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120 恋しく愛しい人
しおりを挟むわたしのことを美しいと言ったくせに——と抗議してしまいそうだ。その言葉を辛うじて噛み殺すシィンの耳に、ダンジァの声は続く。
「この上もなく美しくて、溌剌としつつも優美で、それでいて茶目っ気があって可愛らしい。——素晴らしい人です。全てが美しい人ですが、特に——心が」
言葉を紡ぐダンジァのその声は、まるで夢見るようだ。
もうこれ以上聞きたくなくて、シィンはせめてもの抵抗のようにダンジァの胸を叩く。
けれど彼の騏驥はそんなシィンを咎めることもなく、されるままだ。
それどころか、宥めるように背を撫でられ、シィンは情けなさに涙が出そうになる。ぎゅうっ……と唇を噛んだ時。
「でも——その方は少しわがままなのです」
ふふ……と笑い声混じりに、ダンジァは言った。
「街の軽食店で初めて会った時もそうでした。その方は一言の断りもなく、いきなりわたしの前に座ったのです。偶然にもわたしと同じものを食べ始めて……目が合うや否や、こう言いました。『お前、この辺りに詳しいか?』——と」
「…………!?」
シィンは顔を上げた。
顔を上げて、ダンジァの貌を見た。
唖然とするシィンに、彼の恋人は目を細めて笑った。
楽しげに——どこか悪戯が成功したような、そんな顔で。
「……っ……お、前……」
シィンは自分の胸が一気に熱くなるのを感じた。安堵と感激。そしてからかわれた怒りのような、動揺した恥ずかしさのような感情が一気に込み上げてきて、言葉が追いつかない。
暴れるようにダンジァの胸をポカポカ叩いたが、相変わらず彼はびくともしない。それどころか、強く抱きしめられた。
「ずっと、と申し上げたはずです。シィン様。自分の言葉は聞いていただけておりませんでしたか?」
「き、聞いていた! 聞いていた、ちゃんと! だが……」
まさかそんなに以前からとは思わないじゃないか!
シィンが言うと、ダンジァはそんなシィンを抱きしめて笑う。
ぎゅう、と抱きしめられ、苦しさに息が詰まる。幸せで、胸が詰まる。
ひとしきり抱きしめられたかと思うと、腕を緩めたダンジァに見つめられる。
髪を撫で上げられる。額に、唇が触れた。
「出会い、手を引かれ、変われと命じられ、この背に乗せた時——。自分は恋をいたしました。初めて乗っていただいた時の心地よさは、今でも覚えているほどです」
また一つ、額に唇が落ちる。そして頬にも。
「どこのどなたかもわからない騎士の方。名前も存じ上げぬ——けれど眩しいほど綺麗なお方。自分は、恋に落ちました」
こめかみ、頬、鼻先、また、額。夜空から星が降ってくるかのように、シィンに口付けが降ってくる。優しい声が降ってくる。
「なにも知らずに、自分は恋をいたしました。そしてお名前を知りお立場を知り、お心を知り……知れば知るほど——知るたびに、もっと想いを強くいたしました。愛しているとしか言いようのないぐらい、とても強く」
「…………」
「恋しい方を、愛するようになりました。恐れ多いことだと分かっていても、止められませんでした。駄目だと思っていても、やめられませんでした。何度も——何度もあなたをこの腕に抱くことを夢見ました。そして、それ以上のことも」
「!」
どくん、とシィンの心臓が大きく鳴る。
顔が熱い。
そんなに近くから見つめないでほしい。でも見つめいてほしい。
そんなシィンの心まで見つめるかのように、ダンジァは真っ直ぐにシィンを見つめて言った。
「愛しています、シィン様。騏驥としてだけではなく、それ以上に。より強く、より深く——自分の全てであなたの全てを——あなたを、愛しています」
その眼差しは、その声は、あの日シィンが見た、聞いたものと寸分違わない真摯さだ。いや——もっと熱い。さらに熱くてさらに切ない。
焦がれて焦がれて焦がれて——求めて求めて求めて——。
そんな彼の積もりに積もった想いが伝わってくるかのようだ。
胸が引き絞られる。
「……ダンジァ」
耳の奥で自分の鼓動が大きく響くその音を聞きながら、シィンは口を開いた。
「ダンジァ……ダン……本当に?」
「はい」
「本当に?」
「はい」
「っ……で、ではどうしてあんな、や、ややこしい、言い方を——」
てっきり他に好きな相手がいるのではないかと思ってしまったではないか!
シィンが頬を膨らませ、唇を尖らせて言うと、その頬を擽るように撫でられた。
「シィン様があんな質問をなさるからです。自分の気持ちなどとっくにご存知では? にもかかわらずあんな風に言われては……少々意地の悪い仕返しをしたくもなるというものです」
「…………」
だって……と言いかけたが、シィンはやめにした。
それよりも、今はダンジァを見つめていたい。彼の声を聞いていたい。
大好きな——特別なただ一人の姿を。声を。
幸せに浸っていたい。
(でも、わたしはそんなに我儘ではないぞ)
そこだけはいずれ訂正させねば、とシィンが思っていると、
「シィン様だけです。自分は。好きだと思う方も恋しいと思う方も愛している方も——シィン様だけです。こんなに——欲しいと思う方も」
その言葉を体現するかのように、シィンを抱くダンジァのその腕に、ゆっくりと力が込められる。
シィンは耳が熱くなるのを感じる。でもそれを知られるのは恥ずかしい気がして、何気ない風を装ってされるままになりながら、手を伸ばし、ダンジァの髪を撫でた。
額を。彼の星のある場所を。
彼にされたように、そこにそっと口付ける。と、ダンジァはとろけるような笑みを見せた。
「シィン様は本当に……騏驥を心地よくさせるのがお上手ですね……」
彼はその額をこつんとシィンの額に触れさせる。鼻先が触れる距離から囁かれた。
「自分も……シィン様に心地よくなっていただきたく存じます……。お許し願えますか……?」
潜められ、掠れた声は、初めて聞く。背が震えるような艶かしさだ。
そして彼の示唆することは、つまりああいうこととか、こういうことなのだろう。
——シィンもまた、密かに望んでいた……。
想像した途端、動揺と興奮と期待と混乱に身体が強張って、応えられなくなる。
縋るように、彼の首筋に腕を絡めて身を寄せる。『輪』が目に入った。騏驥の証。そうだ——彼は騏驥なのだ。
後悔は一切ないけれど、まさか騏驥とこんなことになるとは思っていなかった。
「ダン……ダンジァ……それは、つまり……その……」
「お嫌ですか」
「ぃ……嫌と言うわけでは……」
むしろシィンだって彼が欲しい。もっともっと。彼を知りたいし彼に触れたい。彼の全部に。身体の全部も心の全部も。とにかく全部に。
ただ、ここは外で……自分は王子で……。
いいのだろうか。そんなことをしても。
(こんなこと、誰にも教えられていないぞ!?)
ダンジァにしがみついたまま、シィンは困り続ける。
と、次の瞬間。
その身体が抱き寄せられたかと思うと、ふわりと宙に浮き——視界がぐるりと回る。
仰向くように、改めて横たえられた身体。優しく、宝物のように。
見上げたシィンの視線の先には、ダンジァの貌があった。
男らしく見栄えのする端整な面差し。いつもの彼の貌だ。だが今は、いつもより雄の気配が濃い。その色香にドキドキする。
「……誰も参りません」
囁きと共に、体重をかけないようにしてのしかかってくる身体。
——熱い。その熱が、シィンにも移ってくる。
離れたくない——。そう思う。
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