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117 夜の丘にて騎士と騏驥は(3)

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 だがやはり、彼は随分とシィンを気遣っている。もともと礼儀正しい騏驥だし……と、シィンは気づけばまたぐるぐると考えてしまいそうになる。
 慌ててそれを振り払い、「平気だ」と言葉を返すと、ダンジァはその言葉の真偽を確かめるかのように、暫し黙ったのち、
 
「では、どうぞご覧になってくださいませ。傾斜になっておりますので、足元にお気をつけください」

 そう言ったかと思うと、シィンの身体をくるりと反転させる。
 シィンの目に、今上ってきた丘を見下ろすような風景が飛び込んでくる。
 その、初めて見る不思議な景色に、シィンは思わず「わ……」と声を上げた。

 高いところからの夜の景色ならば、城からも見える。シィンも見たことがあった。街の灯や街道の灯が遠くに幾つも光るさまは、昼とはまた違うこの王都の繁栄と美しさを示していた。

 だが、今は。この景色は。
 何もない——なんの光もない広い広い草原が眼下に広がり、その向こうにぽつりぽつりと厩舎の灯が見える。街の灯は、さらにその向こうだ。
 灯りはごく少なく、だから夜の中に浮かんでいるような感覚に包まれる。

「……すごい……すごいな……こんなに暗く……」

 思わず感嘆の声を溢すと、

「どうぞ振り仰いで夜空もご覧ください。転ばないように、自分が支えておりますので」

 背後から声がしたと同時にそっと腰を抱かれる。
 どきりと心臓が跳ねたような気がしたがなんとか抑え込み、シィンはダンジァの胸に寄り掛かるような格好で上空を振り仰ぐ。
 途端「おお……」と先刻にも勝る感嘆の声が口をついた。

 視界いっぱいの、満天の星。しかも辺りが暗いせいで、どんな場所から見るよりもたくさんの星が煌めいている。
 夜空など見慣れたと思っていたのに、周囲が暗いとこんなに違うものかと、シィンは息をすることも忘れて星空に見入る。
 これは確かに、ここでなければ——辺りに灯のない広い放牧場でなければ見られない光景だろう。しかも少し上った丘の上だから、遮るものが何もない。
 
 浮かべていた発光石も、一旦消してしまう。今は僅かな灯りも勿体無い。
 この降るような星々を、満天の光を満喫したい。

「素晴らしいな…………」

 しばらくぼうっと夜空を見上げ、ようやく思い出したようにそう呟くと、

「気に入っていただけましたか?」

 ダンジァが控えめに尋ねてくる。

 もちろんだ、とシィンは空を見上げたまま即座に答え、ハッと気づいた。

「そうだ! これはここに横になった方がなおさら楽しいのではないか?これだけ星が美しく見えるなら……」

 ウキウキしながらシィンは言う。だが、ダンジァからの答えは困ったような声だ。

「それは……確かにそうですが、草地に横になられてはお召し物が……」

「そんなものは良い」

 言うと、シィンはすぐさまそこに横になろうとする。が、その寸前、気をつかう騏驥が「少しだけお待ちを」と、自らの外衣を草の上に敷いてくれた。

「どうぞ——こちらに」

「ん……」

 言われて、シィンはいそいそとそこに横になる。
 見上げた空は、想像していた以上に美しかった。

「うん。やはりこの方が良い。…………子供の頃以来やもしれぬな……これほど美しい夜空をゆっくりと眺めるのは」

「お気に入っていただけたなら、何よりです」
 
 うっとり呟くシィンの声に、側に腰を下ろしたダンジァの声が続く。

「騏驥は夜も目が見えますので、放牧場のようにほとんど騏驥しか訪れないような場所は灯りがないのです。なので、夜はこのように真っ暗に……。とはいえ、こんな夜中にわざわざここまで来るような騏驥もそうはいませんが……」

「……でもお前は来ていた……のだな」

 シィンが尋ねると、傍から、「……何度か」と声が返った。

「以前、大きな怪我をした際に……何度か来ておりました。完治するまで馬房でおとなしくしていろと言われていたのですが——もちろんそうしてもいたのですが、一人で、馬房で、周囲に仲間の騏驥の気配を感じながら過ごすのは少し辛い時があって……。そういう時に夜中馬房を抜け出してここを訪れておりました」

 広くて誰も来ないので、独り占めできていい気分でした。

 最後は微かに巫山戯るような口調でダンジァは言うが、以前の彼の怪我が酷いものだったということはシィンもよく知っている。復帰できないかもしれないと思われるほどの、大怪我だったことを。
 そんな時の彼がどんな気持ちでここに一人でいたのかと思うと、胸が締め付けられるようだ。 
 思わず顔を顰めてしまうと、それを見たのだろう。ダンジァが慌てたように「昔の話です」と付け足した。

「昔のことです。でもここの美しさは印象的で……ですからシィン様にもご覧いただきたかったのです。自分が美しいと感じて、心癒されていた場所を……シィン様にも……」

「…………」

 しみじみ言うダンジァのその口調からは、シィンをここに連れてくることができた喜びが伝わってくる。それはシィンも嬉しい。
 彼に案内してもらい、普段は来ることのない厩舎地区のあちこちを巡った最後に、こうして彼の思い出の場所に来られたことは。

 だが同時に、ダンジァの声音からはここを離れる寂しさが漂っているようにも感じられる。それは、考えすぎだろうか?
 
 彼を城に転厩させることは、今までの思い出を全て置き去りにさせることにもなってしまう。
 それでいいのだろうか。
 そんなわがままを言っていいのだろうか。

 
 一度訪れた彼の馬房は、綺麗に整理された、彼らしい場所だった。
 馬房には猫が来ると言っていた。
 今夜あちこち案内してくれた時は、調教坂路から戻るときの、逍遥馬道の雰囲気が好きだと言っていた。草木の香りで、季節の移り変わりがわかるのだと。
 前の怪我の時も今回も、それとなく様子を気にしてくれていた同厩の仲間もいると言っていた。特別親しいわけではないけれど、でも同じ厩舎のよしみで、なんとなく付かず離れずの関係でいる——不思議な仲間なのだ、と。
 
 
 そんな、今まで彼が騏驥として厩舎で暮らしてきた生活の、思い出の全てを、自分のために全部捨てろと、そんなことを。




 天を見上げたまま考えるシィンの目に映る星々は、相変わらず美しい。
 星は、空にあるから美しいのではないだろうか。その美しいものを、この手の中に閉じ込めていいのだろうか。本当に?
 ダンジァを、自分の元に縛り付けていいのだろうか?
 

 そう——したいけれど。

 彼を離したくない——けれど。

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