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40 隔絶
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(とはいえ……)
だからといって、すぐに「わかった」と認めて彼の申し出に応じられるものでもない。極端な言い方をすれば、王子であるシィンが授けたものであれば、それは本心がどうあれ「ありがたくいただいておかなければならない」ものなのだ。「天から降ってきたもの・与えられたもの」と思い、それがなにであれ大切にしろ、ということなのだ。
寵を賜る臣下の身で、王や王子が下げ渡す品やその行為に口を出すなどもってのほか、というわけだ。
そう、確かに。
だからシィンも、当初ダンジァが返上を口にした時は驚愕したし憤った。
騏驥の身でなんという無礼、と。
しかし……。
しかし——。
シィンは胸の中ではぁっとため息をつく。
自分は彼に甘いのだろうか。ダンジァに甘いのだろうか?
(……甘いのだろうな……)
本来なら「ふざけたことを言うな」と一蹴すべきところを(どころか罰してもいいぐらいだ)、こうして悩んでしまうとは……。
彼に対して「甘い」以外のなんだと言うのだ。こんなふうに悩むことなどあってはならないことなのに。
そもそも、彼は騏驥だ。意志などない。
いやもちろん彼らにも意思はあるが、それは自由に行使されるものではないのだ。騏驥同士の間ならばともかく、それ以外の場合は。だからないも同然で、「そういうもの」として扱われている。
騎士なら当然、そう扱っている。
騏驥は騎士から求められない限り「自分の意思」を表に出すことは許されていないし、だから、自分の思いを勝手に口にする「気性のおかしい騏驥」は、再教育や薬や魔術で矯正されるし、それでも無理な場合は廃棄処分になる。
使用者に断りなく勝手に意思を示す兵器など、使っていられないからだ。
なのに。
(ああ……)
シィンはきつく眉を寄せると、天井を仰いだ。
(なのに、わたしは……)
本当は「あってはならない」ことであるはずの、彼が自分の意思を示すことさえ心のどこかで喜んでいる。
自分と彼との関係が、単なる騎士と騏驥ではないような——もっと別の、より強く確かな、特別なものなのではないかと思えるから。
(とはいえ、な)
シィンは長いため息を溢すと、再びダンジァを見る。
頭を下げたままシィンの言葉を待つ騏驥の姿を見る。
返す返さないの話をしている場合ではないのだ。
もう大会まで日が迫っている。
本来なら、「万が一」の可能性があることを伝えて、彼にも危険が迫るかもしれないことを伝えて、最低限、その剣で自分の身を守るようにときちんと伝えておくべき時期なのに……。
(まったく……どうして……)
どうしてお前はこうもわたしを困らせるのか。
帰らせていいのだ。こんな願い聞き入れず、「帰れ」と「下がれ」と、一言言えばいいのだ。言っていいのだ。言うべきなのだ。
なんなら、さっき思ったように言えばいいのだ。
「釣り合うかどうかなどお前が決めることではない。黙って持っておけ」と。
だが……。
それが辛い、と彼が言うなら、そんな思いをさせたくない……。
(だが、今更「それなら別のものを渡す」と言うのも……)
シィンはすっかり困り果て、助けを求めるように思わず傍のツェンリェンを見る。目が合う。とはいえ、彼も手をこまねいている様子だ。
それも、ダンジァの態度に——と言うよりもシィンの様子に、というところだろう。いつだったかのウェンライと同じような顔をしている。
『殿下のご希望に沿うためなら、精一杯尽力いたしましょう。ですが殿下ご自身のお気持ちが定まっていないとなれば……残念ながらわたしもお手上げで』
つまりは、そういうことなのだ。
——だろうな。
致し方ない。
にしても、ダンジァはなぜ急にそんなことを……?
と——。
自身の足元に跪く騏驥を見つめていたシィンの頭に、ふと、そんな疑問が浮かんだ。
ダンジァは、この剣の由来を気にして返上を申し出たようだ。か、シィンは話していない。隠していたわけではないが、聞かれていないから話していない。
どうやって知った?
