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序の一 哀しい嘘——前王の崩御
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「白羽……」
部屋を満たすどんよりと重たい空気の中に、囁くような微かな声が溢れる。
臨終の床。
しかしその「やがて来てしまう瞬間」をなんとか引き伸ばしたい一心で側に控えていた青年は、声に慌てて、かの人の手を握り締める。
細く痩せた指。腕。それは、最愛の人がもう長くないことを顕著に示している。
あと何日? 何時間?
否。
——何分?
喪失の恐怖に震えながら、それでも青年はなんとか自分自身を保ち、取り乱すことなく健気にも微笑んでみせる。
この国で最も豪奢で、尊く、そして秘された場所。
——王の寝所。
その枕元に侍ることができたのは今や彼だけだ。
彼だけがここにいることを許された。
他でもない、王の末期の希望によって。
寝台の側の床に膝をつき、青年はしっかりと——しかし大切に包むように王の手を握る。
彼を救い出してくれた手を。
彼を誘ってくれた手を。
彼を愛してくれた手を。
誰よりも優美だった指は、病のせいで細くかさついている。それでも、そこがまだ温かいことに安堵していると、
「白羽」
再び掠れた声が届く。
もう意識も虚なのだ。
(あんなに涼やかで美しかったお声が……)
白羽は胸が軋むのを感じながら、
「……っ……ここにおります」
顔を寄せ、泣きそうになるのを堪えながら声を絞り出した。
「ここにおります、陛下。白羽はいつも必ず陛下のお側におります」
言いながら静かに指に力を込める。と、微かに握り返される。ふ、と微笑んだ気配があった。
「そうか……」
声は小さく小さく今にも消えそうなそれだ。
人よりも耳のいい騏驥でなければ、聞き逃すかもしれないほどの声。それでも白羽は耳を澄ます。一言も、一息も聞き逃したくない。ただその気持ちだけで。
王は微笑んだ気配のまま続けた。
「そうであったな……お前はいつもわたしの側にいてくれる……。お前だけが、わたしに心から仕えてくれた……」
「……」
「昔から……お前だけが……」
過日を思い出しているのだろう。王の声がどことなくしみじみとした気配を含む。白羽も同じことを思い出していた。初めて出会った日のことを。そして彼のものになった日のことを。
「……白羽は、これからもずっと陛下のお側におります……」
繋いでいる手に頬を擦り寄せ、噛み締めるように、白羽は言った。
「ずっとずっと……いつまでも陛下のお側に——」
「…………」
しかし、その白羽の声に返る声はない。
成望国王・ティエンは、ただじっと白羽を見つめていた。
朦朧としたその瞳からは、もう生命力がほとんど感じられない。あと幾ばくかで命の火が消える——それがわかるかのようだ。
(まだこんなにお若いのに……)
白羽の胸が痛いほどに軋む。
だがそれでも——王の双眸はいつものように優しく穏やかに白羽を見つめていた。変わらぬ慈愛に満ちた瞳。
ティエンは小さく息をつくと、微笑んだまま続けた。
「お前のその言葉に、わたしはいつも元気づけられてきた……。わたしは……お前といると、百の苦しみが九十九になった……。だが……すまなかった……。わたしはわたしの寂しさをわずかに減らすためだけに、お前に人生を無駄にさせてしまった……。騏驥になる前も……なってからも……」
「いいえ……! いいえ! そんな……!」
そんなことはありません!
