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39 騏驥の申し出。王子の戸惑い。
しおりを挟む確かに彼の言葉を聞いたはずなのに、なに一つ理解できなかった。
「……いま一度申してみよ。その剣を……なんだと……?」
だからシィンは、自分が発したはずの言葉のこともよくわかっていなかった。
ダンジァが口にした「願い」。それを耳にして、たっぷりの時間を取ったのち、零した言葉。
その声は震えていて、自分でも聞いたことがないようなものだった。
発した?
発したのだろう、多分。
けれどなんだか現実味がなくて、よくわからない。
彼の前には騏驥がいる。
彼の前に跪き、頭を垂れた騏驥がいる。そうしていてもわかるほどの均整のとれた体躯。幾度も撫でた髪。
この騏驥は。
この目の前の騏驥は。
わざわざ夜遅くに自分を訪ねてやってきた騏驥は、今、なんと?
足元に跪く騏驥を見下ろしながら、シィンは考える。
頭の中が真っ白になっているような気がするし、逆に色や音が渦を巻いているような気もする。ぐわんぐわんと低く響いている気がする。
一体どうしてこうなったのだ。
なにが起こったのだ。
さっきは——さっきまではあんな嬉しかったのに。
彼が来たと聞いた時は、あんなに——。
思い出すと目の奥がじわりと熱くなった。
目通り願いたい、と彼が訪ねてきていると聞いた時。シィンはとても驚いた。
驚いて、そしてそれ以上に嬉しかった。
嬉しかったのだ。飛び上がりたいほど。
ツェンリェンがいなければ、そうしていただろう。
いや、彼の前でも知らず知らずのうちに跳ねてしまったかもしれない。そのぐらい嬉しかったから。
なぜ急に、と不思議に思ったのは一瞬で、そんなことより何より、心が弾んで、浮き立って、早く顔が見たくて堪らなかった。
だからすぐに会うと返事をして、少し考えて別の部屋に通させたのだ。
大会当日の服のことは、まだ秘密にしていよう、と思って。まずは、やってきた彼の話を聞いて、それからにしよう、と。
(もし彼に選ばせるなら、時間がかかるかもしれないし……。だとしたら彼の用事を終わらせてからの方がいいだろう。そのあと二人でゆっくり考えて選んで……。やはり実際に着させてそれを確かめるのがいいかもしれないな。もしかしたら夜中までかかるかもしれないが……)
それでもいい、と。
むしろその方がいい、と。
心秘かにそんなふうに思っていた——のに。
シィンは信じられない思いでダンジァを見つめる。
調教の時以外にも使っていいから、と彼に渡していた通行証。
けれど、彼は一度もそれを本来の目的以外には使わなかった。
彼らしい控えめさと真面目さを思えば「そうなるだろうな」と想像はついていたし、そうした彼だから好感を持ったのは事実だ。けれど、一方で寂しくもあった。
そうしているうち、通行証はとある揉め事によって壊れてしまった。
今、その欠片はシィンの元にある。
いずれ何か別のものに作り替えて彼に贈ろうと思って手元に置いているのだ。彼が、ダンジァが他の騏驥を傷つけてまで守ろうとしてくれた物だから。
そして代わりの通行証は以前シィンが渡していた剣に代わり、ここ数日、彼はそれを帯びて登城していた。
慣れない格好だからか、初日こそ彼はどことなく落ち着かない様子を見せていたが、それは普段の大人びた、落ち着いた彼とはまた少し違う一面で、そんな彼を見られたことにシィンは密かに喜びを感じていたものだった。
今まで知らなかった彼の様子や、表情を知れるのはとても嬉しくて。
もともと学習能力が高く勘の良い彼だ。
日を追うごとに剣を携えることにも慣れ、初々しいような佇まいもいつの間にか堂々としたそれに変わって行った。その様子を見ていられたのも、シィンにとっては嬉しかった。
自分が与えた剣に次第に慣れ、馴染んでいく様子を見ていると、なんだか自分自身に慣れて馴染んでくれているように感じられたから。
そして、さっき。
ちょうど彼のことを考えながら衣装を選んでいたときに、彼が訪れたという報せがあって——。
嬉しくならなかったわけがない。
まるで彼はこちらの気持ちがわかるようではないか、と浮かれた。
まるで、離れていても知らず知らずのうちにお互いのことを想いあっている二人のようではないか、と。