サイ師か? いや、彼はこの剣を見たことはないはずだ。
シィンは、視線でツェンリェンを呼ぶ。そっと身を寄せてきた彼に、小声で尋ねた。
「お前、ダンに『星駕』のことを話したか?」
「? いいえ。彼には会っておりませぬ故。……と言うか、殿下が下賜なさるときにお話になっていたのでは……」
「いや……」
シィンは首を振る。
だとすればウェンライが?
しかし彼がシィンの意向を無視して勝手に話すとは思えないが……。ではツォだろうか。しかし彼は星駕のことを知っていただろうか?
王の騏驥たちは、ダンジァに比べればシィンの側にいることが多いとはいえ、あくまで騏驥だから剣の銘などには詳しくないはずだ。そもそも星駕は見たことがないはずだ。
では、一体どうして彼はこの剣のことを……。
「ダンジァ」
考えれば考えるほど不思議になり、シィンはダンジァに問うた。
「お前の言い分はわかった。が……なぜ急にそんなことを?」
それは、特に深い意味のない問いのはずだった。
わからないから尋ねただけ、そのつもりだった。
彼が申し出てきた件に対して、どう応じるか決めかねていて……だからその場繋ぎのような質問だった。
だが。
「いえ……その……今まで迂闊にもこの剣の銘も由来も存じ上げず……。昨日リィ様にお会いした時に伺い、それで——」
「リィ?」
ダンジァがその名前を口にした瞬間、シィンは自分でも戸惑うような鋭い声でそれを繰り返していた。
よほど普段と違う声だったのだろう。傍のツェンリェンが息を呑んだ気配がした。跪いている騏驥が、驚いたように顔を跳ね上げ、慌ててまた伏せる。
だがシィンは、そんな二人の様子も気にならなかった。それよりも、胸の中が焼けるように熱い。ドロドロとした溶岩流のような重く昏いものが、胸の中で渦を巻き始める。
リィ?
あの騎士が——彼が原因で、ダンジァはわたしが与えたものを返すなどと言い出したわけか?
「……かの騎士が、お前にそれを返上せよと……?」
気づけば、シィンはそう続けていた。
その声は、地を這うほどに低く震えている。自分の声とは思えないほどだ。
「ち、違います!」
ダンジァが、再び顔を跳ね上げた。
異変を察したのかいつになく必死の形相で、懸命に首を振る。
「リィ様は決してそんな……! ただ自分にこの剣の由来を——」
「黙れ!」
あの騎士を庇うその声を聞きたくなくて、シィンは声を荒らげて黙らせた。
目の奥が熱くなる。
なぜあの騎士を庇う。
なぜあの騎士と話した。
いつだ? どこでだ?
どうしてわたしの知らない間に?
どうして——。
怒りのためか、歯が震える。
無理矢理押さえ込み、声を押し出す。
「急に返すなどと言い出しておかしいと思えば……なるほどそういう理由か。あの騎士と会っていたわけか……それであれが余計なことを——」
「で……」
「ツェンリェン、すぐにあの騎士を呼べ。わたし自ら問い糺す。見つけ次第、なにをしていようがここへ呼べ。従わねば捕らえて構わぬ、すぐにここへ連れてこい!」
「殿下、それは……」
「殿下!」
戸惑うようなツェンリェンの声に、ダンジァの悲鳴のような声が重なる。
「殿下! お待ちください! 違います! 会ったのはたまたまのことで、リィ様は決してそのような——」
「黙れと言っている!」
足に取り縋るようにして必死に言い募ろうとする騏驥に向けて叫ぶと、シィンは彼に鞭を突きつける。
鞭打つことを除けば、騎士から騏驥への最も強い命令動作だ。睨むと、突き付けた鞭の向こうのダンジァの表情が悲しげに歪む。
だがその表情にすらシィンは苛立つ。
どうしてそんな顔をするのだ。
まるでわたしが間違っているような。わたしを責めるようそんな顔を、なぜ。
そんなにあの騎士を庇いたいのか。
いや違う。
なにが真実かではないのだ。
それはどうでもいい。
その口であの騎士の名を呼ぶな。
わたしと口付けたその唇で呼ぶな。
お前を欲して、けれどどうすればわからないままのわたしを置いて、別の者の名前を呼ぶな。
そんなにあの騎士がいいのか。
お前を捨てた騎士が。
わたしよりも、あの騎士が——。
「っ……」
シィンは唇を噛み締めた。
そうしていないと、口にしてはいけないことを口走ってしまいそうだ。
悔しさ悲しさ憤り——。後から後から込み上げては身体をいっぱいにしていくものを。
——嫉妬を。
