前王の白き未亡人【本編完結】

有泉

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【余話】Intermission ~王太子と彼の騏驥~ 

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「疲れただろう。急なことで済まなかったな」

 騏驥と騎士を見送り、東宮内の執務室へ戻ると、彼は振り返ってそう言った。
 ダンジァは自身の主であり唯一の騎士であり王太子であり——最愛の人であるシィンに笑みを返すと「いいえ」と小さく首を振って見せた。

 騏驥であるダンジァは、普段、このシィンの仕事のための部屋に足を踏み入れることはない。それは騏驥として「あるまじきこと」だと弁えているためだ。五変騎の一頭であろうとも、王子であるシィンの騏驥であっても——いや、だからこそ、シィンの評判に傷がつくような真似はしたくなかった。

 騏驥を政に介入させていると周囲に思われれば、「騏驥に付け込まれている愚かな王子」と噂されかねない。本当はそうではないとしても、シィンに対して悪意を持ち、彼の悪い噂を流布したいものがいないわけではないのだ。残念ながら。
 ダンジァが「王の騏驥」ではなく厩舎地区から迎え入れられた騏驥だから尚更だ。

 だからダンジァは、普段は他の「王の騏驥」たちと同じように、王城内の厩舎で住み暮らし、騏驥に許された放牧場で過ごす生活をしていた。
 シィンと会うのは、朝の調教の時。そして、彼が密かに籠る「秘密の部屋」での逢瀬の時だけだった。

 だから今日、東宮内のシィンの仕事部屋にこうして立ち入っているのは例外中の例外——非常に稀なことで、シィンの副官であるウェンライのお目溢しがなければ叶わなかったことだ。
 そしてそのお目溢しの名目は「騏驥からシィンへの報告のため」。つまり、今日の一連の出来事があったから叶ったことなのだった。
 城に長く仕えていた騏驥——それも、前王の騏驥であり五変騎の一頭である騏驥が下賜される——そんなごくごく珍しい出来事があったから。

 シィンは近くにある長椅子に腰を下ろすと、疲れたような——しかしどこかほっとしたような顔でふっと息をつく。そして側仕えが茶を淹れて部屋を出るのを確認すると、壁際に控えていたダンジァを手招いた。
 ダンジァが一歩近づくごとに、シィンの笑みが深まる。

「昼に見るお前の姿もまた素晴らしいものだな。朝も、馬体も、夜も素晴らしいが」

「……ありがとうございます」

「うん。ユェン師とニコロ医師にもよろしく伝えておいてくれ。『無理を言ってすまなかったが、おかげで助かった。感謝している』——と」

「かしこまりました」

 ダンジァは快く承った。

 ユェン師は、ダンジァとほぼ同時期に入城した、旧知の間柄の調教師だ。おそらくすぐに会えるだろう。次の健康診断の時に会うだろうニコロ医師と違い、多分、ダンジァが自分の馬房に戻る際に会える。

 下賜される騏驥の見届け人となるように頼んだ時は「僕で大丈夫なの!?」と動揺していたが(とても!)、いざその時になってみれば、珍しい事態に参加できていたことに、随分と好奇心を刺激されていたようだ。
 
「どんな格好をすればいいのかわからないよ!」と狼狽え、着るものを選びに選んでいた彼のせいで、シィンや騎士や騏驥が待つ部屋への到着が遅れてしまったのだが……それは言わないでおく。

 そもそも、急にダンジァの馬房に使者を遣わしてきたかと思うと、

『ダンジァ、お前は私とともに騏驥の見届け人になるのだ。いいな。あと、できれば他に数人、見届け人となれそうなものを連れて来い』

 と、ダンジァにとっては訳のわからない命令がシィンから下されたことが、全ての発端だったのだから。

(あれから大変だったな……)

 ダンジァは半日ほど前のことを思い出す。
 まず、なんのことだかわからない「見届け人」について他の「王の騏驥」たちに訊くことに始まり、自身の身繕い、そしてシィンが希望する「他に数人」探しをバタバタとこなさねばならなかったのだ。

