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95 思いがけない提案(2)

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 誰にどんなに引き止められても、振り切って駆け出してしまいたくなる。
 ——彼の元へ。

 自分がこんなに衝動的だなんて、思いもしなかった。
「賢い騏驥だ」と周りは褒めてくれるけれど、どうやら自分はシィンのことになると、すっかり馬鹿になってしまうらしい……。
 ダンジァは密かに赤面する。

 とはいえ、そんな自分は嫌じゃない。それで少しでも彼の役に立てるなら。
 自分が密かに抱く彼へのやましい気持ちを、隠しておけるうちは。

(その間は……せめて……)

 なるべく側にいたい。
 そう思ってやまないのは、シィンの容態が気になるのはもちろんだが、彼への気持ちに踏ん切りをつけるためのこの大会が、最後になるはずだった出走が、最悪の形で有耶無耶になってしまったためもあるのかもしれない……。
 
 と、シュウインが「行こうか」と先に立って部屋を出る。
 部屋の入り口を見張っていた衛士たちは既にいなくなっている。
 本当にここから出られるのだと実感すると、知らず知らずのうちに硬く緊張していた身体が、緩やかにほぐれていくようだった。

 そのまま、ダンジァはシュウインに案内されるまま彼の後についていく。
 城の中は彼の方が詳しい。
 しかも、ここは主館からも主宮からも離れた場所のようだし、辺りはすっかり暮れている。
 騏驥は夜目が効くとはいえ、何しろ慣れない場所だ。
 道の途中にぽつりぽつりと灯った申し訳程度の灯りと、シュウインが使っている発光石がなければ、どこともわからない場所に迷い込んでしまいそうだった。

 足音とも言えないほどの、密かな、静かな、二人の歩く音が夜の静寂に混じる。
 ダンジァは、シィンの側に行ける期待に高鳴り続けている胸をなんとか宥めながら、シュウインに続く。

 しかし——。






 それからどれほど経っただろうか。
 歩いても歩いても人気ひとけが感じられず、流石にダンジァも不思議に感じ始めたとき。
 前を歩いていたシュウインが、つと足を止めた。連れて、ダンジァも足を止める。どうしたのかと思っていると、シュウインがゆっくりと振り返る。
 掌に発行石を持ったままの彼は、その揺れるぼんやりとした光のせいなのか、どこかそれまでと違ったように見えた。
 虚ろでありながら、どこか思い詰めたような……とでも言えばいいのだろうか。

「……ダンジァ」 

 そしてシュウインは、苦しさを逃すような、息ごと押し出すような声で言った。

「悩んだんだが……決めた。頼みがある」

「? なんですか?」

「会ってもらいたい者がいるんだ。会ってもらいたい、騏驥が」

「…………」

 騏驥。
 その言葉に、ドキリとする。
 もしかして……。

 ぼんやりと抱いていた推測が、形を成していく。

 もしかして——新たに疑いをかけられてるという者だろうか。
 つまりはウェンライやツェンリェンたちが探している、ダンジァやシィンに薬を盛った犯人と思しき……。

 そんな思いが顔に出たのだろう。シュウインは微苦笑を見せながら小さく頷いた。
 
「流石に勘がいいね。うん……。つまり、そういうこと。例の……きみや殿下の件で、とても後悔してる子がいるんだよ。それで、捕まる前にきみに謝っておきたいみたいでね。……でも、なんで僕のあの言葉だけでわかったの?」
 
「……さっき、ユェンさんと話していた時に……」

「?」

「ユェンさんが、疑わしい者は誰かと尋ねたときに、シュウインさんは『わからない』と答えたんです。でもその後、ユェンさんが今度は『逃げてるのか』って尋ねた時には『わからない』っていう答えじゃなかったので……。なんとなく、該当者のことを何も知らないわけじゃないんだと思いました」

