましょうか!?」

「黙れ!」

 レイゾンは叫んだ。
 覚えている。言われるまでもない。覚えている。だが——。

「だがお前は俺の騏驥だ。騎士としてのあり方がどうであろうが、正しい振る舞いがどうであろうが、お前は俺のものだ! ならば大人しく言うことを聞け!」

「そ——」

「だいたい——」

 白羽の声を遮って、レイゾンは叫んだ。

「だいたい……お前がそういう口をきくこと自体がおかしいことだ! お前は、先ほどの酒席の件を持ち出して言うが、そもそもお前は一度でも俺を主だと思ったことはあるか!?」

「!」

 白羽が絶句する。
 戸惑うようなその貌に、レイゾンはこみ上げる怒りの制御が利かなくなっていく。
 わかっていたことだ。この騏驥は自分のことを主だと思っていない。未だ心は以前の主のものなのだと。
 だがそれを目の当たりにすると——見せつけられると胸の奥が焼けつくように痛む。
 ただでさえ——場所が場所だ。
 しかもこの騏驥は、全て放り出して、レイゾンのことなど気にしていないかのように出奔して、ここへ籠っていたのだ……。もう死んでいる前王の元へ……。

(俺は……死んでもうずいぶん経つ騎士にすら……)

 勝てない、ということか。

 柩の中の、動かない身体。骸。
 けれどそんな前王を、白羽はまだ想い続けている。
 今の主である自分よりも。
 目の前にいる、自分よりも……。
 
 無言のまま柩とその傍らの白羽をじっと見つめるレイゾンの、そのただならない気配が伝わったのだろう。
 白羽の滑らかな頬が、怯えたように引きつる。
 そして避けるように後ずさりしかけたその身体を——腕を、レイゾンは反射的に掴んでいた。

「っ——」

 白羽が、びくりと身を縮こまらせる。
 顔が一層歪む。なお逃げようとするその様子に、レイゾンの手にますます力が籠められる。 

 どうして。
 どうしてだ。
 何をしろというのだ。
 どうしろというのだ。

 どうすればこの騏驥は俺の騏驥になるのだ。
 どうすれば。
 どうすればこの美しい騏驥は俺のものになるのだ。

 もっと優しくすればいいのか?
 機嫌を取って?
 騏驥相手に?
 それとももっと威厳を増せば?
“騎士らしく”振舞えば?

 そうだ——騎士。
 俺は騎士になった。
 俺は騎士だ。

 苦労して。
 苦労して。
 騎士になった。
 騏驥を手に入れたくて。

(けれど騎士の資格がないと言われた)
(あなたはわたしの騎士じゃないと言われた)

 うるさい。
 煩い。

 俺は騎士だ。
 この美しい騏驥の騎士——。

 どんなことをしようが、俺はこの上ない貴人彼の前の主に並ぶこともできないのに?
  
「レ……」

「煩い!!」

 痛みのためだろう。柳眉を寄せて抵抗の声を上げかけた白羽に、レイゾンは浴びせるように声を荒らげた。
 それまで以上に激しい声音だったためだろう。白羽の顔が恐怖に引き攣る。美しい貌が歪む。彼は嫌々をするように頭を振ると、なんとか逃げ出そうと、必死になってレイゾンの手から腕を解こうとする。
 
「っ……は、離してください……っ!」

「…………」

「レイゾンさま……っ——ぃぁ……っ!」

 腕が、白い衣のしなやかな身体が、レイゾンから逃げようと繰り返し藻掻く。
 必死になって——半ば泣きそうになりながらレイゾンから逃れようと暴れることを繰り返す。
 レイゾンのものであるはずの騏驥が。
 レイゾンのものであるはずの、美しい騏驥が。
 
「……るな……」

 レイゾンは掴んだ腕にギリギリと力を込めながら、知らず知らずのうちに呟いていた。
 白い騏驥が逃げられぬよう強く捕まえたまま、我知らず呟いていた。

 逃げるな。
 お前は俺のもののはずだ。
 俺のものだ。

 逃げるな。

 ——逃がさない。

 頭の中が熱い。それしか考えられなくなる。
 掴む手に力を込めると、白羽は悲鳴のような声を上げる。
 それでも藻掻き続ける身体を、レイゾンは逃がさぬように組み敷いた。
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