だから——。
嬉しかったのだ。
とても嬉しかったのだ。
とても。
それなのに……。
シィンは、震え始めた自身の拳をぎゅっと握りしめたままダンジァを見下ろす。
本当は、もうなにも言わずに立ち去ってほしい。まるでなにもなかったかのように。
けれどそれはもう無理だ。
だってもう自分は聞いてしまった。
視線の先で、ダンジァは一層深く頭を下げる。
口を開く気配に、それを押し留めたい衝動が突き上げる。が、シィンは動けず、ダンジァは言った。
「……殿下に賜った、こちらの……この剣を……お返ししたく……」
「…………」
さっきと同じ言葉だ。
シィンは、自分の血が逆流しているのではないかと思うような音を聞いた。
怒りとも憤りとも哀しみとも違い、しかしそれら全てが混じり合い暴れているかのような。
シィンはさらにきつく拳を握りしめる。そうしていなければ、胸の中で暴れるこの感情を抑えられそうにない。
いつしか噛み締めていた唇を解くと、シィンは大きく息をつき、ゆっくりと口を開く。
「……ダンジァ、お前は自分がなにを言っているのかわかっているのか。『返す』? わたしが与えたものを『返す』と言うのか」
「は……」
「っ」
さらに深く深く頭を下げる騏驥を見ながら、シィンはきつく唇を噛み締める。大きく顔を歪めた。
訂正すればいいのに、なぜしない?
間違えたとなぜ言わない。どうして——。
どうしてそんな考えに至ったのだ。
受け取った時は喜んでいたではないか。
いや——喜んでいなかったにせよ、受け取ったじゃないか。戸惑っていた様子でも受け取ってくれた。満更でもない様子で身につけていた。
なのになぜ急に。
それとも、ずっと嫌だったのか?
迷惑だと思っていたのだろうか。
困ったと思っていたのだろうか。
自分の与えるものを喜ばない者はいないと思っていた。騎士でも騏驥でも皆、欲しがるものだと。
彼はそうではなかったと?
だが。
それにしても「返す」とは——。
シィンは密かに顔を顰めた。
おそらく、彼に「そんなつもり」はないだろう。彼に限っては。
だが。
普通の騎士からもらったものを返すだけでも無礼にも程があるというものだが、王子であるシィンが与えたものを「返す」と言うことは、この国に対して「反意あり」という意思表示にもなりかねない危険なことだ。
彼のような賢い騏驥ならば、それぐらいはわかっているだろうに。
胸の中に苦いものが広がっていくシィンの視線の先で、ダンジァは深く深く頭を下げたまま続ける。
「決して殿下に対して反意あるわけではございません。ただ……恐れながら、じぶ、わたくしには身に余る御剣かと……」
「……」
「未だ充分な功績もない騏驥でございます。この剣に見合う立場ではないかと存じます……。賜る栄誉を拝し奉りましたが、考えるだにこのような由緒のある、宝剣とも言うべき御剣を頂ける身ではございません」
そう言うと、ダンジァはますます小さくなる。
直後、息をつめて聞いていたシィンの傍から、小さく息をこぼす音が聞こえた。
ツェンリェンだ。彼がいたことを思い出す。
彼もダンジァの「返上」がどういう意味を持つかわかっているから、緊張していた様子だ。
それより何より、彼は彼で、まさかこんな修羅場に居合わせてしまうことになるとは思っていなかっただろう。
が、いてくれるのはありがたい。
第三者がいなければ、自分はこれほど理性的に振る舞えていなかったかもしれない。
シィンもふっと息を吐くと、改めてダンジァを見つめる。
やはり彼に他意はない。反意はない。
ただ彼は「自分には重すぎる」と言っているのだ。釣り合わない、と。
シィンは眉を寄せた。
「それはお前が決めることではない」と言うのは簡単だ。
むしろシィンは、「だからこそ」この剣をダンジァに与えたのだ。由緒のある、宝剣とも言うべき剣だからこそ彼に持たせたかった。
自分の鞭と揃いで作られたものだからこそ。
けれど……。
それが彼の負担になってしまったのだろうか……。
だとしたら、返されたくはないが彼の気持ちも分からなくはない。
「特別」なものを貰うことは、光栄であると同時に重くも感じるものだ。その気持ちは、シィンは誰よりわかるつもりだ。
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