 通常、騏驥が下賜される際の見届けは、騎士がするものらしい。
 人数は多いほど良く(限度はあるが)、家格や役職が高かったり良かったりする者であればあるほど良い——。らしいのだが、ダンジァが見知っており、それにピッタリ合いそうな騎士である「近衛の騎士」ツェンリェンは不在。
 シィンの副官であるウェンライは別の仕事をシィンに任され大忙しで不機嫌——ということで、困りに困った挙句、苦肉の策で急遽、ユェン師と、たまたまダンジァの健康診断にやってきていたニコロ医師にお願いしたのだ。
 二人とも騎士ではないものの調教師と獣医師。騏驥に深く関わる役職だ。そしてユェン師は調教師の中でも「王の騏驥」の調教師だし、ニコロ医師は魔術師であるため、次善策としてはなんとかなるのではないだろうか、と考えて。

 すると、シィンは意外なほどそれを喜んでくれた。
 
『さすがだダンジァ』

『無理にそこらの騎士に頼むよりずっといいほどだ』

『ウェンライなんかに頼むことにならずにホッとしたぞ』

は私が頼み事をするといちいちうるさいのだ。もう既に本来の仕事を中断させて、白羽の身の回りのものを持ち出す件を頼んでいるから機嫌が悪い。さらに頼めば尚更文句を言われていたに違いない』

『ツェンリェンは別件だ。なら確かに見届け人には適任だが、彼には騎士の住まいの方を任せていてな。旧知の仲のご婦人から譲られようとしていた屋敷なのだが、聞けば広さも場所も程よいようだったので、そこを貸すように手筈を整えさせているのだ』

『お前に頼んでよかった。私とお前と師が二人なら十分だろう。むしろ——白羽には相応しいかもしれない』

 ……そう言って。
(言うまでもないことだが、シィンが「あれ」と呼ぶ二人は臣下であっても彼にとってごくごく親しく、自他共に認める特別な間柄だからのことである。無理を言うのもだからである)

 そして無事、騏驥が騎士へと受け渡されるのを見届け、先ほど城から帰っていくのを見送った……のだが……。   
 
(大丈夫……なのだろうか……)

 城を去る時の二人の様子を——騏驥と騎士の様子を思い出し、ダンジァは思わず顔を曇らせる。と、

「? ダンジァ? どうした?」

 シィンが顔を覗き込んでくる。
 手に手がそっと触れる。ダンジァはシィンの前に片膝をついた。

 騏驥が騎士と同じように椅子に座るわけにはいかないから(とはいえシィンは二人だけで秘密の部屋にいるときはダンジァと並んで座ることを好むのだが)、立ったままでいても——つまり形としては騎士を見下ろす格好になったとしても別に無礼になるわけではない。
 が、ダンジァはシィンに対してはそれすらしたくなかった。
 実際の背はダンジァの方が高くても、見上げていたいのだ。自分にとっての美しいシィンを。特別な星だから。

 そんなダンジァにシィンは苦笑するように笑うと、

「お前は律儀だな」

 満更でもなさそうに言う。
 しかし、「それで? どうしたのだ」と重ねて尋ねられると、ダンジァは困ってしまう。
 シィンは気づいていない。いや——聞こえていなかったのだ。城から帰る間際の、騏驥と騎士との会話は。
 人は、騏驥ほど耳が良くない。あの場での二人の会話を聞いてしまったのは、おそらくダンジァだけだった……。

「いえ……その……」

 しかし、自分がその抱いた不安を隠しきれずシィンに訝しく思われてしまった以上、「なんでもないです」で逃げ切れはしないだろう。何かしらシィンに応えなければならない。ダンジァは、自分が抱く不安から近過ぎず遠過ぎずの話題を切り出してみた。

「その……これでよかったのだろうか……と……」

「? どういうことだ? 何か心配になることがあるのか」

「ああ——いえ……心配と言うほどでは……」

 不安そうに顔を曇らせたシィンに、ダンジァは慌てて首を振る。
 一番「させたくなかった」顔をさせてしまった。自分の至らなさを胸の中で叱責しつつ、さらに言葉を選んで言う。

