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15 思い出す

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「——というわけで、今度の大会に出場することに決めた。調整は任せる。うまくやっておいてくれ」

 シィンが言うと、ウェンライは数秒間苦いものを食べたような顔を見せ——しかしやがて諦めたように「畏まりました」と返事をした。
 言いたいことはあるだろうに、ひとまずここは飲み込んだ賢い乳兄弟にシィンは満足の頷きを返すと、程よく緩くなった茶に口をつける。シィンは猫舌なのだ。

 楽し過ぎたために少しばかり長くなった朝の調教を終え、その後厩舎でサイ師と話して戻ってきた王城。シィンの執務室。
 桌子の上には、目を通しておかなければならない書類が山のように積み上がっているが、とりあえずは見えないことにして茶を飲むことにする。

 サボっていたわけではないが、この数日は普段よりも仕事が遅くなっていた。気が散りがちになっていたためだ。つい他のことを考えがちになっていたためだ。
 つまり、ダンジァのことを。

 昨日に至っては、翌日の——今朝の調教のことが気になって、ほとんど仕事が手につかなかった。再び彼に会えることが、乗れることが、とてもとても楽しみで。

 こんなに楽しみに思ったのは、一体いつ以来だろう。
 シィンは首を傾げる。
「一番の騏驥」を探して、とある調教師から「これなどいかがでしょうか」と薦められた騏驥に跨ることになった、その前日以来——くらいではないだろうか。
 一番最初の、あの日。
 期待と興奮にワクワクしたのはあの時までで、以来はさほど期待しないようになってしまっていた。
 次こそと思いつつ、あまり楽しみでもなくなってしまっていた。「また違うだろう」と思うようになってしまって。

 とはいえ、そんな風にして実際に乗った騏驥たちは皆それなりに良い騏驥だったから、贅沢と言えば贅沢なのだが。 


 騏驥を擁して国土を広げ、騏驥を国の宝としているこの国では、統治者である王やその子供である王子は生まれながらにして騏驥を従える騎士になる。
 王子として生まれたシィンは、生まれながらに騎士なのだ。
 他の騎士のように騎士学校に行く必要もなく、生まれた時からその権利と加護を得る。
 だから貴族の子弟のように「騎士になって騏驥に乗りたい」と希望を抱くこともなかったし(なぜならそれはシィンにとっては「希望」ではなくただの「当たり前のこと」とだったからだ)、だから騎士になってからも、騏驥に乗ることは単なる権利であり義務でしかなかった。
 乗る騏驥だって、いつも自分のために最良のものが用意されていた。
「王の騏驥」——そう呼ばれる、抜群の安定感を誇る騏驥たちのうちの一頭が。
 平均した高い能力を誇り、何があっても動じず、王や王子を絶対に落とすことのない「安全な」騏驥たちが。
 個性を出すことを禁じられた、味も素っ気もない、しかし美しく模範的な、どれも同じような騏驥たちが。

 だから「一番」が欲しかったのかもしれない……。
 シィンはそんなふうに思うこともあった。
 

 そしてシィンにとって、ダンジァはまさにその片鱗が感じられる騏驥だった。
 彼は未完成だった。大人びた見た目だがまだ若く、だからか、彼からは伸び代が感じられた。聡明で真面目で体格に恵まれ、今でも充分にいい騏驥だが、まだまだこれからグングンとよくなるだろう可能性が。

 その可能性を、今はまだ隠れているだろう彼の素晴らしさを、自分の手で伸ばしていけたら——。

 そう思うとワクワクしたしゾクゾクした。早くまた乗りたかった。
 今日になるのが待ちきれなかったほどだ。そのせいで、仕事が手につかなかった。

 シィンは再びチラリと書類の山に目を向ける。
 多い。
 けれどまあ、なんとかなるだろう。
 

 それよりも、ダンジァを大会に出せるようになったことの方が大事だ。
 あの手の真面目なタイプは、目的を与えるとさらにぐっと成長する気がする。

(少しずつ積み上げていくほうがいいか……それとも大会当日から逆算して仕上げていくのがいいか……)

