まるで生まれる前から決まっていたかのように【本編完結・12/21番外完結】

有泉

文字の大きさ
上 下
69 / 157

67 出走直前

しおりを挟む



 長い地下馬道を経て辿り着いた本馬場は、芝の緑の美しいところだった。
 広くて、そして眩しい。
 暗い馬道を通ってきたせいだろうか。陽の光が一層眩しく感じられて、ダンジァは思わず足を止めてしまう。

 だが鞍上のシィンは、ダンジァの好きにさせてくれていた。
 馬場入場の制限時間には間に合い、あとはスタートを待つのみだからだろうか。
 一瞬だけ、手綱を通して気持ちを確かめようかと思ったけれど、結局、ダンジァはそれをやめにした。
 なんとなく——そんなことをしなくてもいい気がしたのだ。
 改めて言葉にして確かめなくても、シィンは自分と同じ気持ちでいてくれると——そう感じられたから。

 ダンジァは再びゆっくりと歩き始めると、スタンドを見つめてふうっと大きく息をつく。歓声が、波のように押し寄せてくる。全身が歓声に包まれているようだ。
 馬道を歩いている時から、だんだんと大きくなっていくそれが聞こえてはいたが、馬場に出ると一層だ。
 人の姿も多い。とても多い。想像していたよりももっと多い。
 サイ師から話には聞いていたが、本当にスタンドが満員になっている。
 こんなに多くの人を見たのは初めてだった。

 すごい……。

 ダンジァは胸の中で呟いた。

 こんなに大勢の人たちの前で走るのだ……。

 ダンジァが噛み締めるように思っていると、

「人が多いな」

 ふと思い付いたかのように、シィンが言った。そして彼はぽんぽんとダンジァの首を叩いて慰撫してくれる。
 そうしながら、

「緊張するか?」

 尋ねてくるシィンに、ダンジァは少し迷ったものの

<はい>

 と素直に応えた。
 ここで無理をする必要はない。隠す必要はない。
 さっきからドキドキして止まない心臓の音も、緊張のせいか武者震いなのか、時折ぶるりと震える身体も、背の上のシィンには全て伝わっているだろうから。
 するとシィンは「そうか」と頷く。彼は落ち着いている。手綱を持つ手もダンジァの背に伝わってくる感触もいつも通りだ。
 人前は慣れているのだろう。
 頼もしい、とダンジァは思った。
 頼もしく、心から信じられる誰よりも美しい騎士。
 彼を背にしているのだと思うと、悦びが込み上げてくる。
 ダンジァは彼の重みを心地よく感じながら続ける。気持ちが溢れて止まらない。
 
<……正直言って、緊張しています。でも……>

「ん?」

<でも、なんだか嬉しいです。あの……>

「なんだ」

<いえ……その……ここにいられて嬉しいです。殿下とともに、ここにいられて……>

「…………」

<連れてきてくださって、ありがとうございました>

 心からの感謝を込めて、ダンジァは言った。
 そう、確かに自分は緊張している。ドキドキしている。けれどこの緊張もドキドキも、ここへ来なければ経験できなかったことだ。
 彼が——シィンがここへ導いてくれなければ。

『出るぞ』

 過日、彼が突然ダンジァに向けて言った言葉が胸をよぎる。騏驥の競技大会に出るぞ、と彼は不意に言ったのだ。
 あれはまだ、彼の身分も立場も知らないときだった。
 いきなりのことにただただ驚いて、すぐに応えることもできなくて……。

 あれから、あっという間に日が過ぎた。
 早くて飛ぶようで、けれど一日一日に全て意味があって思い出がある。
 彼のおかげで、ここまで来ることができた。
 戸惑いながらも「それまでの自分」から大きく一歩進めた気がする。

 すでに懐かしく、けれど今もまだはっきりと覚えているシィンとの出会い。そして今日までの日々。それらを思い出しつつダンジァがゆっくりと歩いていると、

「お前の力だ」

 その背の上で、シィンが静かに言った。

「今、お前がここにいるのは、お前の力だ。お前にそれだけの力があった。わたしがお前をここへ連れてきたいと思うほどの力が——お前を勝たせたいと思うほどの力が。——それを誇れ」

