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64 かの人を乗せて駆けるために

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「ええっと……どう? ダンジァ。体調とか、気合のりとか……」

「普通です。特に気になるところはありませんよ」

「何か欲しいものとかある? 水とか、手巾とか……」

「全部ありますから大丈夫です」

「そ、そうだね。うん」

 待機所から最終メディカルチェックを経てウォーミングアップエリアに移動すると、ダンジァは他の騏驥たちに混じってゆっくりと身体をほぐし始める。
 そんなダンジァの傍で、ユェンは落ち着かない表情だ。態度も見るからにソワソワとしている。ダンジァはその様子に、小さく笑った。
 緊張しているのだろう。だが、そんなに狼狽されると、こちらまで気になってしまいそうだ。もしかしたら、そうなっていたかもしれない。
 ——シィンに会っていなければ。

 ダンジァはそう思いながら、「けれど今は違う」と落ち着いた気持ちで準備を整えていく。
 同じように集っている騏驥たちは、他に九人。既に馬の姿になっている者もいるが、半数以上はまだ人の姿だ。ダンジァのように厩務員と一緒にいる者もいれば、厩務員と調教師、または騎士と共にいるものもいる。
 ここで全ての準備をして、馬場に出ていく。
 ある意味レースまでの最終地点だから、特に意識を集中して見たり聞いたりしていなくても、全員の気持ちが張り詰めているのが嫌でも伝わってくるようだ。

 シィンが会いに来てくれて。
 その後。

 ダンジァは戻ってきたユェンと共に、それまでと同じようにリラックスして過ごした。身体を休めて、時に他愛のない話をして、時にレースの話をして……。
 でもシィンが来てくれるまでとは、明らかに気分が変わっていたことは自分でわかっていた。自分が一番分かっていた——という方が正しいだろう。

 待機所には来てくれないだろうと思っていても、来てくれなくても仕方がないと思っていたつもりでも、会えばやはり嬉しかった。
 来てくれたと思うと、忙しい中時間を作って来てくれたと思うと、これほど嬉しいことはなかった。
 しかも、抜け出すために下手な変装(?)までしてくれていて……。
 思い出すと、自然と笑みが溢れてしまいそうになる。あんな変装で、本当に誰にもバレなかったのだろうか?
 上衣こそ確かに地味だったけれど、彼の特別さはそれで変わるものでもないと思うのだけれど……。
 それとも、自分の目にそう映るだけなのだろうか。自分がそう感じるだけなのだろうか?
 彼なら、どんな姿であっても絶対に見つけることができる、と。

「…………」

 考えると、どき、と胸が鳴った気がしてダンジァはそれとなく大きく息をつく。
 ちらりとユェンを見るが彼はこれからダンジァが付ける予定の鞍の確認に没頭しているようだ。こちらを見ていなかったことにホッとした。
 別に、これから乗ってもらう騎士のことを考えるのはおかしなことではないけれど——けれど今の胸の鼓動を、高鳴りを、シィンのことを考えたことを、誰かに知られたくはなかったのだ。

 秘密、と言うほどのことでもないはずだけれど、なんとなく、自分の胸の中だけに閉じ込めておきたかった。——シィンのことは。彼への想いは。

(こうして言えないことが増えていくのだろうか……)

 彼を慕えば慕うほど、求めれば求めるほど隠さなければならないことは増えていく気がする。
 ……邪な想いだから。

 ダンジァは小首を傾げると、ふっと息をつく。

(……仕方がない……)

 自覚している。けれどもう諦めようも変えようもないから仕方がない、と決めている。どれだけ打ち消そうとしても消せなかったなら、あとはせめて隠しておくしかない。
 隠して隠して……果たして、バレて咎められて疎ましがられて遠ざけられるのが先か、自分が良心の呵責に耐えられなくなるのが先か……。

 不毛なチキンレースだが、そもそも騏驥の分際で騎士に——それも王子である彼に懸想した時点で「終わり」は見えている。成就することのない想いなのだ。
 ならせめて、その時が——「終わり」がくるまでは苦しみまでもを味わいたい。
 きっと、もうこれほど誰かを想うことはないだろうから。

 そうしていると、一人、また一人と姿を馬のそれに変えていく者が現れ始める。
 まだ本馬場入場の期限までは少し時間があるが、用心して——念のために早めに姿を変化させているのだろう。

 騏驥は、レースのために本馬場に出るときは、馬の姿となって鞍をつけ、騎士を乗せていなければならない。
 だからもし万が一、姿を変えられない事態になってしまうとレース前に失格になってしまう。それを避けたいのだろう。

 騎士や調教師との意思疎通は、手綱を通せばできるから、特に問題もない。
 よっていつまで人の姿でいるかは騏驥次第——または騏驥と騎士、調教師次第、というわけだ。

 ユェンもそのことは知っているからか、周囲が馬に変わりはじめた頃を機に、こちらをチラチラ見てきている。
「まだ変わらなくていい?」「大丈夫?」そんな視線で。鞍をつけるための時間もあるから、気になるのだろう。
 だがダンジァは、彼からの視線にあえて気付かないふりをしていた。

 まだ時間はある。
 まだ大丈夫。
 そして自分はプレッシャーや緊張に押しつぶされることなく、ちゃんといつものように馬の姿に変わることができる——。
 そんな自信があったためだ。

 だから、できるなら、馬の姿に変わるのはギリギリまで待ちたかった。
 ギリギリの時間まで待とうと思っていた。そう決めていた。
 シィンがここへやってきてくれるまで。

 できることなら、まさに彼の目の前で、彼の命令で、彼の声によって、その姿を変えたかったから。
 初めて会った時が、そうだったように。

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