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90 疑(2)
しおりを挟む「……」
ダンジァは、じっとツェンリェンを見つめたそのまま、静かに立ち上がる。
距離が近いせいか、それとも帯剣しているせいか、その途端、衛士がツェンリェンを庇おうと前に出ようとする。が、ツェンリェンはそれを留めると、苦笑し、「下がれ」というように手を振った。
「彼がわたしに刃を向けることはない。大丈夫だ」
「ですが」
「この騏驥は賢い。嫌疑をかけられたまま死にたくはないはずだ。何事も起こらぬ、そう心配するな」
「…………」
「それとも、わたしの剣技は騏驥に劣ると?」
「いえ……そのような」
どんな言葉より、どんな声より最後に薄く笑みを浮かべながら言った一言が一番恐ろしい。
ダンジァがそう感じたように、衛士もまたツェンリェンのその言葉に「これ以上は」と察したのだろう。言われるまま、医師とともにその場から離れる。
去り際、ダンジァを睨むことは忘れなかったけれど。
そして部屋の端からは、なお言い募るユェンの声が聞こえてくる。
彼も状況を説明しているようだが、果たしてそれでウェンライが納得してくれるだろうか……。
不安になっていると、
「すぐに解放——というわけにはいかないだろうな」
そんなダンジァの胸の中を見透かしたように、ツェンリェンが言った。
目が合うと、彼は先刻までよりはいくらか柔らかな——しかし相変わらずの険しい、警戒心を保ったままの表情で言う。
残念ながら、ツェンリェンにとって今のダンジァは、仮に過失であったにせよシィンを毒の危険に晒した騏驥だ。
しかも、そんな過失を犯す原因となったのは——毒になる薬を使ったのは、よりによって、その薬を用いて自身の能力を増すため——。禁止されているにも関わらず、薬物を使って結果を出そうとしていたため、という最悪の理由だと思われている。
誤解とはいえ、その誤解を解くことができていない以上、彼の厳しい表情や態度は仕方のない事なのだろう。
言い分をろくに聞いてもらえないことも悲しいが、騎士と騏驥という立場の違いでは仕方がない事なのだろう。むしろ、この状況は「まだいい方」なのかもしれない。
思い返せば、さっき衛士がなだれ込んできた時は有無を言わさず捕らえられるところだったのだから。
(でも)
やっていないものはやっていない。
一体どうすればわかってもらえるのか……。
ぐるぐると考えていると、
「捕らえるような真似はせぬ」
こちらもまた、ウェンライとユェンの様子を見ていたらしいツェンリェンが、ダンジァに視線を戻して言った。
「それが殿下の御意向だからな。それには従う。が……ことがことだけに、”このまま”というわけにもいかぬ」
「……自分は……どう、なるのでしょうか」
声を押し出すようにして、ダンジァは尋ねる。ツェンリェンは再びチラリとユェンたちの方に目をやり、改めて続けた。
「今準備させているが、こちらの定めた別所に、それぞれ別々に待機してもらうことになる。その後、もう少し詳しく話を聞くことになるだろう」
「…………」
要は軟禁だ。捕らえられないとはいえ、行動が制限されることには変わりない。
しかもユェンと別々に、ということは口裏合わせができないように、ということだろう。だがそもそも、合わせる口裏もなにもない。
——それなのに。
黙ったまま、ダンジァはツェンリェンを見つめる。——否、睨む。
だが彼は顔色ひとつ変えない。
騏驥の無礼な態度に怒るわけでもなく叱るわけでもないのは、ダンジァはまだシィンの騏驥だと思っているからだろうか。
それとも……その気になれば怒ったり叱ったりするまでもなく、即座に”どうにでもできる”自信があるからだろうか。
ダンジァはツェンリェンを見つめたまま、ゆっくりと息をつく。
視線に込めていた圧を和らげる。
誤解は解きたい。すぐにでも。けれどそのためにも、ここで彼と敵対することはない。しても、いいことはない。
落ち着け。
そう自分に言い聞かせていると、
「……やはりお前は賢い」
ツェンリェンが微かに口の端を上げながら言う。
はっと息を呑んだダンジァに、彼は続ける。
「お前たちから話を聞くのと前後して、お前たち以外の者からも、より詳しく話を聞く。今のところはこの部屋にいたものや出入りしたものたちに、急ぎ当時の状況を訊き込んでいる程度だが、そこで少しでも疑わしいと思われた者たちには、再度詳しく尋ねることになる。例えばそう——この部屋に出入りしていた王の騏驥たちなどについてはな」
「!?」
思いがけない言葉に、ダンジァは瞠目する。
まさかそんな名前が出てくるとは思ってもいなかった。
驚くダンジァに、ツェンリェンはさらに続ける。
「言っただろう。お前は愚かではないはずだ、と。ならばお前は陥れられた可能性がある。となれば、動機のある者を探る必要があるだろう。ただ——王の騏驥は立場的にも性質的にも殿下に危害を加えるとは思えぬが……。いずれにせよ、それもこれも、『彼』が関わっていなければ、という前提だが」
言いながら、ツェンリェンはユェンを見る。
ダンジァはぎゅっと唇を噛んだ。
彼は絶対にそんなことはしないと信じているけれど、確かに、もし——もしダンジァの側で”何か”を企てられるとすれば彼になるのだろう。
調教師なら、調教師になるための試験に薬や魔術に関する科目があるらしいから、その効能や使用法やタイミングについても詳しいだろう。騏驥のための薬を手に入れることも容易い。
ユェンがどのぐらい詳しいのかはわからないが、調教師によっては、医師なみに薬を揃えていたり、さらには調合までする者もいるという話だ。
それはもちろん、良い方向に考えれば何より騏驥のためだ。
普段から騏驥の状態に気を配り、早期に心身のケアをすれば騏驥は大きく調子を崩さずに済むし、そうなれば活躍できるしいい騎士にも乗ってもらえる。
だが。
一方で「そうではない」者もいるらしいという話も聞くから厄介なのだ。
騏驥は、調教師から与えられるものについては、ほぼ無条件に受け入れる。
食べ物も、飲み物も薬も全てだ。
普段厩舎で生活している騏驥は、日々世話してくれている厩務員やその管理者である調教師には絶対の信頼を置いているためだ。
騏驥となり、親や友人たちから引き離されて生きていかなければならなくなった者たちにとっては、新たな家族や仲間のようなものだ。
ダンジァの正式な調教師はサイ師だが、ユェンもサイ師の元で修行し始めて——つまりダンジァとも顔を合わせるようになって、それなりに日が経っている。
同じように師だと思っているし、サイ師より若い分、ある意味、より親しかったと言えるかもしれない。
だから彼がそんなことをしたとは思いたくないし、彼はそんなことをしない、と信じている。
でも、もし。
ダンジァの厩務員を任され、この大会に参加したことで、大きなプレッシャーを感じていたとしたら……。
今回の大会に出走するダンジァは、名伯楽でありながら、それまで大会には騏驥を出走させなかったサイ師が初めて送り出した騏驥だということは、周知の事実だ。しかも、乗るのはシィン。——王子だ。
当日、世話を任された彼が「勝たせなければ」と気負い過ぎていたとしたら……。
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