シィンは胸の奥から突き上げてくる膿のような澱んだ熱の塊をなんとか飲み込むと、拳を握り締め、足元で途方に暮れたような顔を見せているダンジァを見つめる。
ゆっくりと言葉を継いだ。
「……わたしの前で……あの騎士のことを言うな……」
「……」
「言うな……」
「っ……殿下、自分は——」
「言うなと言ったら言うな! わかったら返事をしろ!」
まだ何か言おうとしたダンジァの声を遮るように叫ぶと、シィンは突きつけた鞭以上の鋭さで彼を睨んだ。
怒りで、目がチカチカする。痛くて熱い。鼻の奥がツンとする。
こんなにも自分の心を乱す騏驥が憎い。いっそ打ち据えてしまいたい——。
一瞬、そんな衝動にも似た思いが胸を過ぎりはしたものの、さすがに鞭打つことはできず、シィンはただきつく鞭を握り締めてダンジァを睨み続ける。
見つめ合って、どのくらい経っただろうか。
やがて、ダンジァは乱れていた服を整え再びシィンの前にきちんと跪き、頭を下げると、
「畏まりました」
と声を返す。
その言葉は、待っていたはずのものなのにシィンをこの上なく悲しくさせる。
『わたしは強制するような真似はしたくないのだ。あの騏驥には……ほんのわずかでも』
その言葉を口にしたのは、ついさっきのことだったのに……。
思い出すと、堪えているものが堪えられなくなる。涙が落ちそうになる。
「下がれ」
シィンは鞭を引くと、ダンジァから顔を背けて言った。
彼の申し出を聞き入れるか入れないか……という迷いは、もうすっかりなくなっていた。
聞き入れる気などない。
もうない。
持って帰れ。それはお前のものだ。
それはもう、お前のもの、だ。
——たとえ迷惑でも。
痛みに胸が疼いた。
その剣を帯びた彼の姿が好きだった。その剣を帯びた彼を見るのが好きだった。
だんだんと馴染んでいるように思えたから。
ますます好んでいるように思えたから。
でも。
(それはわたしの勘違いだったというわけだ……)
もしくは、都合のいい思い込み。
あの騎士とどんなやりとりがあったのかは知らないが、彼にとってはその程度で返上を申し出るぐらいの物にすぎなかったというわけだ。
「下がれ、ダンジァ」
シィンは繰り返すと、ダンジァに背を向ける。
それでも立ち上がらないダンジァを見かねたのか、ツェンリェンが小声で「ダンジァ」と促す。
程なく、シィンの背後で衣擦れの音がした。
ダンジァが立ち上がったのだ。
(ああ……そうだ……)
シィンはふっと思い出す。
そういえば、話が終われば、彼に当日の衣装を着てみてもらうことも考えていた……。どれも似合いそうだから、実際に着たところを見て選ぼうと思って……。時間がかかっても、夜か更けても構わないから……と……。
思い出すと、自嘲が漏れた。
馬鹿だ。
自分は一体なにに浮かれていたのだろう……。
「……ダンジァ」
シィンは、部屋を出て行こうとする騏驥に声をかけた。
彼が、ぴた、と足を止めた気配がある。彼に背を向けたまま、振り向かないままシィンは続けた。
「明日から、登城は必要ない。調教には助手を遣わせる。自厩舎で待て」
「!」
息を呑んだ音がした。シィンは構わず続ける。
「大会前日までは、それでいいだろう。その後は規定の通り、前日に城の厩舎に入厩すればそれで良い。……それで、良い……」
言い終えると、シィンはダンジァの反応を待たず、軽く手を振り「出ていけ」と指示する。
重たいような密度が濃いような数秒が過ぎたのち、ダンジァが立ち去っていく音がした。
足音が遠ざかり、扉が開く音がして、また閉まる。
シィンは最後まで涙を零さなかった。
だからといって、すぐに「わかった」と認めて彼の申し出に応じられるものでもない。極端な言い方をすれば、王子であるシィンが授けたものであれば、それは本心がどうあれ「ありがたくいただいておかなければならない」ものなのだ。「天から降ってきたもの・与えられたもの」と思い、それがなにであれ大切にしろ、ということなのだ。
寵を賜る臣下の身で、王や王子が下げ渡す品やその行為に口を出すなどもってのほか、というわけだ。
そう、確かに。
だからシィンも、当初ダンジァが返上を口にした時は驚愕したし憤った。
騏驥の身でなんという無礼、と。
しかし……。
しかし——。
シィンは胸の中ではぁっとため息をつく。
自分は彼に甘いのだろうか。ダンジァに甘いのだろうか?
