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59 騎士来たれり

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 夢かと思ったが夢ではなく、そこにいたのは紛れもなくシィンだった。
 ダンジァがずっと側にいてくれたならと願い、しかし、無理だろうと諦めていた人。彼は騎士であると同時に王子で——だから他の騎士のようにずっと騏驥についていることはできなくて——だから自分が一人でいるのは仕方がないことなのだと、自分に言い聞かせていたのに。

 どうして。
 どうして彼がここにいるのか。

 もう、ここにいるのか。

 ダンジァが出走する予定の予選競走までは、まだ時間がある。
 シィンが来るならレースの直前——それこそ鞍付けも終わり、あと馬場に出るだけというタイミングだろうとばかり思っていたのに。

 だがそんなダンジァの疑問をよそに、シィンは間違いなくここにいる。
 ここにいて、そしてダンジァに向けて手を差し出している。
 
「……」
 
 手を取りたいのに、触れれば消えてしまいそうな気がして触れられずにいると、

「何をしている。さっさと立て。——ほら」

 笑いながら促される。
 何度も見た、ずっと見ていたいと思ったシィンの笑みだ。
 ダンジァがおずおずと手を取ると、すぐさまぐいと引っ張られた。

 手は温かく、触れても消えない。立ち上がると、シィンは満足そうに笑った。
 その自信たっぷりの笑みは間違いなくダンジァの騎士であるシィンだ。
 彼はそのままぐるりと周囲を見回すと、

「ここがお前の待機場所か。悪くないな」

 言いながら、うんうんと頷く。
 だがそこで、ダンジァは僅かに疑問を抱いた。
 シィンが来てくれたことは嬉しい。けれどどうしてダンジァがここで待機していることか分かったのだろうか。それに……なんとなく格好が……。

(地味……というか……)

 言葉を選ばずに言うと、「なんだか変」なのだ。
 しかしまさかそう言うわけにはいかず困っていると、

「ダンジァ~! 今の競走だけど一位の騏驥がすごく良くて——」

 どことなく興奮した声を上げながら、走るようにしてユェンが戻ってくる。
 だがダンジァと目が合い、次いでその隣にいるのが誰だか分かった途端、「ひゃっ!」と声にならない声を上げ、慌てて足を止める。

「で——」

 だが彼が「殿下」と言う寸前。
 シィンは「静かに」と言うように自身の唇の前にそっと一本指を立てる。
 ユェンが、すんでのところで声を飲み込んだのが分かった。

 目を白黒させている彼に笑うと、シィンは小さな声で言う。

「忍んで来たのだ。そう大声で呼ぶな。堅苦しい挨拶も必要ない。お前はダンの厩務員か? サイ師は?」

「は——はい。あの、はい。ユェンと申します。い、一応調教師なのですが今はサイ先生のところで修行を……。サイ先生は多分スタンドの方で競走を観ているのではないかと……」

「なるほど。師の元で修行を……。そして師は今スタンドか……。間近で色々な騏驥をご覧になっているのだな。もしくは——勝籤を買っていらっしゃるか……。いずれにせよ、楽しんでくださっているようなら何よりだ……」

 うんうんと頷くと、シィンは改めてユェンを見て言った。

「そなたもしばらく好きにしていていいぞ。ここはわたしに任せておくがいい」

「え……」

「わたしがダンの側にいる、と言ったのだ」

 シィンの言葉に、ユェンは二度、三度と目を瞬かせる。
 数秒後、「畏まりました!」と早口の小声で狼狽えながら言うと、来た時以上の速さで去っていく。
 その背を満足そうに見ているシィンの隣で、ダンジァは自分の頬が熱くなるのを感じていた。

 久しぶり——だったからだろうか。
 ダン、と呼ばれたことが擽ったいような恥ずかしいような感覚で、どうすればいいのかわからない。
 しかも——。

『わたしがダンの側にいる』

 思い出すと、顔をあげていられなくなる。
 耳が熱い。鼓動が早い。きっと今、自分は嬉しさでさぞにやけた顔をしているだろう。
 誰にも見せられないような溶けたような顔をしているに違いない。

 そんなダンジァの視界に、桌に足を向けるシィンの爪先が映る。ダンジァは慌ててそれに続いた。落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせ、息を整えて顔をあげる。
 と、シィンは桌上の絵図に目を向けていた。

「これは……第一競走か……?」

「は——はい。そうです。その……なんというか……少し、色々考えておこうかと……」

 答えながら、徐々に不安になる。
 騏驥が作戦や展開について考えるなんて、もしかして余計なことだと思われただろうか……?
 騎士によっては「騏驥は騎士の命令に対して忠実であればいい」「お前は自分で考えるな。判断するな」という考え方の人もいる。
 今まで接していた感触で、シィンはそういう騎士ではないと思ったから事前に調べたり検討したりした方がいいかと思っていたのだが、もしかしたら思い違いだっただろうか。
  
 だがそんな不安は、次の瞬間のシィンの笑顔で霧散した。
 彼は嬉しそうに微笑むと、「いいことだ」とダンジァを見上げて言ったのだ。
 そして彼は、視線により熱を込めてダンジァを見つめて言った。

「本当なら、ここでずっとお前の側についていたいと思っている。大会が初めてだと、不安もあるだろうからな。馬場について検討することや、作戦を考えることも……ともにやれればどれほどいいだろうと……。だが、立場的に色々と応対しなければならないことがあってな……そうできぬ。暫くしたら、また戻らねばならぬのだ」

「……はい……」

「この格好も、実は借り物だ。無理を言って、供の者の上衣を借りてきた」

 そして彼は、悪戯っぽく笑って言う。

「どうしても来たくて——こっそり抜け出してきたのだ。ああ、正確にはごくごく数名には伝えているから心配するな。本来、わたしが移動するとなるとずらずらと人がついて来ることになるのだが……それが嫌で忍んできた」

 口の端を上げて話すシィンは、どことなく最初に会った時を思わせる。
 あの日、街で偶然彼と会ったことで、ダンジァの運命は大きく変わった。それを思うと、懐かしいような甘酸っぱいような想いに胸が疼くようだ。

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