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19 他のことはともかく
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「…………」
扉が閉まると、白羽の口から「はーっ」と長い息が零れた。
自分の声じゃないようだ。震える脚で踏ん張ろうとしてよろけてしまうと、
「大丈夫ですか!?」
サンファがその背を支えてくれた。
白羽は「うん……」と何とか頷いた。
まだ起きただけなのに、既に疲労困憊だ。
寝起きで、身体が痛くてそれだけでも大変なのに、まさか朝から騎士と——レイゾンと揉めることになるとは思っていなかった。
彼はどう思っただろう。部屋を出て行ってくれたのはよかったしサンファがお咎めなしだったこともよかったが、スクミのこともバレてしまっただろうか……。
だとしても——だとしたら、いよいよゆっくりとはしてられない。
『一秒でも速く来い』
レイゾンは言った。
こちらの体調を察したにせよ、いないにせよ、そう言われれば白羽のすることは一つだ。
彼が求める以上に速く、きちんとした装いで調教に向かうこと。そして調教をこなすこと、だ。
「サンファ、馬装を」
白羽は言うと、痛みを堪えて庭へ向かう。窓枠の細やかな装飾が美しい掃き出し窓を大きく開けてそろりと一歩踏み出すと、朝露を含んだ芝が心地よく足裏を擽る。白羽はほっと息をついた。
爽やかな朝の空気。胸いっぱいに吸い込む。瑞々しい木々と、花の香り。
走れるだろうか?
馬の姿に変われるだろうか。その姿で満足のいく走りができるだろうか。
改めて想うと不安になる。
騏驥はほぼ自由意志で姿を選んで変えることができる。時間的な限界があるため、ずっと人の姿でいることはできないが、人から馬の姿へは「変わろう」と思えばいつでも変われるはずなのだ。——本来なら。
ただ心身に問題がある場合はその限りではない……と言うのは騏驥たちの間では通説になっている。実際、馬の姿の時に嫌な思いをしたせいで、その後上手く変われなくなったり、逆に、他人の話し声が煩わしくて、ずっと馬の姿でいたところ、いざ人の姿になろうとした時には戸惑った者もいると聞く。
今朝の白羽は昨日までほど「心身ともに健康」とは言い難い……。
とはいえ、それを言えばティエンが死んでからはずっと「以前のように健康ではない」のだが。主に心が。
だがそれでも——変わるしかない。そして調教に行くしかないのだ。
動きはまだぎこちなくても、歩くごとに節が痛んでも——それでも。
(それに……)
白羽は、自身の二の腕をそっと撫でた。
先刻、レイゾンが触れたところだ。騏驥の身体に気を遣った騎士の手だった。無骨な造りの手とは思えない繊細な触れ方だった。
思い返すと、続けて、彼に抱きしめられたことも思い出された。
抱きしめられた?
いいえ、違う。あれは彼に助けられただけだ。彼は目の前で倒れそうになった騏驥に咄嗟に手を伸ばしただけ。
だがそうして抱き止めてくれた腕も、力強くも優しかった。
あの騎士はそういう……少し変わったところのある騎士なのだ——。
白羽は思う。思い出す。今までの彼との調教を。
レイゾンに対して決していい印象を抱いているわけではないにもかかわらず、調教を止めたい、止めてほしいと思わないのは、彼が……。
と、その時、背後から気配がした。
サンファだ。馬装一式を持った彼女が付いてくる。
白羽はほどなく脚を止めると、振り返ってサンファを見る。彼女の手には調教用の鞍が、鎧がある。そして……何か見慣れないものがある。
細長い布をまとめたような、集めたような形をしている。
「それは……?」
尋ねると、サンファは「それ」をこちらに見せてくれながら言った。
「その……脚を守るための装具……だそうです」
「?」
だそう、とは彼女にしては珍しい曖昧さだ。
軽く首を傾げると、彼女は「ええと……」と前置きして言った。
「あの騎士の従者が、『もしよければどうぞ』とくれたのです。その、白羽さまのような特別な騏驥に使うのはどうかと思ったのですが、あの従者曰く、これを脚に巻けば保護になるとかで……。元々は馬に使っているものらしいのですが、これは特別に騏驥用の魔術も施されているらしく……」