 調教のプランを考え、胸が高鳴るのを感じながら茶を飲んでいると、

「ですが、よろしいのですか」

 向かいから声がした。ウェンライだ。
 彼は咎めるというより気遣うような顔でシィンを見つめてきていた。
 シィンは視線で「どういうことだ」と問う。続きを促すと、ウェンライは少し言いづらそうにしながら続けた。

「あまり考えたくはありませんが、もしもの際には下手をすれば、その騏驥もまた危険に晒される可能性が……ということです。規模の大きな競技大会ともなれば、ただでさえ会場は大勢の者たちで溢れ返ります。その上殿下がご出場となれば……」

「……その人混みに紛れてよからぬ事を企てるものも……というわけか」

 ああ……と気づいたように頷きながらシィンが言うと、ウェンライは口元を歪めながら頷く。声を潜めて彼は続ける。

「もちろん、怪しい動きを見せるものには以前より厳しく目を光らせております。しかし残念ながら、今や敵味方の区別がつきづらく……」

「……だろうな」

「申し訳ございません」

「お前のせいではない。むしろ、今こうして無事にのんびりと茶を飲めているのはお前のおかげだ。お前はきちんと仕事をしている」

 神妙な表情を見せるウェンライに、シィンは笑ってみせる。
 大きくなるにつれ、歳を重ねるにつれ、シィンは自分は王子であり守られる立場であると同時に、命を狙われる立場であることも理解するようになった。
 
 そして、血の繋がりの有無と敵味方の区別は必ずしも同期していないことも。
 いや、むしろ——。

 
「…………」


 あまり考えたくないことを考えてしまいそうになり、シィンは頭を振る。
 父の思惑がどうあれ、今のところ自分は生きている。周囲には味方もいる。信頼できる者たちもいる。
 ふっと息をつき、シィンは言う。

「確かに彼を巻き込むのは不本意だが……やむを得まい。すでに出ると話してしまった」

「……殿下にしてはいささか迂闊でございましたな」

「言うな。自分が狙われている立場なのをすっかり忘れていた」

 彼に乗っていると楽しくて。
 そして——そんなふうに自分が見込んでいる騏驥が——とある騏驥に引け目を感じているのがなんだか面白くなくて。
 
「挨拶、か……」

「は?」

「いや、なんでもない」

 シィンが思わず独り言を溢すと、ウェンライが反応する。シィンはそれに「なんでもない」と軽く手を振ったが、頭の中は自分がダンジァに対して行った「挨拶」に意識を奪われていた。

 挨拶。

 挨拶?

 挨拶——な訳がない。


 だがどうして、自分はあんなことを……。
 きっと驚かせてしまっただろう。
 しかし自分でも驚いているのだ。
 接吻自体は初めてではないとはいえ、ああした衝動的なものは初めてではないだろうか。人相手にも騏驥相手にもした覚えがない。
 というかそもそも騏驥に接吻はしない。

 よく働いてくれた騏驥に対して褒美の意味で首や頭を慰撫し、接吻並みに顔を近づけたことはあったかもしれない。が、それはあくまで慰労の意でのこと。そしてそれは彼らが「馬の姿」だったときだ。
 人の姿の騏驥に唇を押し付けた覚えはない。意味なく髪を撫でたことすら。

(…………)

 妙だな、とシィンは思う。
 今まであまりしていなかったことを、最近の自分はするようになっている。
 騏驥に対して。ダンジァに対して。

 シィンはあの見事な流星を持つ騏驥を思い出しながら口を開く。
 
「とにかく——もののはずみとはいえ出ることとなった。それを今更翻す気はない。それに、あの騏驥には帯剣させている。もし万が一何か起こったとしても、自分の身ぐらいは自分で守れるだろう」

 そんなつもりではなかったとはいえ、彼に剣を贈っておいて良かったと思いながらシィンが言うと、ウェンライは一瞬目を丸くし、次いで微かに笑う。

「なんだ」

「いえ……なんでもございません」

「なんでもないことはないだろう。なんだそのいかにも意味ありげな顔は」

 シィンが詰めると、ウェンライは苦笑する。そしてシィンをじっと見て言った。

「もしかしたら、これで殿下もご自分の身を大切になさって下さるのではと思っただけです。帯剣を許したとあれば、騏驥は確かに自分の身を守りましょう。ですがそれ以前に、きっと殿下の身を守ろうとするでしょう。殿下が見込まれたほどの騏驥ならば、なおさら」

