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24 不安・再会・不安
しおりを挟む咄嗟に動くことができず、ダンジァぼうっとシィンを見上げてしまった。
逆光の中の顔は、怒っているように見える。が、その端正な顔は相変わらずの凛々しさと貴やかさを湛えている。
——ダンジァにはそう思えた。
こんな時ですら。
自分の愚行のせいで、大勢の人に迷惑をかけてしまったこんな時ですら。
見惚れるように暫く見つめ——。
「!!」
慌ててダンジァは腰を上げると、それまでのしゃがみ込んでいた格好から、片膝をつき頭を下げる格好に姿勢を変えた。
見つめている場合じゃない。殿下の前だ。
首を垂れて息を詰める。
全身が緊張感を覚える中、そっとあたりの気配を窺えば、衛兵たちも、それまで喧しくしていた王の騏驥たちも同じように控えている。城の中での揉め事とはいえ、まさかシィンが——王子がやって来るとは思っていなかったのだろう。
もちろん、ダンジァにも予想外だった。
胸の中の不安がますます大きくなる。
自分が罰されるのは仕方がない。覚悟している。何しろ王城内での揉め事。しかも王の騏驥を相手の揉め事なのだ。
それも、相手を怪我させてしまったかもしれないほどの。
となれば何かしらの罰が下されるに違いない。だが、それ以上のこともあるかもしれない。
サイ師が叱られるかもしれないし、シィンはもうダンジァには乗らない、大会にも出ないと判断する可能性もあるだろう。
激昂して、我を忘れて暴力沙汰を起こすような騏驥——。
そう思われたなら、その気性の悪さを理由に「もう乗らない」と言われても当然だ。
(もう、殿下に、乗っていただけない……)
大会にも出られない……。
それを想像するとずきりと胸が痛んだ。
どんな罰を受けるより苦しく辛い気がした。
少し前までは、大会に出ることになどさほど興味はなかったし、むしろ出なくていいと思っていたほどだったのに、今は彼と——シィンと共に駆けることが何より楽しくなっている。彼を背に、彼とともに駆け、一番になるという大きな目標を目指して日々邁進することが何より楽しみであり励みになっている。
それが奪われてしまうのだろうか……。
項垂れたままのダンジァの耳に、シィンが状況を確認している声が聞こえてくる。衛兵たちから事情を聞いているようだ。
「もう少し詳しく説明しろ」
「それから?」
「なるほど」
「ああ——それはここへ来る途中に聞いている」
「それで?」
途中からは、ウェンライの声も混じった。彼も衛兵や騏驥たちから話を聞き、事情を確認しているようだ。
許可なく頭を上げられず、ただただ地を見つめたまま、ダンジァはきつく唇を噛んだ。
シィンは——殿下は一体どうお思いになっているだろう?
どうお考えになるだろう?
せめて自分の口からも説明する機会を与えてもらえるだろうか……。
後から後から込み上げてくる不安に思わずきつく目を瞑っていると、
「大丈夫か……?」
不意に、傍から気遣うような声が聞こえた。
初めて聞く声だ。びっくりして目を向けると、そこには一人の男がいた。
——男。
だが首には、ダンジァと同じ「輪」がある。
騏驥だ。
騏驥?
ここに?
だとすれば彼も王の騏驥の一人……?
目を瞬かせるダンジァに、ダンジァと同じ目の高さになるようしゃがみ込んでくれている男は、柔らかく微笑んだ。
「ああ、安心してくれ。わたしはシュウイン。王城の騏驥——つまり王の騏驥の一人だが、きみを糾弾する立場じゃない」
声も穏やかだ。こちらの不安を取り除いてくれようとしているかのような、味方になってくれようとしているかのような……。
肩越しに軽く背後を見る彼に釣られるようにわずかにダンジァも目線を上げると、殿下やウェンライ、衛兵たちの他に、確かにツォ師の姿も見える。彼も駆けつけたのだ。師は騏驥たちを宥めながら、シィンと、そしてウェンライと話をしている。
彼にまで話がいってしまったのかと思うとますます落ち込みそうになる。
ダンジァの調教には毎回シィンが乗っているが、ツォも調教師としていつも馬場の端から見守ってくれている。
もちろん、他の「王の騏驥」たちの調教の時も同じように見守り、そしてときには乗り手や騏驥に助言している。
そんな、何頭もの調教の合間にシィンたちとの話し合いに参加して、また調教で……。
さっき話し合いが終わって解散するときには「今日は忙しいよ」と苦笑していたのに、自分のせいでこんなところにまで呼び出されて……。ただでさえ忙しい彼をさらに忙しくしてしまうなんて。
再び項垂れそうになり、ダンジァは、はっと傍の騏驥に目を戻す。
目が合うと、彼は笑みを深めた。