「…………」

「それで……『騏驥』となれば……」

 そう。自分とユェンが犯人でないとすれば、あとは該当者となるのは、あの待機場所の飲食物に近づく機会があった者だけだ。
 飲み物や食べ物は部屋に常備されていたから、同じ部屋にいた他の騏驥や騎士がこっそり近づくこともできただろうが、それよりもまず、それらを運んできたり、取り替えたりしていた者——あの部屋の世話をしていた王の騏驥を疑うべきだろう。
 しかもあの騏驥は——ダンジァと揉めた過去があった。

 さらに考えを進めれば、逆に「彼は違うのでは」という疑問も出てくるのだが、調べる側からすれば、ひとまず詳しく話を聞こうとするだろう。
 なのに姿が見えなくなったとなれば……。

 考えながら見つめるダンジァの視線の先で、シュウインは微かに苦笑した。

「そうか。ああ……だからあのときこっちを不思議そうに見てたのか」

 そして、思い出したように言う。先刻、まだユェンと部屋にいたとき。医館へ立ち寄る話が持ち出される直前、ダンジァがつい見てしまったときのことを言っているのだろう。
 そう、あの時になんとなく引っかかったのだ。

 目敏いなあ、と笑いながらシュウインは続ける。

「そこまでわかってくれているなら、話は早い。状況が状況だし相手が相手だから、僕もどう切り出そうか——そもそも切り出すかどうか迷っていたんだけど……。もうこの機を逃したら機会はないと思ってね。近くにいるんだ。匿ってる。会って、直接の謝罪を少しだけでも聞いてもらえないかな」
 
「…………」

 淡々と話すシュウインを、ダンジァはきつく見つめ返した。
 もしかして、端からこれが目的だったのかと——そんな風に問い詰めたい気持ちが込み上げてくる。
 こんな、騙すようなやり方だけでもいい気持ちはしないのに、しかも会って欲しいという相手は、自分を陥れようとした相手なのだ。
 自分に汚名を着せ(それはひいてはシィンの汚名にもなる)、しかもそれだけでなく、シィンの命を危険に晒した相手なのだ。今だって、シィンは治療中だ。ダンジァ自身は容疑が晴れたも同然だが、自分の名誉と同じぐらい——それ以上にシィンのことが大事なダンジァにしてみれば、とてもではないが会いたいと思える相手ではない。
 
 むしろ顔も見たくない相手だ。さっさと捕まってほしい相手だ。
 なのにどうしてそんな相手と会い、しかも話を聞かなければならないのか。たとえそれが謝罪だとししても、決していい気分ではない。

 隠れているという騏驥に——そして匿っているというシュウインに、言いようのないもやもやとした怒りが込み上げてくる。
 ついぎゅっと拳を固めると、シュウインは淡く——弱ったように笑った。

「きみが憤る気持ちもわかるよ。騙すような真似をしてすまない。ただ……彼は同じ王の騏驥としてずっと一緒にいた仲間だからね。思い詰めた様子で頼まれると拒絶しづらい……」

「……」

 その言葉からは、彼の苦しさも感じられる。
 ダンジァは考えた。
 断るのは簡単だ。会わなければならない義理はない。
 が……。

 その一方で、どうしてあんなことを、という思いもあった。
 自分に対して悪意を持っていたとして——持ち続けていたとして、どうしてシィンまで傷つけるような真似をしたのか。
 考えが及ばなかった? だとしても、シィンをあんな目に遭わせた彼に対して、一言言ってやらなければ気が済まない——そんな思いがあるのも確かだ。
 捕まれば、彼はそのまま処分される可能性もあるだろう。となれば、もう会う機会も直接話す機会もない。

「…………わかりました」

 迷った末、ダンジァは短く言った。

「わかりました。会います。ただし、こちらも言いたいことは言います」

 そう続けると、シュウインは安堵したように息をつき、「うん、うん」というように頷いた。

「もちろんだ。じゃあ、行こう。——こっちだ」

 そして彼は、少し道を外れるようにして再び歩き始める。
 より足元が暗くなるなか、ダンジァはモヤつく胸を抱えたまま、仕方なくシュウインに続いた。
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