白羽は泣きながら首を振った。
何を言うのか。
今自分があるのは彼のおかげだ。
無駄なんかじゃない。幸せだった。この優しい人を少しでも慰められたなら、それこそが自分の生まれてきた理由なのだと思えるほどに。
だからこれからもずっと——ずっと彼のそばにいようと——。
「……白羽」
繋いでいた手が、ぴく、と震える。指がゆるゆると動き、白羽の頬に触れる。
ゆっくりと——そろそろと——。心から愛したものの、その形を確かめるかのように白羽に触れる。
涙を流し続ける白羽の頬を、指は静かに辿っていく。
と——。
「……お前は生きよ……」
微かな——微かな声がした。
比べるものもないほど優しく——そして残酷な声。
白羽の想いを——殉死を拒む声が。
白羽は息を呑む。
頬に触れる指を掴むと、咄嗟に首を振った。
両の瞳から次々涙が溢れる。青と黒。色の違う左右の瞳から同じように美しい涙が。
「いやです……!」
震える声で、白羽は言った。
初めての抵抗の言葉だった。
自身の頬に触れる手に手を重ねて握り締め、幾度も首を横に振り、いやです、と繰り返す。
「嫌です、陛下。どうしてそのようなことを……? ずっと離さぬと……いつまでも一緒なのだと幾度もわたくしに仰られたではありませんか!」
「……」
「嫌です! 陛下——陛下——! 白羽はいつまでも陛下と一緒に——」
ほとんど半狂乱になりながら、白羽は叫ぶ。
だがティエンは言葉を翻さない。
ただただ優しく、深い慈愛に満ちた瞳で白羽を見つめてくるだけだ。
「陛下……我が君……どうか……っ……」
頬に触れる手に手を添え、懇願するように白羽は声を絞り出す。
他に望みなどない。一緒に死にたいだけ。後を追いたいだけ。
それだけだ。
今までどんな我儘も望みも言わなかった。
なのにどうして叶えて下さらないのか——。
唇を噛み締め、震える白羽に、王は弱く笑む。
そして、白羽の肩に零れ落ちてきていた髪をそっと撫でると、「赦せ……」と、ぽつりと言った。
「……お前は素晴らしい騏驥だ。連れてゆくには忍びない……。お前はもう十二分に尽くしてくれた……」
「…………」
「生きて城を出よ……。そうして、新しい騎士を求めるのだ。良き騎士を得て、支え、幸せに生きるのだ……。……良いな」
「……いやです! そのようなことを仰らないでください! わたくしの主は未来永劫陛下ただお一人です! 陛……」
「……ありがとう……ありがとう——白韶……」
吐息のような細い声と共に、頬に触れていた手から力が抜ける。
「陛下——!!」
白羽の慟哭が空気を揺らす。
職分によって常に内廊下に控えている医師や薬師たちが、察して衣擦れの音とともに素早く部屋に入ってくる。
だが白羽はティエンの手をひしと掴んだまま、必死の形相でその手を涙に濡れる自身の頬に押し付け続ける。少しでも温もりを移すように。少しでも生を移すように。
しかしいくらそうしてみても、白羽の願い虚しく、指は次第に冷たく硬く変わっていく。
どれほど涙を流しても、二度と目は開かず、声ももう聞こえない。
部屋を満たすどんよりと重たい空気の中に、囁くような微かな声が溢れる。
臨終の床。
しかしその「やがて来てしまう瞬間」をなんとか引き伸ばしたい一心で側に控えていた青年は、声に慌てて、かの人の手を握り締める。
細く痩せた指。腕。それは、最愛の人がもう長くないことを顕著に示している。
あと何日? 何時間?
否。
——何分?
喪失の恐怖に震えながら、それでも青年はなんとか自分自身を保ち、取り乱すことなく健気にも微笑んでみせる。
この国で最も豪奢で、尊く、そして秘された場所。
——王の寝所。
その枕元に侍ることができたのは今や彼だけだ。
彼だけがここにいることを許された。
他でもない、王の末期の希望によって。
寝台の側の床に膝をつき、青年はしっかりと——しかし大切に包むように王の手を握る。
彼を救い出してくれた手を。
彼を誘ってくれた手を。
彼を愛してくれた手を。
誰よりも優美だった指は、病のせいで細くかさついている。それでも、そこがまだ温かいことに安堵していると、
「白羽」
再び掠れた声が届く。
もう意識も虚なのだ。
(あんなに涼やかで美しかったお声が……)
白羽は胸が軋むのを感じながら、
「……っ……ここにおります」
顔を寄せ、泣きそうになるのを堪えながら声を絞り出した。
「ここにおります、陛下。白羽はいつも必ず陛下のお側におります」
言いながら静かに指に力を込める。と、微かに握り返される。ふ、と微笑んだ気配があった。
「そうか……」
声は小さく小さく今にも消えそうなそれだ。
人よりも耳のいい騏驥でなければ、聞き逃すかもしれないほどの声。それでも白羽は耳を澄ます。一言も、一息も聞き逃したくない。ただその気持ちだけで。
王は微笑んだ気配のまま続けた。
「そうであったな……お前はいつもわたしの側にいてくれる……。お前だけが、わたしに心から仕えてくれた……」
「……」
「昔から……お前だけが……」
過日を思い出しているのだろう。王の声がどことなくしみじみとした気配を含む。白羽も同じことを思い出していた。初めて出会った日のことを。そして彼のものになった日のことを。
「……白羽は、これからもずっと陛下のお側におります……」
繋いでいる手に頬を擦り寄せ、噛み締めるように、白羽は言った。
「ずっとずっと……いつまでも陛下のお側に——」
「…………」
しかし、その白羽の声に返る声はない。
成望国王・ティエンは、ただじっと白羽を見つめていた。
朦朧としたその瞳からは、もう生命力がほとんど感じられない。あと幾ばくかで命の火が消える——それがわかるかのようだ。
(まだこんなにお若いのに……)
白羽の胸が痛いほどに軋む。
だがそれでも——王の双眸はいつものように優しく穏やかに白羽を見つめていた。変わらぬ慈愛に満ちた瞳。
ティエンは小さく息をつくと、微笑んだまま続けた。
「お前のその言葉に、わたしはいつも元気づけられてきた……。わたしは……お前といると、百の苦しみが九十九になった……。だが……すまなかった……。わたしはわたしの寂しさをわずかに減らすためだけに、お前に人生を無駄にさせてしまった……。騏驥になる前も……なってからも……」
「いいえ……! いいえ! そんな……!」
そんなことはありません!