「ただ……あの騎士の方が誤解していなければいいのですが……」

 ダンジァが続けた言葉に、シィンは不思議そうに目を瞬かせる。ダンジァはさらに言葉を継ぐ。

「ええと……つまり……あの騎士の方には、シィン様と白い騏驥とが非常に親しく見えたのでは……と」

「……?」

 言葉を選び選び話しているせいか、普段なら聡いシィンになかなか通じない。いや、それに加えてシィンには他意がなかったためだろう。彼は本当に本当に純粋に騏驥のためを思って色々と手配したに違いない。
 彼はダンジァに対して勿体無いほどの愛情と信頼を寄せてくれているが、他の騏驥に対しても誠実だ。さすがは騏驥を宝とするこの国の王太子と思わずにはいられないほどに。

 しかし次第に、シィンもダンジァが何を言わんとしていたかを察したようだ。不思議そうにしていた顔が、次第に怪訝そうな困惑したようなものに変わっていく。

「…………まさか。私はあの騎士にお前のことをたくさん話したのだぞ。お前のことを気にしていたようだから、『彼は私の騏驥で素晴らしくて強くて速くて格好良くて勇ましくて賢くて忠実で、私の騏驥で私が城の外から迎えたのだ』と……」

 ダンジァの主は相変わらず所有欲露わなようだ。
 それを微笑ましく嬉しく思ったが、しかしシィンはなんとなく思い至る節もあったのだろうか。考え込むような顔になる。騎士との会話を思い返しているのだろう。ダンジァもレイゾンという名のあの騎士の様子を思い返す。

 シィンと話していた時の声、表情、仕草。こちらへ——自分ヘ向けられた視線。そして、白い騏驥に向けられた視線。

(杞憂であればいいのだが)

 なんとなく——なんとなくあの騎士は、結構嫉妬深いのではないかと思うのだ。本人がそれを自覚しているかどうかはわからないけれど。

 騎士も騏驥も、残念ながら嫉妬と縁がある。
 お互いに数多の相手と接するからだ。どの騎士も自分こそが騏驥にとって一番の騎士になりたいと願っているようだし、騏驥は騏驥で騎士の唯一の騏驥になることを求めている。

 シィンの表情が曇る。
 やはり何も話さないほうが良かったのだろうかとダンジァが自身の迂闊さを後悔しかけた時。

「ただ……白羽は私にとって特別な騏驥でな……。もちろん他意はないぞ。だが、城を出されてしまうことを知った以上、何もせぬわけにはいかなかった。そしてできるなら——できる限りことをしてやりたかったのだ……」

 ぽつり、とシィンは言った。ダンジァを真っ直ぐに見つめる。澄んだ瞳。その名の通り、星のような輝きをたたえた濃茶色の瞳。彼は続ける。

「思えば、白羽を少し特別に感じているのは、伯父上の騏驥であったからという理由が大きいのだろう。先の国王陛下は……私を可愛がってくれていた……ように思うゆえ……」

「……」

 含みのある言い回しだ。ダンジァは、触れたままだったシィンの手をそっと握る。彼が実の父親とうまく行っていないことは知っている。ただ、それがいつからなのかまでは知らない。もしかしたら、まだ幼い頃からだったのだろうか。想像すると胸が痛む。
 そしてそんな彼に優しかったのが先の王とその騏驥だったのだとしたら……。
 
 シィンは続ける。

「それに……伯父上は白羽をとても大切にしていた。どういうお気持ちだったのかはわからないが、騎士と騏驥が心を通わせあうのはいいものだと思えたのは、二人を見ていたからもあるのだ」

 しみじみと、シィンは言う。当時を思い出しているのだろう。
 が、次の瞬間、彼はひた、とダンジァを見つめてきた。

「だが、ダン。私の騏驥はお前だけだ。これまでもこれからも——それは変わらぬ。白羽は粗雑には扱えぬが、お前とは全く違う。想いの強さも深さも——望むものも求めるものもだ。そして——許すものも」