(……甘いのだろうな……)
本来なら「ふざけたことを言うな」と一蹴すべきところを(どころか罰してもいいぐらいだ)、こうして悩んでしまうとは……。
彼に対して「甘い」以外のなんだと言うのだ。こんなふうに悩むことなどあってはならないことなのに。
そもそも、彼は騏驥だ。意志などない。
いやもちろん彼らにも意思はあるが、それは自由に行使されるものではないのだ。騏驥同士の間ならばともかく、それ以外の場合は。だからないも同然で、「そういうもの」として扱われている。
騎士なら当然、そう扱っている。
騏驥は騎士から求められない限り「自分の意思」を表に出すことは許されていないし、だから、自分の思いを勝手に口にする「気性のおかしい騏驥」は、再教育や薬や魔術で矯正されるし、それでも無理な場合は廃棄処分になる。
使用者に断りなく勝手に意思を示す兵器など、使っていられないからだ。
なのに。
(ああ……)
シィンはきつく眉を寄せると、天井を仰いだ。
(なのに、わたしは……)
本当は「あってはならない」ことであるはずの、彼が自分の意思を示すことさえ心のどこかで喜んでいる。
自分と彼との関係が、単なる騎士と騏驥ではないような——もっと別の、より強く確かな、特別なものなのではないかと思えるから。
(とはいえ、な)
シィンは長いため息を溢すと、再びダンジァを見る。
頭を下げたままシィンの言葉を待つ騏驥の姿を見る。
返す返さないの話をしている場合ではないのだ。
もう大会まで日が迫っている。
本来なら、「万が一」の可能性があることを伝えて、彼にも危険が迫るかもしれないことを伝えて、最低限、その剣で自分の身を守るようにときちんと伝えておくべき時期なのに……。
(まったく……どうして……)
どうしてお前はこうもわたしを困らせるのか。
帰らせていいのだ。こんな願い聞き入れず、「帰れ」と「下がれ」と、一言言えばいいのだ。言っていいのだ。言うべきなのだ。
なんなら、さっき思ったように言えばいいのだ。
「釣り合うかどうかなどお前が決めることではない。黙って持っておけ」と。
だが……。
それが辛い、と彼が言うなら、そんな思いをさせたくない……。
(だが、今更「それなら別のものを渡す」と言うのも……)
シィンはすっかり困り果て、助けを求めるように思わず傍のツェンリェンを見る。目が合う。とはいえ、彼も手をこまねいている様子だ。
それも、ダンジァの態度に——と言うよりもシィンの様子に、というところだろう。いつだったかのウェンライと同じような顔をしている。
『殿下のご希望に沿うためなら、精一杯尽力いたしましょう。ですが殿下ご自身のお気持ちが定まっていないとなれば……残念ながらわたしもお手上げで』
つまりは、そういうことなのだ。
——だろうな。
致し方ない。
にしても、ダンジァはなぜ急にそんなことを……?
と——。
自身の足元に跪く騏驥を見つめていたシィンの頭に、ふと、そんな疑問が浮かんだ。
ダンジァは、この剣の由来を気にして返上を申し出たようだ。か、シィンは話していない。隠していたわけではないが、聞かれていないから話していない。
どうやって知った?