 その声は深くへ——ダンジァの心の奥深くへ届き、そこを震わせて染み込んでいく。

<……はい>

 ダンジァは噛み含めるよう応えると、ゆっくりとした歩みを——常歩を次第に速足に変え、やがて緩やかな駈歩に変える。
 芝の感触を確かめるように馬場を駆けると、青い草の香りがより強く感じられる。
 そのまま、出走馬が集まっている場所へ向かった。
 スタート柵の手前のこの場所が、直前の待機場所だ。
 ここでの輪乗り* で気持ちを高めて、いよいよ出走になる。
[輪乗り:ゲートの後方に集合した各馬が、枠入りの合図がかかるまで輪を描くように歩きながら待機すること。(JRAホームページより)]

 ダンジァの鞍上にはシィンがいるからだろう。他の騏驥の騎士たちが、次々と目礼してくる。そして騏驥によっては、対抗心露わにダンジァを睨みつけてくるものもいる。
 みなやる気で、勝つ気で、空気が張り詰めている。

「籤の票数はご覧になりましたか、殿下」

 と。そんな空気を縫うように男の声がした。
 シィンよりも少し年上に見える騎士だ。体格が良くて肌は陽に焼けている。

 シィンが「いいや」と応えると、彼は騏驥に乗ったまま笑顔で近づいてくる。騏驥も大きい。ダンジァと同じくらいの大きさだろう。
 騎士は笑ったまま続けた。

「この競走は、籤が売り出されてからと言うもの、ずっと殿下の騏驥が人気でございます。観客はみな大層期待しているのでしょう。当たってもほとんど配当がないぐらいに人気がある様子で——。いやいや……きっと田舎者には想像もつかぬほどの素晴らしい騏驥なのでございましょうな」

 ダンジァには、手綱を通していない男の声はただの「音」だ。何を言っているのかまではわからない。ただ、口調や表情は、あくまで明るくそして軽い。
 まるで世間話をしているような様子だ。
 
 だからダンジァは大して気にしていなかったのだが——。

<あのさ……>

 男の乗っている騏驥が、声と共にふっと顔を寄せてくる。そして鞍上の騎士がシィンに向けて言った言葉をご丁寧に通訳してダンジァに伝えてくる。

<…………!>

 途端、ダンジァは全身がピリッと緊張するのがわかった。
 そんな自分に眉を寄せる。
 慌てるな、と咄嗟に自分に言い聞かせる。

 おそらく、この騎士と騏驥は言外にこちらへプレッシャーをかけてこようとしているのだ。
 籤が売れている——人気がある——みんなが期待している——負けられない——。

 スタート前にそんなことを囁いて、こちらを必要以上に緊張させて動揺させるつもりなのだろう。しかも、その意図が透けて見えても構わないようだ。
 ダンジァは再び、慌てるな、と自分に向けて呟く。慌てるな。狼狽えるな。緊張するな。今まで通りでいい。
 ここで余計な神経を使いたくない。

<…………>

 だが、頭ではそう分かっていても、聞かされた言葉のせいか、それまでのようにうまく落ち着くことができない。大会の空気に慣れていないせいだろうか?

 期待されている——負けられない——。

 焦ったり動揺しては、彼らの思う壺だというのに。


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

獣人将軍のヒモ

kouta
BL
巻き込まれて異世界移転した高校生が異世界でお金持ちの獣人に飼われて幸せになるお話 ※ムーンライトノベルにも投稿しています

【完結】ぎゅって抱っこして

かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。 でも、頼れる者は誰もいない。 自分で頑張らなきゃ。 本気なら何でもできるはず。 でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

うちの鬼上司が僕だけに甘い理由(わけ)

みづき(藤吉めぐみ)
BL
匠が勤める建築デザイン事務所には、洗練された見た目と完璧な仕事で社員誰もが憧れる一流デザイナーの克彦がいる。しかしとにかく仕事に厳しい姿に、陰で『鬼上司』と呼ばれていた。 そんな克彦が家に帰ると甘く変わることを知っているのは、同棲している恋人の匠だけだった。 けれどこの関係の始まりはお互いに惹かれ合って始めたものではない。 始めは甘やかされることが嬉しかったが、次第に自分の気持ちも克彦の気持ちも分からなくなり、この関係に不安を感じるようになる匠だが――

顔も知らない番のアルファよ、オメガの前に跪け!