「……」

「であれば、まずはそうした危険を招かぬよう、どうか慎重に行動なさって下さいいませ。賊を炙り出すためとはいえ、御身ずから囮になるような真似はなさいませんよう」

「……」

「『誰かに危ない役目をやらせるくらいなら自分で』とお考えになる殿下のお気持ちは、皆重々承知致しております。そんなお方だからこそ、皆殿下のために尽くしているのです。どうか御身をお大事になさってくださいませ」

「……わかった」

 いつになく真剣に言うウェンライに、シィンはぽつりと返す。
 彼の言うことは正しい。彼の言うことはもっともだ。だが身内周りのゴタゴタに他人を巻き込みたくないという思いもあるのだ。
 幸いにして、自分には有能で忠実な者たちが仕えてくれている。支えてくれるものもいれば守ってくれるのものもいる。こんなふうに自分を諌めてくれる者も。だからこそ。

「騏驥には……その辺りの話は……?」

 と、ウェンライが控えめに尋ねてくる。シィンは「いいや」と首を振った。

「何も話していない。私事に巻き込むのは気が引ける。大会に出ることですら、ようやっと承諾させたところだ。今は走ることだけに専念させたい」

「……ですが話しておけば、もし何か起こった際の殿下の安全にも……」

「気を遣わせたくはないのだ。あの騏驥は真面目すぎるところがある」

 ダンジァとのやりとりを思い出して、シィンは笑う。
 思い出し笑い——。これも今まであまりしなかったことだ。少なくとも、騏驥とのことを思い出して笑うなんてことはなかった気がする。
 
 妙な感じだ。
 だが、悪い気分ではない。

 思いながら、シィンは続ける。


「もし話しておいたほうがいいと思う時がくれば、わたしの方から伝える。わたしのせいで罪のない騏驥を危険な目に遭わせることだけは避けたいからな……」

「は……」

 心から納得したのかどうかはわからないが、ウィンライは頷く。
 とりあえずはシィンの思うままに……ということなのだろう。
 この忠臣は諫言のタイミングも引き際もよく心得ている。

 しかし数秒後。
 シィンが茶に口をつけたとき。

「そういえば」

 思い出したように、ウェンライは再び口を開いた。
 
「騏驥に帯剣をお許しになったとのことでしたが、殿下が下賜を?」

「そうだ」

「それはそれは。どの御剣を——」

「星駕だ」

「は……」

 今度の声は、さっきのそれとは違う。同じ言葉でも全く違っていた。
 ウェンライは目を丸くしてシィンを見る。顔を。そしてそっと身を傾けて彼の腰のあたりを。そこにいつも帯びている、鞭を。

 シィンが普段使用する鞭は、生まれた時からその身ともども魔術の加護を受けた特別のものだ。そのため(王族は皆そうだが)、他の騎士以上に自身と鞭との繋がりが深くなる。 
 
 その銘は「景星」。
 そしてそれに揃う形で作られていた剣が——。

「……星駕、ですか」

 確かめるように問い返してきたウェンライの声に、シィンは頷く。
 確かにあれは鞭と揃う形で作られた剣のうちの一つだ。だが、シィンが普段佩いている剣は別のもので、それゆえに長くしまい込まれていたものでもある。
 せっかくの剣なのだ。使われなければ意味がない。
 ならば彼に持たせようと思ったのだ。

 ダンジァもまた星を持つ。

 シィンはまだ驚いた顔のウェンライに内心苦笑いしつつ「そうだ」と続けた。

「そうだ。あの騏驥は額に見事な星がある。それに背が高い、ならばあの剣が合うだろうと思ったのだ。実際、似合っていたぞ」

「……それは……」

 ウェンライは一旦言葉を切る。そして改めて「それはようございました」と続ける。
 シィンは「ああ」と頷くと、剣を受け取った時のダンジァを思い出す。
 彼の声を、表情を、仕草を。その後彼に跨った時のことを。その姿を。乗り心地を。



 満足とともに、シィンは残っている茶を飲み干した。
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