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67 出走直前
しおりを挟む長い地下馬道を経て辿り着いた本馬場は、芝の緑の美しいところだった。
広くて、そして眩しい。
暗い馬道を通ってきたせいだろうか。陽の光が一層眩しく感じられて、ダンジァは思わず足を止めてしまう。
だが鞍上のシィンは、ダンジァの好きにさせてくれていた。
馬場入場の制限時間には間に合い、あとはスタートを待つのみだからだろうか。
一瞬だけ、手綱を通して気持ちを確かめようかと思ったけれど、結局、ダンジァはそれをやめにした。
なんとなく——そんなことをしなくてもいい気がしたのだ。
改めて言葉にして確かめなくても、シィンは自分と同じ気持ちでいてくれると——そう感じられたから。
ダンジァは再びゆっくりと歩き始めると、スタンドを見つめてふうっと大きく息をつく。歓声が、波のように押し寄せてくる。全身が歓声に包まれているようだ。
馬道を歩いている時から、だんだんと大きくなっていくそれが聞こえてはいたが、馬場に出ると一層だ。
人の姿も多い。とても多い。想像していたよりももっと多い。
サイ師から話には聞いていたが、本当にスタンドが満員になっている。
こんなに多くの人を見たのは初めてだった。
すごい……。
ダンジァは胸の中で呟いた。
こんなに大勢の人たちの前で走るのだ……。
ダンジァが噛み締めるように思っていると、
「人が多いな」
ふと思い付いたかのように、シィンが言った。そして彼はぽんぽんとダンジァの首を叩いて慰撫してくれる。
そうしながら、
「緊張するか?」
尋ねてくるシィンに、ダンジァは少し迷ったものの
<はい>
と素直に応えた。
ここで無理をする必要はない。隠す必要はない。
さっきからドキドキして止まない心臓の音も、緊張のせいか武者震いなのか、時折ぶるりと震える身体も、背の上のシィンには全て伝わっているだろうから。
するとシィンは「そうか」と頷く。彼は落ち着いている。手綱を持つ手もダンジァの背に伝わってくる感触もいつも通りだ。
人前は慣れているのだろう。
頼もしい、とダンジァは思った。
頼もしく、心から信じられる誰よりも美しい騎士。
彼を背にしているのだと思うと、悦びが込み上げてくる。
ダンジァは彼の重みを心地よく感じながら続ける。気持ちが溢れて止まらない。
<……正直言って、緊張しています。でも……>
「ん?」
<でも、なんだか嬉しいです。あの……>
「なんだ」
<いえ……その……ここにいられて嬉しいです。殿下とともに、ここにいられて……>
「…………」
<連れてきてくださって、ありがとうございました>
心からの感謝を込めて、ダンジァは言った。
そう、確かに自分は緊張している。ドキドキしている。けれどこの緊張もドキドキも、ここへ来なければ経験できなかったことだ。
彼が——シィンがここへ導いてくれなければ。
『出るぞ』
過日、彼が突然ダンジァに向けて言った言葉が胸をよぎる。騏驥の競技大会に出るぞ、と彼は不意に言ったのだ。
あれはまだ、彼の身分も立場も知らないときだった。
いきなりのことにただただ驚いて、すぐに応えることもできなくて……。
あれから、あっという間に日が過ぎた。
早くて飛ぶようで、けれど一日一日に全て意味があって思い出がある。
彼のおかげで、ここまで来ることができた。
戸惑いながらも「それまでの自分」から大きく一歩進めた気がする。
すでに懐かしく、けれど今もまだはっきりと覚えているシィンとの出会い。そして今日までの日々。それらを思い出しつつダンジァがゆっくりと歩いていると、
「お前の力だ」
その背の上で、シィンが静かに言った。
「今、お前がここにいるのは、お前の力だ。お前にそれだけの力があった。わたしがお前をここへ連れてきたいと思うほどの力が——お前を勝たせたいと思うほどの力が。——それを誇れ」
その声は深くへ——ダンジァの心の奥深くへ届き、そこを震わせて染み込んでいく。
<……はい>
ダンジァは噛み含めるよう応えると、ゆっくりとした歩みを——常歩を次第に速足に変え、やがて緩やかな駈歩に変える。
芝の感触を確かめるように馬場を駆けると、青い草の香りがより強く感じられる。
そのまま、出走馬が集まっている場所へ向かった。
スタート柵の手前のこの場所が、直前の待機場所だ。
ここでの輪乗り* で気持ちを高めて、いよいよ出走になる。
[輪乗り:ゲートの後方に集合した各馬が、枠入りの合図がかかるまで輪を描くように歩きながら待機すること。(JRAホームページより)]
ダンジァの鞍上にはシィンがいるからだろう。他の騏驥の騎士たちが、次々と目礼してくる。そして騏驥によっては、対抗心露わにダンジァを睨みつけてくるものもいる。
みなやる気で、勝つ気で、空気が張り詰めている。
「籤の票数はご覧になりましたか、殿下」
と。そんな空気を縫うように男の声がした。
シィンよりも少し年上に見える騎士だ。体格が良くて肌は陽に焼けている。
シィンが「いいや」と応えると、彼は騏驥に乗ったまま笑顔で近づいてくる。騏驥も大きい。ダンジァと同じくらいの大きさだろう。
騎士は笑ったまま続けた。
「この競走は、籤が売り出されてからと言うもの、ずっと殿下の騏驥が人気でございます。観客はみな大層期待しているのでしょう。当たってもほとんど配当がないぐらいに人気がある様子で——。いやいや……きっと田舎者には想像もつかぬほどの素晴らしい騏驥なのでございましょうな」
ダンジァには、手綱を通していない男の声はただの「音」だ。何を言っているのかまではわからない。ただ、口調や表情は、あくまで明るくそして軽い。
まるで世間話をしているような様子だ。
だからダンジァは大して気にしていなかったのだが——。
<あのさ……>
男の乗っている騏驥が、声と共にふっと顔を寄せてくる。そして鞍上の騎士がシィンに向けて言った言葉をご丁寧に通訳してダンジァに伝えてくる。
<…………!>
途端、ダンジァは全身がピリッと緊張するのがわかった。
そんな自分に眉を寄せる。
慌てるな、と咄嗟に自分に言い聞かせる。
おそらく、この騎士と騏驥は言外にこちらへプレッシャーをかけてこようとしているのだ。
籤が売れている——人気がある——みんなが期待している——負けられない——。
スタート前にそんなことを囁いて、こちらを必要以上に緊張させて動揺させるつもりなのだろう。しかも、その意図が透けて見えても構わないようだ。
ダンジァは再び、慌てるな、と自分に向けて呟く。慌てるな。狼狽えるな。緊張するな。今まで通りでいい。
ここで余計な神経を使いたくない。
<…………>
だが、頭ではそう分かっていても、聞かされた言葉のせいか、それまでのようにうまく落ち着くことができない。大会の空気に慣れていないせいだろうか?
期待されている——負けられない——。
焦ったり動揺しては、彼らの思う壺だというのに。
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