小池 月
BL
 男性オメガの「本田ルカ」は中学三年のときにアルファにうなじを噛まれた。性的暴行はされていなかったが、通り魔的犯行により知らない相手と番になってしまった。  それからルカは、孤独な発情期を耐えて過ごすことになる。  ルカは十九歳でオメガモデルにスカウトされる。順調にモデルとして活動する中、仕事で出会った俳優の男性アルファ「神宮寺蓮」がルカの番相手と判明する。  ルカは蓮が許せないがオメガの本能は蓮を欲する。そんな相反する思いに悩むルカ。そのルカの苦しみを理解してくれていた周囲の裏切りが発覚し、ルカは誰を信じていいのか混乱してーー。 ★バース性に苦しみながら前を向くルカと、ルカに惹かれることで変わっていく蓮のオメガバースBL★ 性描写のある話には※印をつけます。第12回BL大賞に参加作品です。読んでいただけたら嬉しいです。応援よろしくお願いします(^^♪ 11月27日完結しました✨✨ ありがとうございました☆

【短編】乙女ゲームの攻略対象者に転生した俺の、意外な結末。

桜月夜
BL
 前世で妹がハマってた乙女ゲームに転生したイリウスは、自分が前世の記憶を思い出したことを幼馴染みで専属騎士のディールに打ち明けた。そこから、なぜか婚約者に対する恋愛感情の有無を聞かれ……。  思い付いた話を一気に書いたので、不自然な箇所があるかもしれませんが、広い心でお読みください。

白い部屋で愛を囁いて

氷魚彰人
BL
幼馴染でありお腹の子の父親であるαの雪路に「赤ちゃんができた」と告げるが、不機嫌に「誰の子だ」と問われ、ショックのあまりもう一人の幼馴染の名前を出し嘘を吐いた葵だったが……。 シリアスな内容です。Hはないのでお求めの方、すみません。 ※某BL小説投稿サイトのオメガバースコンテストにて入賞した作品です。

新しい道を歩み始めた貴方へ

mahiro
BL
今から14年前、関係を秘密にしていた恋人が俺の存在を忘れた。 そのことにショックを受けたが、彼の家族や友人たちが集まりかけている中で、いつまでもその場に居座り続けるわけにはいかず去ることにした。 その後、恋人は訳あってその地を離れることとなり、俺のことを忘れたまま去って行った。 あれから恋人とは一度も会っておらず、月日が経っていた。 あるとき、いつものように仕事場に向かっているといきなり真上に明るい光が降ってきて……? ※沢山のお気に入り登録ありがとうございます。深く感謝申し上げます。

【完結】相談する相手を、間違えました

ryon*
BL
長い間片想いしていた幼なじみの結婚を知らされ、30歳の誕生日前日に失恋した大晴。 自棄になり訪れた結婚相談所で、高校時代の同級生にして学内のカースト最上位に君臨していた男、早乙女 遼河と再会して・・・ *** 執着系美形攻めに、あっさりカラダから堕とされる自称平凡地味陰キャ受けを書きたかった。 ただ、それだけです。 *** 他サイトにも、掲載しています。 てんぱる1様の、フリー素材を表紙にお借りしています。 *** エブリスタで2022/5/6~5/11、BLトレンドランキング1位を獲得しました。 ありがとうございました。 *** 閲覧への感謝の気持ちをこめて、5/8 遼河視点のSSを追加しました。 ちょっと闇深い感じですが、楽しんで頂けたら幸いです(*´ω`*) *** 2022/5/14 エブリスタで保存したデータが飛ぶという不具合が出ているみたいで、ちょっとこわいのであちらに置いていたSSを念のためこちらにも転載しておきます。

処理中です...