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108 再会
しおりを挟むぼやける視界に映る友の顔は別人のようで、それは一層シィンの胸を苛む。
シィンがダンジァを選ばなければ——あの騏驥を望まなければ、ツォはこうはならなかったのだろうか。
彼は言ってくれていた。シィンのための騏驥を——と。
騎士になれなかった悲しみを乗り越えるように。それは彼の生きがいだったのだろう。新たな。騎士になる道を失った彼の、新たな目標であり希望だったのだろう。
(それを——自分は……)
シィンはきつく眉根を寄せる。
そんなツォの想いを、自分は踏み躙るような真似をしてしまった。
王の騏驥以外を望んではならないと、わかっていたはずだ。それはしてはならないことだと。
でも。
でも自分はダンジァに出会ってしまった。
彼を知ってしまった。
彼を手放せない自分を知ってしまった——。
(ダンジァ……)
ダンジァ——。
朦朧とする意識の中、シィンは彼の騏驥の名を呼ぶ。
無事だろうか。
彼は無事だろうか。
責められていないだろうか。
傷ついていないだろうか。
会いたい。
——会いたい。
わたしの騏驥。
もう一度彼に会いたい。
騎士の身であるうちに、お前に会いたい。
一目だけでも、一瞬だけでも。
もうお前に乗れなくても——。
(ああ——)
しかしそれを想像した時、シィンは胸の苦しさを覚え、ぎゅっと目を瞑った。
ダンジァに会いたい。けれど自分が騎士ではなくなると思うと——もう彼に乗れなくなると思うと——誰か別の騎士が彼に乗るのだと思うと——悲しさに胸が張り裂けそうになる。
いやだ……。
彼はわたしの騏驥だ。
靭く、速く、賢く、雄々しく——。
勇ましく、けれど可愛らしいほど真面目で忠実な——わたしの騏驥。
——わたしだけの、何よりも大切な騏驥。
何よりも大事な騏驥。
そして何よりも好きな——愛しい——。
(ダンジァ——)
会いたい。
顔が見たい。声が聞きたい。彼の背に、また乗りたい。
噛み締めるように、シィンが再びその名を胸中で叫んだ時——。
「…………?」
苦しい息の音と断続的な耳鳴りに混じって、なにか音が聞こえた気がした。
いや——聞こえる。
それはまだ遠く微かだ。だが不思議と確かだ。聞いたことがある音。聞き馴染んだ音。聞きたい音。
規則正しく繰り返される四拍子。
——騏驥の蹄音。
乱れなく地を蹴る、地鳴りにも似た荒々しくも心沸き立つ蹄の音。
それは一完歩ごとに近づいてくる。
弾むような飛ぶような——そして何より勇ましい——。
「ダンジァ……」
思わず、シィンは零していた。
シィンの首にかかっているツォの手が、ピクリと震える。
「? シィン様?」
怪訝そうな声。
けれど近くのそんな声より、遠くからの蹄音の方が気になった。
懸命に耳を澄ます。
……聞こえる。間違いない。
これはダンジァの駆ける音。聞き間違えることなどない彼の足音。
淀みのない、揺るぎのない、どこまでも忠実なあの騏驥の——。
「まさか……」
そこでようやっとツォも気づいたのだろう。
掴んでいたシィンを突き放すと、仄かな灯りを頼りにしながら、慌てたように周囲を彷徨い、キョロキョロし始める。
さらに近づく蹄音に、地が揺れる。
身体が揺れる。心が揺れる。
「——ダンジァ!!」
再び出逢える歓びを堪えきれず——待ちきれず、シィンがふり絞るように声を上げた時。
地が爆ぜたような響きと衝撃が、崩れかけている練楼観を大きく揺らす。
空白の一瞬。
直後、そこには現れたのは、会いたくて堪らなかったはずの——しかし見たことのない、一頭の騏驥だった。
シィンは瞠目した。
