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94 思いがけない提案
しおりを挟むダンジァは見知った顔に会えたことにホッとしつつ「はい……」と頷いた。
「ここから出られる件……ですよね? 今しがたユェンさんから聞きました」
そしてダンジァは、
「彼はシュウインさんです。王の騏驥の一頭で城では何度も世話になって……」
と、ユェンに軽く紹介する。
しかしそれに対してのユェンの反応は、なぜか予想していたものとは違っていた。
彼はじっとシュウインを見つめていたのだ。
(?)
どうしたのだろう、とダンジァが不思議に思ったとき。
「……きみ、朝の……」
ぽつりとユェンが言った。
その言葉に、シュウインも控えめな笑みを見せ、静かに目礼する。
どういうことだろう、と未だ不思議に思うダンジァに、ユェンが説明してくれた。
どうやら、今朝、彼が待機場所を探して迷い、困っていた時に案内してくれたのがシュウインだったらしい。
「王の騏驥は似た顔ばかりだからわからなかったよ。声で思い出した。あの時はありがとう」
「いいえ。お役に立てたなら何よりでした。でもまさか、ここでまたお目にかかるとは思いませんでした」
シュウインは言うと、改めてダンジァに向き直る。そして言った。
「既に話を聞いてるところに重ねて言うのもなんだけど、一応伝令としては伝えておくよ。きみも、ここから出られることになった。その報せに来たんだ」
「はい——」
間違いないのだ、とダンジァはシュウインからの言葉を噛み締めるように聞く。
「それと……あと、これはきみが——」
「ところで、疑わしい者というのは、いったい誰なのですか!? シュウインさんなら何か聞いているのでは——」
しかしまだ続けようとしたシュウインの言葉を待たず、ダンジァはつい前のめりに尋ねてしまった。
報せにきた伝令が他の者だったなら、これほど積極的に尋ねなかっただろうが、相手は見知ったシュウインだ。気になっていることをついそのまま訊いてしまう。
ユェンが一瞬どきりとした顔をしたが、彼も知りたいのだろう。特に嗜められることもなかった。
だが。
そんなダンジァたちの前で、シュウインは頭を振った。
「申し訳ないが、それは僕にもわからない」
「…………」
「まだ調べている途中のようだしね」
「そう、ですか……。でも、調べは進んでいるのですね……?」
「そのようだよ。大会が終わってからは、本格的に疑わしい者の身柄確保に乗り出しているようだから」
「……ということは、そいつは逃げてるってこと?」
ユェンが顔を顰めて言うと、シュウインは苦笑しつつ「そのようですね」と、頷く。
その貌をダンジァがじっと見つめていると、気づいたシュウインは一瞬戸惑うような顔を見せたものの、直後、意味深に微笑む。
そして彼はさりげなくユェンに背を向けるようにしてダンジァに顔を寄せてくると、
「そうそう、さっきの続きだ」
普通の人には殆ど聞こえない声量で——耳のいい騏驥にしか聞こえない声で言った。
「きみもここから出られることになったのは言ったけれど、もしきみが望むなら、僕が城の門まで見送るよ」
「?」
首を傾げたダンジァに、シュウインはさらに声を落とし、微かに秘密めかした口調で続ける。
「帰る前に寄りたいところがあるなら……」
「!」
ダンジァは思わず息を呑んだ。そんなダンジァに、シュウインは「任せて」と言うように頷く。
ダンジァは、俄に自分の心臓がドキドキし始めるのを感じた。
寄りたいところ。
寄りたいところ——。
そんなところ、一つしかない。
行けるのだろうか。シィンの元へ。
近づけるのだろうか。
(本当に……?)
