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33 眠る騏驥
しおりを挟む手の中の脚から完全に力が抜けたのを感じ、レイゾンはふっと視線を上げた。目に映ったのは、重ねた枕にゆったりと身を預け、くぅくぅと心地よさげな寝息を立てている騏驥の姿だ。
寝た。
——寝たのか。
寝たのかこの騏驥は。
騎士に世話してもらっている最中に。
「…………」
——いい度胸だ。
だが、そんな風に呆れるような思いを抱きつつも怒りは湧いてこないのは、おそらく、自分の手指で騏驥を籠絡した気持ちよさ——満足感もあるためだろう。
調教以外で触れ合うとも思っていなかったこの白い騏驥が、自分の施術によって無防備な姿を、寝顔を晒していると思うと気分がいい。
相手がどういう騏驥であれ、どんな場合であれ、思う通りに動かせれば騎士として気分がいいのだ。ましてやこの白い騏驥のような、少し「訳あり」のものなら尚更に。
それに、気持ちよくて眠ってしまったということは、少なくとも脚の具合は悪くない——朝以降悪化してはいないということだ。薬が効いているためもあるのだろうが、それでも快方に向かっているなら何よりだ。
払い下げられた騏驥であっても、そして騏驥の側に問題があったとしても(それまでろくに走ったことがなかったような騏驥は問題があるとしか言いようがない)、貰ってすぐに壊したとなれば、さすがにあまり寝覚めが良くない。騎士としての資質も改めて問われるかもしれない。それは嫌だった。
なにしろ、自分には何の後ろ盾もないのだ。騎士学校に入る前から、ヴォエン教官には世話になったとはいえ、それだけではあまりに心もとない。
かといって——いまさら貴族に生まれ変われるわけでもないのだから、仕方がないが。
それにしても。
「……無防備だな」
レイゾンは、薬を塗った白羽の足をひとしきり揉み解してやると、手の中の白く小さな足を静かに寝台の上に下ろしてやる。そして改めて彼の姿を見つめた。
白羽は——レイゾンの騏驥は、着飾っているわけでもないのにやはり美しかった。
規則正しい寝息。
よほど気持ちよかったのだろうか。随分と幸せそうな顔で眠っている。
重なっている枕に沿って流れる長い髪は銀に近い白。幼い頃、降るはずがない南の土地に珍しく降った雪の色だ。奇跡のように美しい色。触れたいのに触れるとなくなってしまう色。肌も白い。こんなに透き通るような肌の男を——女もだが、レイゾンは見たことがなかった。
そして仄かに色づいた頬に、一層紅い唇。
落ち着かなくなるような引き寄せられるような不思議な感覚を胸に湧き起こさせる瞳は、今は閉じられている。長い睫毛。これも白い。細工物のようなそれが呼吸に合わせて微かに震えるさまは、いつまでも見ていられる気がするほどだ。
「…………」
実際。知らず知らずに見入っていたレイゾンは、どこからともなく現れた子猫の小さな鳴き声に、はっと我に返った。貰ってきた子猫は、ニァニァと小さく泣きながらたどたどしい足取りで夜具の上を歩き、白羽に近づいていく。
レイゾンは猫を追い払おうとして手を上げ——白羽が起きてしまうと思ったのだ——それを止めることを繰り返し、程なく、所在なく手を下げた。
(何をやっているのだ、俺は)
騏驥の安眠などどうでもいいことのはずだ。近づいた猫が白羽を起こそ
うが起こすまいが、どうでもいいことのはずなのだ。いやむしろレイゾンが起こすべきではないのか。
騎士に世話させて寝るとはなんたること、と。叩き起こして叱るべきではないのか。
なのに何をじっと見つめて——見守って——猫のことまで気を遣ってやっているのか。
求めて望んで得た騏驥でもないものを……。
(くそ)
何だか敗北感を感じ、レイゾンは顔を顰める。そうしていると、猫は自分がするべきことを理解しているかのように、白羽に近づきすぎないところて静かに丸くなる。
寛いで眠る美しい騏驥と愛らしい猫。心が洗われるような光景だ。
レイゾンは、そう感じずにはいられない自分を仕方なくも認めつつ、しかし同時に、やはり「これは自分の騏驥ではない」と思わずにはいられない。
美しすぎるのだ。これは。
自分では持て余す——。
「……そろそろ、機会を見て調教師に頼んでみるか……」
レイゾンは白羽を見つめたままポツリと独りごちた。
厩舎地区に通うようになり、そこにいる騏驥たちの調教に騎乗するようになり、幾人かは顔見知りの調教師もできた。本当はもう少し時間をかけて親交を深めてからにしようと思っていたが、それを待たず、もう頼んでもいいのではないだろうか。
自分に合いそうな騏驥と引き合わせてもらうことを。
騏驥の側に断る権利はないから、騎士が望めばどんな騏驥にも乗れる——とはいえ、どんな騏驥がいるか知らなければ「乗りたい」と希望することもできない。当然、その騏驥を自分のものにすることも。
自力で一頭一頭確かめて乗ってみるのが一番間違いないが、それでは時間がかかりすぎる。レイゾンの場合、他の騎士(貴族)のように幼い頃から騏驥を見慣れているような恵まれた者たちとは違うため、細かな良し悪しを見抜く目にもあまり自信がない。
(馬なら、少しは見る目があるつもりなのだがな……)
となれば、専門家に任せた方がいいだろう。
自分に似合いそうな、手が合いそうな騏驥。白羽よりも強く——勇ましく——とにかく自分に合いそうな……。
(“これ”が悪いわけではないのだが……)
(いや——悪いのか……?)
走りは悪くない。むしろ思っていたよりもいい。根性もあるようだ。
が……。
「前王の寵騏、か……」
それを思うと——思い返すと、どうしても胸がムカムカしてしまうのだ。
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