37 / 239
33 眠る騏驥
しおりを挟む手の中の脚から完全に力が抜けたのを感じ、レイゾンはふっと視線を上げた。目に映ったのは、重ねた枕にゆったりと身を預け、くぅくぅと心地よさげな寝息を立てている騏驥の姿だ。
寝た。
——寝たのか。
寝たのかこの騏驥は。
騎士に世話してもらっている最中に。
「…………」
——いい度胸だ。
だが、そんな風に呆れるような思いを抱きつつも怒りは湧いてこないのは、おそらく、自分の手指で騏驥を籠絡した気持ちよさ——満足感もあるためだろう。
調教以外で触れ合うとも思っていなかったこの白い騏驥が、自分の施術によって無防備な姿を、寝顔を晒していると思うと気分がいい。
相手がどういう騏驥であれ、どんな場合であれ、思う通りに動かせれば騎士として気分がいいのだ。ましてやこの白い騏驥のような、少し「訳あり」のものなら尚更に。
それに、気持ちよくて眠ってしまったということは、少なくとも脚の具合は悪くない——朝以降悪化してはいないということだ。薬が効いているためもあるのだろうが、それでも快方に向かっているなら何よりだ。
払い下げられた騏驥であっても、そして騏驥の側に問題があったとしても(それまでろくに走ったことがなかったような騏驥は問題があるとしか言いようがない)、貰ってすぐに壊したとなれば、さすがにあまり寝覚めが良くない。騎士としての資質も改めて問われるかもしれない。それは嫌だった。
なにしろ、自分には何の後ろ盾もないのだ。騎士学校に入る前から、ヴォエン教官には世話になったとはいえ、それだけではあまりに心もとない。
かといって——いまさら貴族に生まれ変われるわけでもないのだから、仕方がないが。
それにしても。
「……無防備だな」
レイゾンは、薬を塗った白羽の足をひとしきり揉み解してやると、手の中の白く小さな足を静かに寝台の上に下ろしてやる。そして改めて彼の姿を見つめた。
白羽は——レイゾンの騏驥は、着飾っているわけでもないのにやはり美しかった。
規則正しい寝息。
よほど気持ちよかったのだろうか。随分と幸せそうな顔で眠っている。
重なっている枕に沿って流れる長い髪は銀に近い白。幼い頃、降るはずがない南の土地に珍しく降った雪の色だ。奇跡のように美しい色。触れたいのに触れるとなくなってしまう色。肌も白い。こんなに透き通るような肌の男を——女もだが、レイゾンは見たことがなかった。
そして仄かに色づいた頬に、一層紅い唇。
落ち着かなくなるような引き寄せられるような不思議な感覚を胸に湧き起こさせる瞳は、今は閉じられている。長い睫毛。これも白い。細工物のようなそれが呼吸に合わせて微かに震えるさまは、いつまでも見ていられる気がするほどだ。
「…………」
実際。知らず知らずに見入っていたレイゾンは、どこからともなく現れた子猫の小さな鳴き声に、はっと我に返った。貰ってきた子猫は、ニァニァと小さく泣きながらたどたどしい足取りで夜具の上を歩き、白羽に近づいていく。
レイゾンは猫を追い払おうとして手を上げ——白羽が起きてしまうと思ったのだ——それを止めることを繰り返し、程なく、所在なく手を下げた。
(何をやっているのだ、俺は)
騏驥の安眠などどうでもいいことのはずだ。近づいた猫が白羽を起こそ
うが起こすまいが、どうでもいいことのはずなのだ。いやむしろレイゾンが起こすべきではないのか。
騎士に世話させて寝るとはなんたること、と。叩き起こして叱るべきではないのか。
なのに何をじっと見つめて——見守って——猫のことまで気を遣ってやっているのか。
求めて望んで得た騏驥でもないものを……。
(くそ)
何だか敗北感を感じ、レイゾンは顔を顰める。そうしていると、猫は自分がするべきことを理解しているかのように、白羽に近づきすぎないところて静かに丸くなる。
寛いで眠る美しい騏驥と愛らしい猫。心が洗われるような光景だ。
レイゾンは、そう感じずにはいられない自分を仕方なくも認めつつ、しかし同時に、やはり「これは自分の騏驥ではない」と思わずにはいられない。
美しすぎるのだ。これは。
自分では持て余す——。
「……そろそろ、機会を見て調教師に頼んでみるか……」
レイゾンは白羽を見つめたままポツリと独りごちた。
厩舎地区に通うようになり、そこにいる騏驥たちの調教に騎乗するようになり、幾人かは顔見知りの調教師もできた。本当はもう少し時間をかけて親交を深めてからにしようと思っていたが、それを待たず、もう頼んでもいいのではないだろうか。
自分に合いそうな騏驥と引き合わせてもらうことを。
騏驥の側に断る権利はないから、騎士が望めばどんな騏驥にも乗れる——とはいえ、どんな騏驥がいるか知らなければ「乗りたい」と希望することもできない。当然、その騏驥を自分のものにすることも。
自力で一頭一頭確かめて乗ってみるのが一番間違いないが、それでは時間がかかりすぎる。レイゾンの場合、他の騎士(貴族)のように幼い頃から騏驥を見慣れているような恵まれた者たちとは違うため、細かな良し悪しを見抜く目にもあまり自信がない。
(馬なら、少しは見る目があるつもりなのだがな……)
となれば、専門家に任せた方がいいだろう。
自分に似合いそうな、手が合いそうな騏驥。白羽よりも強く——勇ましく——とにかく自分に合いそうな……。
(“これ”が悪いわけではないのだが……)
(いや——悪いのか……?)
走りは悪くない。むしろ思っていたよりもいい。根性もあるようだ。
が……。
「前王の寵騏、か……」
それを思うと——思い返すと、どうしても胸がムカムカしてしまうのだ。
1
お気に入りに追加
162
あなたにおすすめの小説
君に望むは僕の弔辞
爺誤
BL
僕は生まれつき身体が弱かった。父の期待に応えられなかった僕は屋敷のなかで打ち捨てられて、早く死んでしまいたいばかりだった。姉の成人で賑わう屋敷のなか、鍵のかけられた部屋で悲しみに押しつぶされかけた僕は、迷い込んだ客人に外に出してもらった。そこで自分の可能性を知り、希望を抱いた……。
全9話
匂わせBL(エ◻︎なし)。死ネタ注意
表紙はあいえだ様!!
小説家になろうにも投稿
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