「シィン……さま……」

「何もかも欲しいと思い、何もかも与えたいと思うのは、お前だけだ。……王子としてあるまじきことだと思うがな……」

 最後は恥ずかしそうに言うと、シィンははにかむように笑む。
 
 ダンジァは胸が熱くなるのを感じながら、主の手をぎゅっと握りしめた。それこそ何もかも——命すら捧げても惜しくないと思えるただ一人の騎士の手を。

「騎士と騏驥は……相性がある……」

 されるままになりながら、シィンは言った。

「どれほど騎乗に巧みな騎士でも、どうしてか合わぬ騏驥というものはいるのだ。騏驥も同様。優れた騏驥ならどんな騎士が乗っても良い成果を出せるかと言えばそれは違う。もちろん悪い状況になるわけではない。ただ……互いの良さを打ち消しあってしまうような、そういう残念なことになる騎士と騏驥がいる……。『何か』が足りない——もしくは多すぎる——おそらく、そんな理由でな……」

「…………」

「だから、『ただ一頭の騏驥』に出会えた私は幸せ者だと思っている。できれば白羽もそうであってほしいと思った……。かの騎士が白羽にとっての特別な騎士になるのかどうかはわからぬが……できる限りの支度を整えてやれば、ぞんざいには扱われまい、と……。だが、もしそのために却って——」

「いいえ」

 不安そうに言いかけたシィンの声を、ダンジァは首を振って止める。
 彼にとっての唯一の眩しい星を僅かに見上げるようにしながら、ダンジァは続けた。

「騏驥の身でシィンさまのなさりように意見を言うなど無礼とは重々承知致しておりますが、騏驥の身であるからこそお伝えいたしとうございます。——騎士の方に気遣っていただき嬉しくない騏驥などおりません。ましてやそれが、以前からの親しい方ならば尚更でございます。忘れられることなく思い遣ってくださったことは、深く心に刻まれましょう」

「……」

「ただ、そうしたシィン様の騏驥への気遣いを、あの騎士がどう受け止めたかはあの騎士にしかわからぬこと……。自分はそれを少し……心配に思ったのです。どの騎士の方も同じように騏驥を思いやるとは限りませぬゆえ……」

「……なるほど……それでお前は気にしたのだな。……言われてみれば……あの騎士は白羽を下賜されることにも思うところがあるようであった……」

「……」

「それに……確かに騎士は、『騏驥の昔馴染みの騎士』に少々複雑な想いを抱く……こともある……」

 かもしれない。

 シィンは苦笑する。
 ダンジァと過去の騎士との関係に嫉妬した過去を思い出したのだろう。
 
 シィンは、ダンジァの手をぎゅっと握り返してくる。
 今は強く繋がれた手。これからも決して離れることはない手。——二人。
 けれど、離れかけたこともあったのだ。


「では、もう私たちは、レイゾンが騎士として白羽を丁重に扱うように願うしかないな。……あの騏驥は前王が大切にしていたのだ。その意味をあの騎士が正しく理解すればいいのだが……。白羽の価値は五変騎の一頭としてなんら恥ずかしくないもの……相応しいものなのだ……」

 でも私の騏驥はお前だぞ。

 ——シィンは再び言うと、ダンジァに向けてにっこりと微笑む。
 ダンジァがシィンの手を包み込むようにして握ると、空いている手で前髪をかき上げられる。
 そして額に、そっと口付けられた。柔らかな——しかし染み込むような——熱。