白羽は泣きながら首を振った。
何を言うのか。
今自分があるのは彼のおかげだ。
無駄なんかじゃない。幸せだった。この優しい人を少しでも慰められたなら、それこそが自分の生まれてきた理由なのだと思えるほどに。
だからこれからもずっと——ずっと彼のそばにいようと——。
「……白羽」
繋いでいた手が、ぴく、と震える。指がゆるゆると動き、白羽の頬に触れる。
ゆっくりと——そろそろと——。心から愛したものの、その形を確かめるかのように白羽に触れる。
涙を流し続ける白羽の頬を、指は静かに辿っていく。
と——。
「……お前は生きよ……」
微かな——微かな声がした。
比べるものもないほど優しく——そして残酷な声。
白羽の想いを——殉死を拒む声が。
白羽は息を呑む。
頬に触れる指を掴むと、咄嗟に首を振った。
両の瞳から次々涙が溢れる。青と黒。色の違う左右の瞳から同じように美しい涙が。
「いやです……!」
震える声で、白羽は言った。
初めての抵抗の言葉だった。
自身の頬に触れる手に手を重ねて握り締め、幾度も首を横に振り、いやです、と繰り返す。
「嫌です、陛下。どうしてそのようなことを……? ずっと離さぬと……いつまでも一緒なのだと幾度もわたくしに仰られたではありませんか!」
「……」
「嫌です! 陛下——陛下——! 白羽はいつまでも陛下と一緒に——」
ほとんど半狂乱になりながら、白羽は叫ぶ。
だがティエンは言葉を翻さない。
ただただ優しく、深い慈愛に満ちた瞳で白羽を見つめてくるだけだ。
「陛下……我が君……どうか……っ……」
頬に触れる手に手を添え、懇願するように白羽は声を絞り出す。
他に望みなどない。一緒に死にたいだけ。後を追いたいだけ。
それだけだ。
今までどんな我儘も望みも言わなかった。
なのにどうして叶えて下さらないのか——。
唇を噛み締め、震える白羽に、王は弱く笑む。
そして、白羽の肩に零れ落ちてきていた髪をそっと撫でると、「赦せ……」と、ぽつりと言った。
「……お前は素晴らしい騏驥だ。連れてゆくには忍びない……。お前はもう十二分に尽くしてくれた……」
「…………」
「生きて城を出よ……。そうして、新しい騎士を求めるのだ。良き騎士を得て、支え、幸せに生きるのだ……。……良いな」
「……いやです! そのようなことを仰らないでください! わたくしの主は未来永劫陛下ただお一人です! 陛……」
「……ありがとう……ありがとう——白韶……」
吐息のような細い声と共に、頬に触れていた手から力が抜ける。
「陛下——!!」
白羽の慟哭が空気を揺らす。
職分によって常に内廊下に控えている医師や薬師たちが、察して衣擦れの音とともに素早く部屋に入ってくる。
だが白羽はティエンの手をひしと掴んだまま、必死の形相でその手を涙に濡れる自身の頬に押し付け続ける。少しでも温もりを移すように。少しでも生を移すように。
しかしいくらそうしてみても、白羽の願い虚しく、指は次第に冷たく硬く変わっていく。
どれほど涙を流しても、二度と目は開かず、声ももう聞こえない。
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