サイ師か? いや、彼はこの剣を見たことはないはずだ。
シィンは、視線でツェンリェンを呼ぶ。そっと身を寄せてきた彼に、小声で尋ねた。
「お前、ダンに『星駕』のことを話したか?」
「? いいえ。彼には会っておりませぬ故。……と言うか、殿下が下賜なさるときにお話になっていたのでは……」
「いや……」
シィンは首を振る。
だとすればウェンライが?
しかし彼がシィンの意向を無視して勝手に話すとは思えないが……。ではツォだろうか。しかし彼は星駕のことを知っていただろうか?
王の騏驥たちは、ダンジァに比べればシィンの側にいることが多いとはいえ、あくまで騏驥だから剣の銘などには詳しくないはずだ。そもそも星駕は見たことがないはずだ。
では、一体どうして彼はこの剣のことを……。
「ダンジァ」
考えれば考えるほど不思議になり、シィンはダンジァに問うた。
「お前の言い分はわかった。が……なぜ急にそんなことを?」
それは、特に深い意味のない問いのはずだった。
わからないから尋ねただけ、そのつもりだった。
彼が申し出てきた件に対して、どう応じるか決めかねていて……だからその場繋ぎのような質問だった。
だが。
「いえ……その……今まで迂闊にもこの剣の銘も由来も存じ上げず……。昨日リィ様にお会いした時に伺い、それで——」
「リィ?」
ダンジァがその名前を口にした瞬間、シィンは自分でも戸惑うような鋭い声でそれを繰り返していた。
よほど普段と違う声だったのだろう。傍のツェンリェンが息を呑んだ気配がした。跪いている騏驥が、驚いたように顔を跳ね上げ、慌ててまた伏せる。
だがシィンは、そんな二人の様子も気にならなかった。それよりも、胸の中が焼けるように熱い。ドロドロとした溶岩流のような重く昏いものが、胸の中で渦を巻き始める。
リィ?
あの騎士が——彼が原因で、ダンジァはわたしが与えたものを返すなどと言い出したわけか?
「……かの騎士が、お前にそれを返上せよと……?」
気づけば、シィンはそう続けていた。
その声は、地を這うほどに低く震えている。自分の声とは思えないほどだ。
「ち、違います!」
ダンジァが、再び顔を跳ね上げた。
異変を察したのかいつになく必死の形相で、懸命に首を振る。
「リィ様は決してそんな……! ただ自分にこの剣の由来を——」
「黙れ!」
あの騎士を庇うその声を聞きたくなくて、シィンは声を荒らげて黙らせた。
目の奥が熱くなる。
なぜあの騎士を庇う。
なぜあの騎士と話した。
いつだ? どこでだ?
どうしてわたしの知らない間に?
どうして——。
怒りのためか、歯が震える。
無理矢理押さえ込み、声を押し出す。
「急に返すなどと言い出しておかしいと思えば……なるほどそういう理由か。あの騎士と会っていたわけか……それであれが余計なことを——」
「で……」
「ツェンリェン、すぐにあの騎士を呼べ。わたし自ら問い糺す。見つけ次第、なにをしていようがここへ呼べ。従わねば捕らえて構わぬ、すぐにここへ連れてこい!」
「殿下、それは……」
「殿下!」
戸惑うようなツェンリェンの声に、ダンジァの悲鳴のような声が重なる。
「殿下! お待ちください! 違います! 会ったのはたまたまのことで、リィ様は決してそのような——」
「黙れと言っている!」
足に取り縋るようにして必死に言い募ろうとする騏驥に向けて叫ぶと、シィンは彼に鞭を突きつける。
鞭打つことを除けば、騎士から騏驥への最も強い命令動作だ。睨むと、突き付けた鞭の向こうのダンジァの表情が悲しげに歪む。
だがその表情にすらシィンは苛立つ。
どうしてそんな顔をするのだ。
まるでわたしが間違っているような。わたしを責めるようそんな顔を、なぜ。
そんなにあの騎士を庇いたいのか。
いや違う。
なにが真実かではないのだ。
それはどうでもいい。
その口であの騎士の名を呼ぶな。
わたしと口付けたその唇で呼ぶな。
お前を欲して、けれどどうすればわからないままのわたしを置いて、別の者の名前を呼ぶな。
そんなにあの騎士がいいのか。
