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35 白羽、追憶
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「白羽、仕事だ」
あれは、わたしがまだ少年だった頃だ。母を亡くし、一座に拾われ踊り子として共に暮らし始めてから数年が経った頃だった。
珍しくのんびりとした陽気の昼下がり。わたしと同じような年頃の子供たちと共に衣装の繕いものをしていたとき、座頭に呼ばれてそう告げられたのだった。
金を稼ぐことに長けた彼は、自身の天幕にわたしを呼びつけ、いかにも期待一杯という顔で言った。
「今夜だ。例の旦那さまが、また我々を呼んでくださるそうだ。客がいるらしい。噂では王都からの客人らしいから、こっちも結構な金持ちだぞ。せいぜい気張れよ。気に入られれば、もっともっと儲かる。——いいな」
「…………」
すでに舞うこと以外でも「気に入られる」ことを前提として話しているかのような——目の前に出された金を前に舌なめずりしているかのような声を聞きながら、わたしは無言のまま頷いた。
もとより「否」はないのだ。命じられれば従うしかない。頷くしかないのだ。たとえそれが、どんなことでも。
わたしは一座で暮らすようになってから、舞いを見せると共に、他の女性たち同様、求められれば客と夜を共にしていた。そしてそれはほぼ「いつも」だった。
もちろん女性を好むものも多かったけれど、わたしの舞いは、観た男たちの興味を大いに引いたようだった。
わたしは教えられた通りに舞っていただけだったのだけれど、どうやらとても扇情的だったらしい。
わたしの顔が、自分の身体の下でどんなふうに快感に歪むのか。肌がどんな風に熱を持つか——頬がどんな風に色づくか。吐息の甘さは? 声は? 身体はどのように蠢きどれほど乱れるのか……。
男たちは勝手に想像して興奮し、期待してわたしを伽に呼び、わたしはそれに応じた。
正直なことを言えば、もちろん嫌だった。けれど身寄りもなく、一座を離れれば生きていける見込みがなかった。せめて見た目が「普通」であったならよかったものを、わたしは髪や瞳の色が常人とは異なっていたのだ。白い髪に左右で色の違う瞳。今は髪を染め、瞳も片側は隠すような髪型にしているが、それは踊り子として一座にいるからできることで、そのまま普通の暮らしができるかと言われれば無理だと思えた。
幸いにして、座頭はわたしの「売りどころ」をきちんと計算しているようで、相手はそれなりに選ばれていたから、必要以上に弄ばれるような目に遭うことはなかった。
不快なひとときを我慢すれば、確かにお金はもらえたのだ。嬉しさよりも身体と心が削られるような辛さの方が多かったものの、明日の食事の心配をして一人で生きていた頃よりはよほどましで、だからわたしはいつも言われるまま、呼ばれれば舞い、求められればその身体をも差し出していた。
それまでもが自分の「仕事」なのだと思って。
そんな風に街から街へ——成望国のあちらからこちらまでをふらふらと渡り歩いて——一座がこの街にやってきたのは半月ほど前のことだった。
山間にあるこの街は珍しい石が採れるらしく、人の行き来が活発だった。元々は素朴な土地柄だったのか、あからさまな派手さや華やかさはなかったものの、豊かさが人々に余裕をもたらしているからか、街の人々も一座に優しかった。
街によっては「他所者」の一座を嫌い、嫌がらせをしてくる者たちもいたのだ。
そしてこの街で一座を贔屓にしてくれていたのが、薬の商いをやっているという「旦那さま」だ。屋号や名前は聞いたけれど忘れた。ただ座頭が「旦那さま」と呼んでいるのでわたしたちもそう呼んでいた。噂ではこの辺りの領主様の縁者らしいが、それもわたしにとってはどうでもいいことだった。
そんな豪商である「旦那さま」は、わたしたちが街に着いたその日の夜に一座を屋敷に呼んだ。そしてわたしたちの舞いや歌、余興を気に入ったらしく、さらにはその次の日も、その次の日も呼んでくれた。おかげで通常の興行もなおさら賑わい(「旦那さま」が——街のお金持ちが気に入ったことが評判になったのだ)、座長はすっかりこの街と「旦那さま」が気に入ったようだった。
わたしはといえば……いつも通りだった。
「旦那さま」はわたしを伽に呼ぶことはなかったが、彼が招いていた客から求められることは毎回だった。つまりは「そういうこと」だったのだろう。客の夜伽の相手となることも含めて、わたしたち一座は呼ばれていたのだ。珍しくないことだった。金額が大きかったことを別にすれば。
そして——迎えた夜。
わたしはいつものように舞台に上がった。白い装束は、「旦那さま」がわざわざ用意してくれていたものだった。一座の他の者たちの装束も同様で、こんなことは初めてだった。
舞台の前にはいつものように「旦那さま」が、そして数人の男たちがいた。思っていたよりも少ないな、というのが最初の印象だった。一座の全員を——それこそまだ手伝いしかできないような子供まで呼んでの興行を望まれたから、どれほど大勢の客なのだろうと思っていたのに、今までよりも少ないぐらいだった。内輪の集まりだったのだろう。が、そんな少ない客人に対して「一座を上げて楽しませろ」というわけだから、「旦那さま」がこの客たちにどれほど配慮しているかは、わたしにもなんとなく知れた。
それに何より、彼らの身なりは今までのどんな客よりも立派だったのだ。旅先の酒席だからか寛いでいたし、わざとさりげない装いにしていたようだが、それこそ、国のあちこちを巡り、貴族や金持ちにも色々あるのだと知っているわたしたちには一目でわかることだ。滅多に見ないような——初めて見るような洗練されたいでたち。
しかしそれよりも驚いたのは、そこにいた一人の男の——おそらくは一番の客人だった若い男の、あまりに静かな佇まいだった。
はっきり言う。死人が座っているかと思ったのだ。
面差しは貴やか。物腰も柔らかく、伏し目がちだが優しげな目元。スッと通った鼻筋、上品な口元。
身なりも他の男たちよりさらに良く——しかし彼は、まるで死んでいるようだった。
どうしてそう感じたのかはわからない。でもそう感じて、怖かった。
そして同時に、彼のことがとても気になった。
大金持ちの「旦那さま」が客として迎え、細やかに気をつかうほどの相手だ。王都から来たというが、きっと貴族だろう。それもかなり高位の。
ならばきっと、何もかも持っているような人だ。なのに、どうしてあんなに……辛そうな、寂しそうな……そんな雰囲気なのだろう?
わたしは舞い始めてもそればかりが気になっていた。いつものように舞いながら、しかしいつになく彼ばかりが気になっていた。
そして次第に——少しだけでも——ほんの少しだけでもわたしの舞いで彼の心を慰めることができればいいと思い始めていた。
自分の芸に自信があったわけでは決してない。王都の貴族なら、もっと達者な者の舞いも多く目にしているだろう。それでも、今、この一時だけでも、少しだけでも彼の心が和めばいいなと思ったのだ。
と——。
不意に、目が合った。
気怠げな彼の目は穏やかだった。形のいい双眸は柔らかい光を宿していた。
そして引き込まれるような寂寥感があった。底知れぬ寂寞。
なぜ? と胸の中で密かに彼へと問うと、聞こえたかのように彼が瞬く。
わたしは舞いながら彼を見つめる。
彼もまたわたしを見ていた。
わたしは彼のためだけに舞った。
そんなことは初めてだった。
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