「そう緊張せずに。言ったろ? きみの敵じゃない。まあ味方というわけでもないけど……現状では中立と言えばいいのかな。……ツォ師と一緒に来たんだ。この件の報せがあったときに、たまたま一緒にいたからなんだけど……騏驥同士が揉めたなら、仲裁に入れる騏驥がいた方がいいだろう、ということでね」
「…………」
穏やかに語る男——シュウインを、ダンジァは驚きとともに見る。まさかここで、そんなふうに温かな言葉をかけてもらえると思っていなかった。
と、シュウインはじっとダンジァを見つめ返し、どこか悪戯っぽく頬を上げるようにして笑って言った。
「……覚えてないかな。育成時代に同じ厩舎だった」
「え……」
言われて、ダンジァは改めてシュウインを見つめる。
艶のある美しい深茶色の髪に、鈍色の瞳。広い肩幅は服の上からでもわかる逞しさだ。王の騏驥らしい整った容姿だが、さっきまで見ていた青年のような少年のような彼らに比べれば男性的で大人っぽく、「可愛らしい」と言うよりも「格好がいい」という言葉の方がふさわしいだろう。
身体もやや大きいし、落ち着いた様子だから、実際少し年上なのかもしれない。
穏やかな、余裕を感じさせる佇まいからは、彼が「良い騏驥」——それも、王の騏驥の中でもとりわけ「良い騏驥」なのだということが感じられる。
だが……。
「……すみません。自分は……覚えていなくて……」
しかし残念ながら、ダンジァには覚えがなかった。
見た目からも物腰からも覚えていても良さそうなものだが記憶にない。
同じ厩舎にいたなら、折に触れて言葉を交わしたり挨拶したりといったやりとりはあったかもしれないが、「彼」を「彼」と認識できるだけのはっきりとした記憶がないのだ。
彼はこちらを覚えてくれているのに……とダンジァが恐縮していると、シュウインは「いいんだよ」と苦笑した。
「仕方ない。同じ厩舎だったと言っても、きみはすぐに移動したから……一緒にいたのは僅かな期間だ。わたしだって、しばらくは思い出さなかったぐらいだ。ここ最近、名前を聞くようになって『もしかして』と思っていたところだったんだ」
フォローしてくれるような優しい言葉に、ダンジァはさらに恐縮するしかない。
とはいえ、彼が言っていたことはその通りで、実際のところ、ダンジァはあまり育成時代の記憶がない。記憶喪失なのではなく、施設にいた期間が短かったのだ。
フィジカル面でもメンタル面でも全く問題なく、むしろ施設の職員の誰もが「良い」と太鼓判を押すような——つまりは相当に評判のいい騏驥だったダンジァは、そのため通常よりずいぶん短い期間でトレーニングを終え、正規の騏驥として入厩することになったのだった。
なので、同じ頃に厩舎にいた……と言われても、あまり記憶にないのが事実だ。
他の騏驥たちと特に交流を持たなかったせいもあるだろう。嫌っていたり避けていたわけではないが、馴れ合いたいとも思わなかったし、加えて、ダンジァはその能力の高さゆえに嫉妬されることも多かったから、努めて他の騏驥とは関わらないようにしていたのだった。
しかし、ここでせっかくこうして庇ってくれる相手のことも、覚えていないとは。(積極的に庇ってくれてはいなくとも、現状のように「他の騏驥は全て自分に悪意のあるものばかり」では、中立の立場をとってくれるだけ充分に味方してもらっている気分なのだ)
だがそんな風に申し訳なく思うダンジァに対し、シュウインは相変わらず穏やかに微笑んでいる。
ダンジァの気分を落ち着かせようとしてくれているのか、ぽんぽんと肩を叩いてくれる手も温かだ。
ダンジァがほっと息をついた時。
「にしても、ここできみと再会するとはね。きみは東の厩舎に入ったと聞いていたから……。噂では、殿下の騎乗で大会に出るとか……? 育成時代からきみの能力はずば抜けていたし、よく誉められていたのも知っていたけど……」
やはりすごいな、と再びシュウインが話しかけてくる。
昔のことを言われくすぐったさを感じたが、同時に「大会」という言葉に暗い気持ちがぶり返してくる。
(大会——大会、か……)
出られ……るのだろうか?
いやそれ以前に。
また殿下に乗ってもらえるのだろうか。
胸が塞がるような苦しさにますます俯いてしまった時。
「——そっちは落ち着いたか」
声がしたかと思うと、草を踏む足音が近づいてくる。
シィンだ。
ダンジァは顔を跳ね上げ、見つめ、何より早く自分の口から事情を説明したい気持ちをグッと堪えたまま、頭を下げ続ける。
揉め事の当事者である自分が、許しもないまま口を開くわけにはいかない。
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