「私のダンジァ……。相変わらず色々とよく見ているのだな……。賢い騏驥だ。……今日は思いがけずお前と長く過ごすことができて嬉しいぞ」

「自分も嬉しく思っております。滅多にない経験をさせていただいたことも、ありがたいことでした」

「ん。今日の姿も雄々しく美麗で良い。お前は赤が似合っている」

「ありがとうございます。シィン様のご趣味の良さのおかげです」

 微笑み返してダンジァが言うと、シィンはいっそう笑みを深める。
 ややあって——彼はふっと面持ちを変える。そして真摯な瞳で言った。

「これは……気を悪くしないでもらいたいのだが……」

「? なんでございましょう? シィン様のおっしゃることで自分が気を悪くすることなどありえません。どうぞご遠慮なく、なんでもご命令下さいませ」

「ん……。だが命令ではない。——いいな、命じるわけではないのだ」

「はい」

 念を押すシィンに、ダンジァもはっきりと頷く。すると、彼の騎士は頷いて続けた。

「出来れば……出来ればでいい。お前の負担にならない限りで……嫌だと思わない限りで、白羽のことを気にかけていてもらいたいのだ」

「…………」

「同じ騏驥同士だ。私ではわからぬことでも通じ合うようなことがあるだろう。それに、私は他の騎士のものとなった騏驥へはなんの介入もできぬ。それはすべきことではない。……立場を考えれば尚更すべきではないと思う……」

「……」

「だからその分……お前に頼みたいと思うのだ。——繰り返すが、これは命令ではない。お前の……」

「畏まりました」

 控えめに——控えめに言葉を継ぐシィンの言葉と願いを早々に引き受けるように、ダンジァははっきりとそう言った。
 正面から、彼を見つめて。

「畏まりました、シィン様。……むしろそのような大切な件を自分に任せていただけて光栄です」
 
 噛み締めるようにそう言い添えると、シィンはホッとしたような顔を見せる。

 実際、ダンジァは全く嫌だとは思っていなかった。意外でもなく、むしろどこか予期していた依頼であったと言えよう。彼の大切な——唯一の騎士は、少々我儘な気質である反面、非常に優しいから。

(それに……)

 ダンジァは気になっている。
 シィンには結局伝えていない、彼らのことが。
 城から帰っていく前、彼らは——否、白羽は、それまでの大人しさからは想像もつかない激しさで憤っていたのだ。
 シィンには聞こえなかっただろう。ユェンにもニコロにも。
 
 だがあの白い騏驥は憤りを露わにしていたのだ。新たな主である騎士に対して。
 以前の主の名誉に些かの傷もつけさせない、と言わんばかりに。

 そんな騏驥とあの騎士と……。果たして上手く行くだろうか……。
 シィンが大切に思っている騏驥なら、シィンの騏驥であるダンジァがとるべき行動は決まっている。

 だが。

 微かに眉を寄せかけた時。

「ああ……もう仕事に戻らなければならぬ時刻だ……」

 悔しそうに、無念そうにシィンが言う。見れば、彼は拗ねたように口を尖らせている。

「本当ならもっとお前と一緒にいたいものを……。あれウェンライは許してくれぬ。今日も執務の手を止めて白羽の見届けをすることや、あれこれを頼むことに顔を顰めていて……」

「…………」

 それはまあ、副官であれば仕事が滞るようなことは避けたいと思うでしょう……。

 ダンジァは日々シィンに振り回されているウェンライの苦労を思ったが、口には出さない。
 と、シィンは「そんなことなんか承知している」という顔で、

「まあ、それも仕方ないのだろうが」

 と涼しい顔で言う。
 ダンジァが思わず笑うと、シィンも笑う。
 そうしてひとしきり微笑み合うと、彼の手が、頬に触れた。

「お前も下がれ。馬房で休むがいい」

「……はい……」

「私はこれから仕事に励み、遅れを取り戻して夜には全て終わらせる。そのぐらいやらなければ、ウェンライはぐちぐちと文句を言うからな」

「はい」

「だから夜にまた会おう。きっと明日は嫌味のように仕事が多くなっているだろうが、そうだとしても夜はお前と過ごしたい。早く起きねばならぬとしても……」

「はい」

 はい——シィン様。

 一緒にいたいのは、ダンジァも同じだ。短い時間であっても二人きりで一緒にいたい。
 今会っていても、まだ。もっと。

 ダンジァはシィンを見つめると、頷いて立ち上がる。
 離れ難い気持ちを表さぬよう、努めて淡々と退室の挨拶をして踵を返すと、

「報告、ご苦労だった」

 ダンジァの背に、まだ”王子仕事”に戻りきれていないシィンの優しい声がした。
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