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82 王子の言(2)
しおりを挟む自分が代われるものならと思わずにいられない。何もできない悔しさに唇を噛むと、宥めるように手を握られる。力が入らないのだろう。その指は震えている。
ダンジァがきつく握り返すと、シィンはホッとしたように小さく息を零した。
だがダンジァの服のあちこちに血が滲んでいることに気づいたのか、
「怪我をしたのか……?」
細い息の中、心配そうに尋ねてくる。
自分こそ苦しいだろうに、そんな時ですら……と思うと、ダンジァの全身が感動に震える。泣きそうだ。泣く代わりに「いいえ」と頭を振った。
剣先が肩や背を掠った程度のこんなもの、怪我のうちに入らない。
それでも不安そうなシィンに「本当に大丈夫です」微笑むと、彼もようやっと小さく頷く。
そして彼は、周囲に向けて改めて言った。
「これがわたしに害をなすことは……絶対にない……。なにがあっても……なにがあっても、だ……。これに、咎はない……。毒は……決してこの騏驥のせいではない……。捕らえるような真似は、するな……」
「…………」
「いいな。わたしが違うと言ったら、違うのだ……」
シィンが言うと、衛士の男は「は……」と一言溢して深く頭を下げる。
シィンは「うん」と頷くと「お前の務めにはいつも感謝している」と、男の職務を労うように言う。
しかし直後、
「これは、わたしを裏切るような真似はせぬ……」
掠れた声で、再び、念を押すように言う。
苦しい息の中、それでも繰り返しダンジァを庇ってくれようとするシィンの言葉に、ダンジァは胸の奥だけでなく目の奥まで熱くなるようだった。
シィンの手を握る手が震える。同時に、自然と力が篭っていく。
その騏驥は違う。
彼はわたしの騏驥だ。
わたしに害をなすことは絶対にない。
なにがあっても。
彼の言葉が耳の奥に蘇るたび、抑えられないほどの感激と幸福感が身体の奥から突き上げてくる。
彼が誰を好きだろうが、誰と親しくしていようが、そんなことなどもうどうでもいいと思える。
たとえこの先、彼が自分を遠ざけたとしても。それでも自分は生きている限り彼に対して忠誠を尽くすだろう。愛を尽くすだろう。
(もう、充分だ)
ダンジァは思った。
もう充分だ。今の言葉だけで、自分は他の誰よりも幸せを感じられた。この先、誰からも一欠片の愛情を受けることもなくても、今の記憶だけで生きていける。
もちろん、今も自分が抱くこの想いが、このまま一生報われなくても。
(いや……)
ある意味、報われすぎるほど報われたと言えるだろう。
騏驥になってからというもの、否、生まれてからというもの、これほど胸が震えたことはないから。
ダンジァは目頭に込み上げてきたものを幾度も袖で拭った。
そんなダンジァを見つめてくるシィンの瞳は、いつもの眩しく澄んだ光を宿した星のようなそれではなく、痛みと苦しみにけぶっている。それでも、喩えようもないほど美しい。
だが直後、その瞼は再び閉じられる。顔色は、もう血の気など失せたかのように白い。
ダンジァが握りしめていた手も、力なくずるりと滑り落ちる。
限界だったのだ。
「シィン様!」
思わず声を上げたダンジァのその耳に、医師たちが「早く医館にお連れしたほうが……」と、ツェンリェンたちと話しているのが聞こえてくる。
「自分が——」
ダンジァは再び名乗りを上げると、シィンを抱え上げようとする。が、またそれを阻まれた。今度はツェンリェンだ。「どうして」と見つめるダンジァに、ツェンリェンは厳しい表情で言った。
「お前の気持ちはわかる。が、それは許せぬ」
「どうしてですか!?」
息巻くダンジァに、ツェンリェンは静かに言った。
「殿下はああ仰ったが、この事態の全容が解明されていない以上、お前はまだ疑わしいと言わざるを得ない」
「そ……」
「殿下のお気持ちには沿いたい。そしてわたしもお前がそんなことをしたとは思っていない。が——残念ながら、現状、お前が無実である証拠が何もない。殿下の近衛として、そんなお前をここから出すわけにはいかない」
彼の目は、いつもの穏やかなそれではなく、王太子の側近として彼を護らなければならないという強い意志と、もし万が一何かあった場合には必ずその犯人を捕らえるという、強い使命感とに溢れている険しい目だ。
ダンジァは唇を噛む。
しかし彼の言い分も痛いほどにわかる。もし自分が逆の立場だったなら、同じことを言っただろう。シィンの意を汲んで捕らえこそしないものの、目を離すような真似はできないに違いない。
シィンが庇ってくれたとはいえ、今、一番疑わしいのはシィンの一番近くにいたダンジァなのだ。それを覆せるだけの証拠はまだ何もない。
衛士もそう思ったから、先刻ダンジァを止めたのだろう。
特に彼らは、一報からして「ダンジァがシィンに毒を盛った」というものだったらしいから。
(誰がそんな、誤った報告を……)
でも、側から見ていただけなら、そう思えても仕方がないのかもしれない。
あのとき、シィンの近くにいたのは確かにダンジァだけだったのだ。ダンジァだけが側にいて、そしてシィンが血を吐いた。
見ていた者からすれば、ダンジァがやったのだと報告するだろう。
「下がれ、ダンジァ」
そうしていると、ツェンリェンの声がした。
振り仰ぐと、彼は「下がれ」と言うように顎をしゃくる。
医師たちが手ぐすね引いているのが見える。すぐにでもシィンを医館へ連れて行きたいのだろう。確かに、早く処置をしたほうがいいに決まっている。詳しく診て、そして薬や手当てを……。
でも——。
「っ…………」
しかしダンジァは、シィンを抱きしめたまま首を振った。
ツェンリェンが顔色を変えた気配がある。医師たちが息を呑む。それでも、ダンジァはシィンを放さなかった。
「ダンジァ——」
「嫌です」
「ダンジァ!」
「離れたくないのです!」
声を荒らげたツェンリェンに、ダンジァは叫び返した。
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