お前を捨てた騎士が。
わたしよりも、あの騎士が——。
「っ……」
シィンは唇を噛み締めた。
そうしていないと、口にしてはいけないことを口走ってしまいそうだ。
悔しさ悲しさ憤り——。後から後から込み上げては身体をいっぱいにしていくものを。
——嫉妬を。
シィンは胸の奥から突き上げてくる膿のような澱んだ熱の塊をなんとか飲み込むと、拳を握り締め、足元で途方に暮れたような顔を見せているダンジァを見つめる。
ゆっくりと言葉を継いだ。
「……わたしの前で……あの騎士のことを言うな……」
「……」
「言うな……」
「っ……殿下、自分は——」
「言うなと言ったら言うな! わかったら返事をしろ!」
まだ何か言おうとしたダンジァの声を遮るように叫ぶと、シィンは突きつけた鞭以上の鋭さで彼を睨んだ。
怒りで、目がチカチカする。痛くて熱い。鼻の奥がツンとする。
こんなにも自分の心を乱す騏驥が憎い。いっそ打ち据えてしまいたい——。
一瞬、そんな衝動にも似た思いが胸を過ぎりはしたものの、さすがに鞭打つことはできず、シィンはただきつく鞭を握り締めてダンジァを睨み続ける。
見つめ合って、どのくらい経っただろうか。
やがて、ダンジァは乱れていた服を整え再びシィンの前にきちんと跪き、頭を下げると、
「畏まりました」
と声を返す。
その言葉は、待っていたはずのものなのにシィンをこの上なく悲しくさせる。
『わたしは強制するような真似はしたくないのだ。あの騏驥には……ほんのわずかでも』
その言葉を口にしたのは、ついさっきのことだったのに……。
思い出すと、堪えているものが堪えられなくなる。涙が落ちそうになる。
「下がれ」
シィンは鞭を引くと、ダンジァから顔を背けて言った。
彼の申し出を聞き入れるか入れないか……という迷いは、もうすっかりなくなっていた。
聞き入れる気などない。
もうない。
持って帰れ。それはお前のものだ。
それはもう、お前のもの、だ。
——たとえ迷惑でも。
痛みに胸が疼いた。
その剣を帯びた彼の姿が好きだった。その剣を帯びた彼を見るのが好きだった。
だんだんと馴染んでいるように思えたから。
ますます好んでいるように思えたから。
でも。
(それはわたしの勘違いだったというわけだ……)
もしくは、都合のいい思い込み。
あの騎士とどんなやりとりがあったのかは知らないが、彼にとってはその程度で返上を申し出るぐらいの物にすぎなかったというわけだ。
「下がれ、ダンジァ」
シィンは繰り返すと、ダンジァに背を向ける。
それでも立ち上がらないダンジァを見かねたのか、ツェンリェンが小声で「ダンジァ」と促す。
程なく、シィンの背後で衣擦れの音がした。
ダンジァが立ち上がったのだ。
(ああ……そうだ……)
シィンはふっと思い出す。
そういえば、話が終われば、彼に当日の衣装を着てみてもらうことも考えていた……。どれも似合いそうだから、実際に着たところを見て選ぼうと思って……。時間がかかっても、夜か更けても構わないから……と……。
思い出すと、自嘲が漏れた。
馬鹿だ。
自分は一体なにに浮かれていたのだろう……。
「……ダンジァ」
シィンは、部屋を出て行こうとする騏驥に声をかけた。
彼が、ぴた、と足を止めた気配がある。彼に背を向けたまま、振り向かないままシィンは続けた。
「明日から、登城は必要ない。調教には助手を遣わせる。自厩舎で待て」
「!」
息を呑んだ音がした。シィンは構わず続ける。
「大会前日までは、それでいいだろう。その後は規定の通り、前日に城の厩舎に入厩すればそれで良い。……それで、良い……」
言い終えると、シィンはダンジァの反応を待たず、軽く手を振り「出ていけ」と指示する。
重たいような密度が濃いような数秒が過ぎたのち、ダンジァが立ち去っていく音がした。
足音が遠ざかり、扉が開く音がして、また閉まる。
シィンは最後まで涙を零さなかった。
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