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68 出走直前(2)

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<……っ>

 なんとか気持ちを宥めようとしつつ、しかしなかなか上手くいかずますます焦っていると、

「ほう」

 そんなダンジァの耳に、シィンの声が届いた。
 面白がっているような、楽しんでいるような声だ。いつものような、シィンの声だ。
 そして気づけば鬣が撫でられ、耳が撫でられる。
 その声と手のひらの温かさにダンジァの気持ちも次第に落ち着いていく。
 怪訝そうな顔をする騎士に向けて、シィンは続けた。

「そんなに人気とは知らなかったが……。なるほど、今日の観客はみな見る目があると言うわけだな」

 ふふ……と自信たっぷりに言うその声に、シィンに話しかけてきた騎士がたじろいだのがわかる。それが騏驥にも伝わったのか、それまでダンジァに対して挑戦的だった騏驥も、どこか不安そうな気配になる。

「見ない顔だが、お前は地方からの参加か」

 すると、そんな男の騎士に向けてシィンは尋ねる。男が頷いて何か言う。おそらくどこから来たのか伝えたのだろう。シィンは「そうか」と頷き、そして微笑んで言った。

「遠方よりの参加、嬉しく思う。今日のこの盛り上がりの理由の一つは、大勢の騏驥や騎士が参加をしてくれたおかげだ。お前たちのおかげだ。感謝している」

「……」

 シィンのその言葉に、男がまた何か言う。戸惑うような驚いたような顔だ。照れているような恐縮しているような……。
 言葉がわからないのがもどかしい——とダンジァが思ったとき。

「とはいえ、お前もお前の騏驥もせっかく王都までやってきた以上は、何か結果を残さねばな。せっかくの大会参加なのだし、頑張って、運よくわたしと、このダンジァの二着にでもなれたなら、後々までの充分な自慢話になるであろう」

<…………!>

 にこやかに言い放ったシィンの言葉に、ダンジァは息を呑む。
 男の表情も固まっている。
 ただ一人、シィンだけは、圧倒的なほどに美しい——堂々とした——自信たっぷりの笑顔だ。
 直後、何気ない仕草でトン、と腹を蹴られて合図をされ、ダンジァは慌てて歩くのを再開する。
 視界の端に映る騎士は、さっきまでの意気揚々とした様子とは打って変わって、今は緊張のためか青くなっているようだ。
 舌禍……とまではいかないにせよ、今のやりとりを側から見ていた限り、彼はシィンとダンジァを牽制し動揺させプレッシャーを与えるつもりが、跳ね返されてしまった——というところだろう。

 確かに、いっときは男の言葉に狼狽えて緊張しすぎてしまいかけていたダンジァも、シィンの声を、言葉を聞いているうちに落ち着きを取り戻し、それどころか一層自信を強めている。

(これが……彼の力……ということなんだろうか)

 優れた騎士としてのそれなのか、王子としてのそれなのかはわからないが、シィンの言動には騏驥を落ち着かせ、同時に奮い立たせ鼓舞する不思議な力があるようだ。
 時間を共にすればするほど、この人となら——この騎士とならなんだってできそうな気持ちが湧き上がってくる。
 ——そんな、不思議な力。魅力。

(すごい)

 そんな騎士を背にしていることにドキドキしながらダンジァが歩いていると、

「わたしは本気だからな」

 シィンは言った。穏やかな、けれど芯のある声だった。

「こちらを煽って動揺させるような牽制に、ただ言い返しただけというわけではない。わたしは本気でお前が一番に決勝線を過ぎることを期待しているのだ」

<…………>

 紡がれる言葉は靭く、そして温かだ。ダンジァの胸の中に火が灯る。
 
 はい、と頷こうとした寸前、

「……にしても、ああいう言い返すときの言い回しがウェンライに似てきたな……。よくない傾向だ」

 うーん、と眉を寄せるようにしてシィンが言う。ダンジァは馬の姿のまま小さく吹き出しそうになった。


 そうしていると、そろそろスタート、だろうか。担当する係員たちがゲート近くに集まり始めている。
 ダンジァもいっそう集中を高めたとき、

「ああ、それと」

 再び、シィンが口を開いた。
 
「さっきだが……」

<はい?>

「わたしがあの騎士と話していたときだ。あのとき、左斜め前に濃い茶色の騏驥に跨った騎士がいたのは覚えているか」

<…………>

 さっき。
 左斜め前。
 濃い茶色。

<ああ——はい。青っぽい騎士服の……>

「そうだ。……知り合いか?」

<???>

 唐突な問いだ。
 シィンは、

<知り合いというほどではないのですが……>

 と前置きして説明する。

<多分、調教で乗ってくださったことのある方です。まだ入厩したばかりの頃だったかと思いますが>

「……よく覚えているのだな」

<え……? はい……いえ……ええと……>

 誰に乗ってもらったかは、騏驥なら皆覚えているものなのではないだろうか。
 そうだとばかり思っていたが、違うのだろうか?
 戸惑うダンジァに、シィンはさらに尋ねてくる。

「お前に乗ったのは何度だ。一度か? それとももっと——」

<一度です。それからもお話をいただいたようなのですが、サイ先生が『他の騎士と組ませてみたいから』と断っておられたようで……>

「……ほう——なるほど。サイ師が。なるほど」

 それであの視線か……。

 最後は独り言のようにシィンは言う。
 
 視線?
 こっちを見ていたのだろうか。気づかなかった。

<こっちを見られていたのですか?>

 ダンジァが訊くと、シィンは「ああ」と頷く。

「『こっち』と言うよりお前を見ていた」

<…………>

 なんと返事をすれはいいか分からず、ダンジァは黙る。
 
 気づかなかったけれど、見られていた——として。

 シィンはどうしてそんなことを気にするのだろう。このスタート前のタイミングで。しかもなんとなく機嫌が悪い……ような悪くないような……。
 手綱から伝わってくる気配が気になってしまう。

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