縋るように見つめてしまうと、よほど必死な顔をしていたからなのか、シュウインが苦笑する。けれど彼は再び小さく頷いてみせた。
連れて行ってくれる——ということなのだろう。
それでもまだ大丈夫なのだろうかと不安になるが、思い返してみればシュウインは王の騏驥たちの中でも少し特別な立ち位置のようだ。
彼に城を案内してもらったときに、それは感じた。
あのとき、彼は確かに騎士なしでも自由に動ける通行証を所持していたものの、堂々とした立ち居振る舞いはそれだけが理由ではないように感じられたし、ツォ師からの信頼も篤いようだから、普段から少し特別扱いなのかもしれない。
それならば、ウェンライたちがなるべく話が大きくならないように配慮しつつ処理しようとしていた、シィンが倒れた件やその犯人捜索やその後のことも、そしてその場にダンジァがいたことも、誰かから聞き及んだ可能性がある。
自分が「シィンから離れたくない、側にいたい」と騒いだことも……。
ダンジァがここへ移されるまでは会わなかったけれど、その後、ツェンリェンたちの元へツォ師が駆けつけたかもしれない。シィンと親しく、騏驥の薬にも詳しいだろう師なら、さまざまな形で力になるだろう。そこでシュウインとあったのかもしれない。
そうでなくても、ずっと城で過ごしている王の騏驥なら親しい衛士の一人や二人はいるだろうし、そんな人たちから、ことの経緯や事情を聞いたのかもしれない。
自分から申し出てくれたのか、それとも誰かからの——それこそツォ師やウェンライたちからの命令なのかはわからないが、ダンジァと親しく、事情を知っている彼がこうしてわざわざ伝令になってくれたということは、つまり「そういうこと」なのだろう。
ダンジァはシュウインの心遣いに感謝しつつ、目立たぬように小さく、しかししっかりと頷く。
しかし、さてどうすれば……と思っていると、
「ユェン先生」
先にシュウインが口を開いた。
振り返り、ユェンを見つめて続ける。
「では彼は、わたしが城門まで送ります。先生はどうぞ、先に厩舎にお戻りください」
「え……でも……」
戸惑うような声とともに、ユェンの瞳が、不安そうに揺れる。
向けられた訝しむような目を見つめ返すことができず、ダンジァはさりげなく視線を外す。
シュウインが「大丈夫です」と続けた。
「騏驥同士、少し話もありますし、今日の大会の結果も伝えておきたいので。……それに、わたしも伝令の仕事を承ってここへ来た以上、何もしないわけにはいきません。どうか彼を送るぐらいはさせてください」
「…………」
しかし、ユェンは返事をしない。
張り詰め始めた空気の中、ダンジァは思い切って彼を見つめ返すと、
「——お願いします」
頼み込むように、深く頭を下げる。
ややあって、ユェンの長い溜息が聞こえた。
「まったく……」
続いた声は、苦笑混じりだった。
「素直で頭がいい騏驥なのに、頑固だなあ。まあ、それだけ”騎士思い”っていうことなのかな」
「ユェン……先生」
思わず零したダンジァの言葉に、
「こんな時だけ『先生』じゃなくていいよ」
とユェンは笑う。そして続けた。
「確かに君たち騏驥の体調管理は僕たち調教師の大事な仕事だけど、騏驥が騎士を大事に思う気持ちまでは……管理出来ないからね……」
それに、きみはこのまま厩舎に戻った方が殿下を心配し過ぎて具合を悪くしそうだ。
さらにそう続けると、「先に戻っておくよ」と微笑んだ。
「先に戻って、僕はサイ先生に話をしておく。だからきみもなるべく早く戻ってくるように。彼に迷惑をかけないようにね」
チラリとシュウインを見て言うと、ユェンは「いいね」と言うように、ダンジァの腕をぽんぽんと軽く叩く。
そしてそのまま、部屋を出て行った。
監視を兼ねた護衛のためだろうか、衛士が数人続く。
その背中に、ダンジァはもう一度頭を下げた。
ずっと心配してくれていて、解放されるとわかったらすぐにわざわざ来てくれたのに、言う事を聞けなくて申し訳ない気持ちが込み上げる。
今更かもしれないが、チクチクと罪悪感に苛まれる。
思えば、今まではこんなふうに調教師の言に反抗したことなどなかった。
騏驥は元々調教師や騎士には従うように馴致されているが、それを加味しても従順な方だったと思う。
「聞き分けのいい騏驥でいよう」と、ことさら意識していたつもりもないが、逆らいたいとも思わなかったのだ。「あの騎士に乗ってもらいたい」と希望を抱くことはあっても、そのために誰かに逆らおうとは思わなかったし、しなかった。
それなのに……。
それなのに、今は。
それなのに、シィンのこととなっては。
彼が関わると、今までの自分とは思えないような行動をとってしまう。
近くに行けるかもしれないと思うだけで、こんなに胸が熱くなって……。
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