「馬……」
「あ……お、お嫌ならもちろんこれは使わずいつものように——」
慌てたように言うサンファを少し可笑しく思いながら、白羽は「ううん」と首を振った。
「せっかくだから、それも使ってみよう。あの騎士や従者は、元々馬には慣れた生活をしていたようだし、ならば使っているものにも詳しいだろうから」
「はい……」
「それに、せっかくサンファが仲良くなった相手からの贈り物なら、使ってみたほうがいいだろう?」
「! な——仲良くなってなんかいませんよ!」
狼狽える様子は、ますますいつもの彼女らしくない。が、彼女がレイゾンの従者と「比較的」親しくしているのは白羽も何となく知るところだ。
サンファ曰く「あの少年なら騎士の弱みも知っているかもしれませんからね」「巷のことにも詳しいようですし、あれこれ聞き出すのに便利なんです」——と言うことらしいが、本当はどういう意図なのかは尋ねていない。
ただどういう意図にしても、誰かと仲良くしてくれているならそれはそれでいいことだと思っている。
ここは彼女にとっても初めての、そして慣れない場所だから。
だがそこで、ふと気になった。
「その装具に施されている魔術というのは、問題ないものなのだね?」
白羽にとっては普通の騏驥以上に大切な問題だ。尋ねると、サンファは「はい」と頷く。
「確認いたしました。大丈夫です」
そして続く言葉に白羽は「うん」と頷く。
しかしサンファの顔は、まだどことなく不安そうだ。彼女は言った。
「その……余計なことだとは思いますが、本当に大丈夫でいらっしゃいますか?」
「……サンファ?」
「先ほどは白羽さまのお気持ちを汲んで、騎士には何も言いませんでしたが……お身体の方はまだ痛むのではないですか……?」
「……」
「あの騎士の調教が酷いのではないのですか? もし無理に走らせられているようなら——」
「そんなことはないよ」
白羽は侍女を安心させるように首を振ってみせる。
それでもまだ心配そうにこちらを見つめてくるサンファに、白羽は微笑んで言った。
「他のことはともかく、騏驥に乗ることについては、あの騎士の方はとても立派な方だよ。私に合っているのかどうかはわからないけれど、こちらの気持ちを無視して無理に走らせるようなことはしない方だ」
「そう、なのですか……?」
「ん……。もちろん調教だから負荷をかけて走らされる。私は特に初めてのことだらけだから、大変だと思うことはとても多いよ。きついと思うことも多い。でも……強引な騎乗をされたことはないよ。……今のところは」
「……む、鞭でバシバシ叩かれたりとかもございませんか?」
サンファの声がさらに潜められる。白羽は思わず笑ってしまった。
「ないよ。大体、そんなことがあればサンファが一番に気づいてくれるだろう? 私の身体のことを、私以上に知っているのだから。とにかく……あの騎士の方は、騎士としてはきちんとした方だ」
そう——。
レイゾンに対して決していい印象を抱いているわけではないにもかかわらず、白羽が調教を止めたい、止めてほしいと思わないのは、彼がいい騎士だからだ。
実のところ、白羽は「本当の意味で」レイゾンがいい騎士なのかどうかはわからない。他の騎士に乗ってもらったことはないためだ。けれどそれでもはっきりしているのは、彼に乗られるのは嫌ではない、ということ。
貴族の出ではないのに騎士になった初めての騎士だというが、だからなのか、騏驥への態度が少し特殊なもののように思える。必要以上に上下関係を意識して使役するのでもなく、必要以上に丁重に扱いすぎるのでもなく……何というか、仲間として接しているような、そんな感じなのだ。
鞭だって、無理に走らせるのではなく、励ますような使い方だから、こちらも全力で頑張れる。気持ちよく走れている。
(だから——)
だから今日だって調教に行こうと思えるのだ。彼に馬鹿にされたくないと思う気持ちもあるが、それと同時に、彼を背に走るのは「自分もこんなに走れるのだ」と知れて、充実感がある。
白羽はふっと息をつくと、サンファから僅かに距離を取る。
(行こう)
そしてそう思った次の瞬間。彼は、純白の馬の姿に変わっていた。
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