皇太子夫妻の歪んだ結婚
夕鈴
恋愛
皇太子妃リーンは夫の秘密に気付いてしまった。
その秘密はリーンにとって許せないものだった。結婚1日目にして離縁を決意したリーンの夫婦生活の始まりだった。
本編完結してます。
番外編を更新中です。

とまどいの花嫁は、夫から逃げられない
椎名さえら
恋愛
エラは、親が決めた婚約者からずっと冷淡に扱われ
初夜、夫は愛人の家へと行った。
戦争が起こり、夫は戦地へと赴いた。
「無事に戻ってきたら、お前とは離婚する」
と言い置いて。
やっと戦争が終わった後、エラのもとへ戻ってきた夫に
彼女は強い違和感を感じる。
夫はすっかり改心し、エラとは離婚しないと言い張り
突然彼女を溺愛し始めたからだ
______________________
✴︎舞台のイメージはイギリス近代(ゆるゆる設定)
✴︎誤字脱字は優しくスルーしていただけると幸いです
✴︎なろうさんにも投稿しています
私の勝手なBGMは、懐かしすぎるけど鬼束ちひろ『月光』←名曲すぎ
大嫌いだったアイツの子なんか絶対に身籠りません!
みづき(藤吉めぐみ)
BL
国王の妾の子として、宮廷の片隅で母親とひっそりと暮らしていたユズハ。宮廷ではオメガの子だからと『下層の子』と蔑まれ、次期国王の子であるアサギからはしょっちゅういたずらをされていて、ユズハは大嫌いだった。
そんなある日、国王交代のタイミングで宮廷を追い出されたユズハ。娼館のスタッフとして働いていたが、十八歳になり、男娼となる。
初めての夜、客として現れたのは、幼い頃大嫌いだったアサギ、しかも「俺の子を孕め」なんて言ってきて――絶対に嫌! と思うユズハだが……
架空の近未来世界を舞台にした、再会から始まるオメガバースです。

白金の花嫁は将軍の希望の花
葉咲透織
BL
義妹の身代わりでボルカノ王国に嫁ぐことになったレイナール。女好きのボルカノ王は、男である彼を受け入れず、そのまま若き将軍・ジョシュアに下げ渡す。彼の屋敷で過ごすうちに、ジョシュアに惹かれていくレイナールには、ある秘密があった。
※個人ブログにも投稿済みです。

絶対に間違えないから
mahiro
恋愛
あれは事故だった。
けれど、その場には彼女と仲の悪かった私がおり、日頃の行いの悪さのせいで彼女を階段から突き落とした犯人は私だと誰もが思ったーーー私の初恋であった貴方さえも。
だから、貴方は彼女を失うことになった私を許さず、私を死へ追いやった………はずだった。
何故か私はあのときの記憶を持ったまま6歳の頃の私に戻ってきたのだ。
どうして戻ってこれたのか分からないが、このチャンスを逃すわけにはいかない。
私はもう彼らとは出会わず、日頃の行いの悪さを見直し、平穏な生活を目指す!そう決めたはずなのに...……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる