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36 白羽、追憶(2)
しおりを挟むかの人から呼び出しを受けたのは、翌日のことだった。
「旦那さま」の屋敷での興行ののちは特に何事もなく一座で帰途についた。座頭は予定外れに終わったことに——つまりは一層儲け損ねたことに渋い顔をしていたから、日が変わって使いの男がやってきた時にはほくほくした顔でわたしを送り出した。
(その使いの男は、わたしを連れ出すためだけにわざわざ金を持ってきていた。十分すぎるほどの)
「いいか、今度は抜かるなよ。わざわざ改めてお前を呼び出すほどだ。気に入られているんだ。ちゃんといい目を見せてやって、貰うものは貰ってこいよ」
——そんなふうに言って。
わたしはといえば、少し驚いていた。かの人は——あの王都から来た客人の青年貴族は、わたしの舞を見ていても特に変化を見せなかったためだ。微笑むわけでもなく、退屈そうにするでもなく、ましてや欲情した様子を見せるでもなく。
彼は、ずっと変わらなかった。
ずっと変わらず、わたしを見つめていた。
だから伽に呼ばれるとすれば別の客人相手だろうと思っていた。
でも、結局誰からも声はかからなかった。
帰り道、わたしはほっとしたことを思い出す。こんな風に思ったこともまた、初めてのことだった。
「足元に気を付けてください」
わたしは、使いとしてやってきた男に先導されるまま歩き続けていた。彼は折に触れてわたしを気遣ったけれど、控えめで事務的な声音から、わたしを気遣っているのではなく、自身の主人を気遣って——わたしを呼ぶかの人を気を遣ってわたしに丁寧に接しているのだということはすぐにわかった。でなければ、わたしのような者を気遣ってくれる人はいない。
逆に言えば、こんなわたしにも「気をつけて」と声をかけるぐらい、この使いの男は主人に忠実なのだ。
「旦那さま」の屋敷へ行くのかと思えばそうではなく、わたしたちは次第に街の中心から離れていった。段々と家が少なくなり人も少なくなり——けれどわたしは怖いとは思わなかった。
今にして思えば、嬉しかったのだろう。かの人に再び会えることが。それもまた、初めての想いだった。
そんな風にして、どれほど歩いただろうか。
着いたのは、街の外れ。大きな道を外れ、細い道を辿るように歩いたさらに奥。そこにひっそりと在った、小さな屋敷だった。
「…………」
足を進めながら、わたしは声にならない声をあげていた。
そこは「旦那さま」の豪奢な屋敷に比べればとてもささやかだったけれど、庭にはとりどりの花が——それも野の花が咲き乱れ、それはそれは美しかったのだ。よくよく見れば、屋敷も古くはあるが荒れたような様子も見窄らしさもなく、むしろその鄙びた風情は周囲の山々の緑の借景とも相まって、現実離れした雰囲気を漂わせていた。
心地よい風、甘い花の香り、柔らかな木漏れ日、時折届く鳥の声。
今まで暮らしていた忙しない世界とはまるで別の世界に足を踏み入れてしまったかのような高揚感に、ぼうっとしかけた時。
微かに衣擦れの音がしたかと思うと、かの人が——会いたかったあの人がそこに佇んでいた。
昨夜と違い、仄かに——しかし間違いなく微笑んで。
「…………」
目が合って、そのままどのくらい見つめ合っていたのだろう?
ややあって——再び会ったかの人は、笑みを湛えたまま静かに口を開いた。
「こんなところまで呼びつけてすまなかった。足が疲れただろう。こちらへおいで」
今まで聞いたことがないぐらい透き通った声だった。
そして彼は滑るように歩き始める。着ている外衣の裾が優雅に揺れた。昨夜の装いも素晴らしかったけれど、今日のそれらも昨夜に劣らない。昨夜よりももっと気軽なくつろいだ格好だけれど、その軽やかさは彼の浮世離れした気配にとても似合っている。柔らかな白、瑠璃、翠……。彼が歩くたびに色が溢れる。
戸惑ったものの、わたしは誘われるまま彼に続いた。そうすることが当然のように思えたからだ。名前も知らない人。わたしをここへ呼んだ目的も未だ教えてくれない人。それでも。
後を追いながら、そっと彼を観察する。後ろ姿を盗み見るだけでドキドキした。姿勢がいい。艶々とした濃茶の長い髪にはさりげなく幾つもの玉が飾られている。爽やかな香り。その香りに包まれたくてつい近づいてしまう。
迷いのない足取りだから、ここは彼の馴染みの場所なのだろう。王都の貴族の別荘か何かなのだろうか……?
屋敷の中に入るのかと思えば、彼は庭のさらに奥へと足を向ける。思っていたよりも広いようだ。木が多い。花も。まるで小さな森の中のようだ。秘密の森。
やがて彼が足を止めたのは、中庭? 裏庭? に置かれた、小ぶりな桌と腰掛の傍らだった。磨かれた石でできているように見えるそれらを視線で示すと、彼は「座るといい」とわたしにすすめてくれた。
それは正直、ずっと歩いて疲れていたわたしにはありがたい申し出だった。歩いていた最中は夢中だったから気づかなかったが、さっきから足の裏や脛が痛くなっていたのだ。
だが、そう言われてすぐに座れるほどの度胸はない。わたしが遠慮して首を振ると、彼はますます目を細めて笑った。声を上げて笑ったわけではないが、そうして笑うとようやく血の通った人間らしく思えた。昨夜とは別人——とは思わないが(こんなに貴やかで美しい人は二人といないと思う)、印象はまるで違った。
彼は「座りなさい」と、今度は諭すようにわたしに言った。それでもわたしが座らずにいると、彼は「遠慮するとは可愛らしいことだ」と笑いながら言い、「それなら」と先に腰掛に腰を下ろす。座る動作も流れるようだった。
「これでいいだろう。座りなさい。話がある」
彼は、今度は少し強い口調で言った。いや——違う。強くはない。怖くもない。こちらを威嚇するような気配は感じられなかった。けれど彼の口から溢れたその言葉は柔らかく優しくあっても紛れもなく命令で、しかもそれに従うことが当然と思ってしまうような、そんな声音だった。
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