夜明け間近。途切れ始めた雲を分けて射し込んでくる名残の月明かりに映える、雄大な馬体。
どれだけ駆けてきたのか、全身はしっとりと汗に濡れ、立ち上る熱は、溢れる生命力の証のようだ。
風に靡く鬣。
額には星。
紛うことなく彼の騏驥——ダンジァだ。
だがその毛色は……。
「ダン……ジァ」
シィンは唖然と声を溢す。
ツォは声もなく驚愕の表情だ。
そこにいたのは、赤い姿——。
世にも稀な、赤い騏驥だったのだ。
(赤……)
その眩さと鮮烈さ。
目が離せないまま、シィンはただただ感嘆する。
赤——五変騎——。
けれど彼が、どうして……。
「——!!」
と——。
騏驥はシィンの姿を認めると、歓喜の叫びのように大きく嘶き、すぐさま人の姿に変わって駆け寄ってくる。
「シィン様!!」
全裸の彼に抱き起こされ、胸の中に抱きしめられ、シィンは耳まで真っ赤になる。暗くて良かったと思いつつ——しかし直後、騏驥は夜目が利くことを思い出し、更に頬を手に染める。
でも——。
(会えた……)
恥じらいつつも、シィンはようやく安堵の笑みを見せた。
よかった。
よかった——。
騎士でいるうちに再び会えて。
「ダンジァ……」
「シィン様……」
「ダンジァ——」
「シィン様……っ——」
名を呼び合い、きつく抱きしめられ、胸がいっぱいになる。
抱き返したいのに身体が動かないのがもどかしい。
せめてもっと近づきたくて頬を擦り寄せると、シィンの意を察してくれたかのように、一層強く抱きしめられる。
それがなんだか恥ずかしくて、「来るのが遅い!」と、腕の中で文句を言うと、生真面目な騏驥は「申し訳ありません」と苦笑混じりに包むように抱きしめながら返してくる。
そしてダンジァは、手元に置いた剣にふっと目を向け、改めてシィンを見つめて言った。
「星駕が、導いてくれました」
「……そうか……」
「はい」
シィンの頷きにダンジァも深く頷くと、ようやくほっとしたように微笑む。
だがその時。シィンは彼の腕に、新たな傷を見つけた。
誰かに傷つけられたのだ。
わたしの騏驥が。
——わたしの騏驥が。
そう思うと悲しさと悔しさで涙が出る。
嗚咽を堪えるように唇を噛むと、
「大丈夫です」
気づいたダンジァが、シィンを見つめて微笑んだ。
優しい指に、涙の溜まった目尻をそっとなぞられる。
「このぐらいは大丈夫です。ご心配なく」
「…………」
「シィン様……? ぁ……裸なのはご容赦を。緊急の事態でございますので、なにぶん着替えの準備までは——」
「そうではない! 嫌なのだ!」
気遣うようなダンジァの声に優しさに、シィンは思わず言い返していた。
「っ、し、心配もしているが……でもそれ以上に嫌なのだ! お前が……わたしの騏驥が傷つけられるなど……」
この騏驥は、端から端までわたしのものだ。
頭の天辺から爪先まで。鬣の一本から、尻尾のひとすじまで。
言いながら、シィンはそんな気持ちが絶え間なく込み上げてくるのを感じていた。
今までは決して感じたことのない、誰にも感じたことのない、私的な——ごくごく私的な強い欲。どんな我儘よりも我儘で、恥ずかしいほど欲深く、けれどどうしてもどうしても譲れない——そんな想い。
「お前は……わたしのものなのだから……」
身体の奥から湧き出し、込み上げ、胸を満たしてまだ溢れる気持ちが、声になって口をつく。
同時に、再びどっと涙が溢れた。
ただでさえ相手は普通の騏驥なのだ。シィンにとっては特別な、けれど王の騏驥ではない以上、側においてはおけない相手。
しかも自分はもう——騎士ではいられなくなるかもしれないのに。
なのに——。
なのに、彼を縛るようなそんな言葉を——。
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