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70 それは命令ではなく

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 リィは、なんとなく自分の座っている場所や座り方が気になって、小さく身じろぎした。なんだか落ち着かない。
 ルーランは馬の姿で——つまり今の自分は馬といるだけなのに、なんだかそのことが無性に落ち着かない。
 決して嫌な訳ではなくて……でも……。
 
 考えながらついじっと見つめてしまったせいだろうか。
 ルーランが微かに首を傾げるような仕草を見せる。
 リィは慌てて目を逸らした。
 
(なんだ、これは……)

 相手は馬の姿だ。なのにそんな彼を見て、どうして自分だけこんなに落ち着かないのか。

(馬でも、中身がルーランだからだ……)

 多分、そうだ。
 しかしそうなれば、今度は「何故中身がルーランだとこんなに狼狽えるのか」という問題が出てくるのだが——。
 リィはそれに悩み始める前に、もっと大きな問題に気づいた。

「そうだ……ルーラン、そういえばお前どうして一人で? どうやって外に出たんだ」

 そう。
 そうなのだ。

 彼と再会できた時は、その嬉しさで胸がいっぱいで深く考えなかったけれど、どうして騏驥である彼が、騎士もなく一頭で——一人でここにいるのか。助けに来れたのか。
 どうやって厩舎地区を、王都を出たのだろう? 許可されていないし、そもそも結界があるはずなのに。
 何か特別な待遇でも……?
 見つめて問うと、今度はルーランの方がスイと視線を外す。
 
「ルーラン?」

 なんだか逃げているような仕草だ。
 気になって重ねて尋ねると、ルーランは唸るような声を上げる。次いで重い口を開いた。

<一応、言っとく。何かあったらすまない>

「? どういうことだ?」

<だから……あんたのお目汚しになるっていうか>

「ルーラン! はっきり言え!」

 遠回しな言いぶりに、リィは焦れて声を荒らげる。
 睨むようにじっと見つめると、ルーランはふうっと息をつく。
 そしてようよう事情を話し始めたが、その内容を聞くほどにリィは狼狽えずにいられなかった。
 顔色も、きっと真っ青になっているだろう。

 ルーランが言い淀んだはずだ。
 脅すようにして無理に結界を越えてきたなんて。
 そんなもの、バレたが最後——。

(ああ——)

 だからなのか。
 リィは眉を寄せた。

 だから「お目汚し」なんて言い方をしたのか。
 自分が酷い最期を迎えるかもしれないから……。

 リィは、ルーランの首にある「輪」を見つめる。ここと、前足と後ろ足にある彼の永遠の騏驥の証。
 
 なのに——そんな危険がわかっていて助けに来てくれたなんて。

「……ばか」

 気づけば、ぽつりとそう零していた。
 ルーランが目を丸くする。馬の姿だからわかり辛いが、苦笑したような気がする。
 そんな彼の姿が、じわじわ滲んでいく。
 もう泣くことなんてないと思っていたのに、泣いた姿を見せることなどないと思っていたのに。

「ばかだ……なんでそんな……」

 リィはルーランの頭を抱くようにして呟く。
 嗚咽混じりの声とともに、涙が溢れて彼の頬に落ちていく。

 ばかだ。
 ばかな騏驥。
 なんで——。なんでそんなこと。

 わかっている。答は今しがた彼が説明してくれた。

『待ってられなかった』

 そうなのだろう。
 そうなのだろう、きっと。

 でも。

 そんなことをすれば罰を受け、死んでしまうかもしれないのに。
 自分の命をかけるほどの価値が?

 わたしに?
 お前を捨てた騎士に?

「ルーラン!」

 リィはぐいと涙を拭うと、彼の顔を真正面から見つめ直す。そして、言った。

「ルーラン、人の姿になれ。このままでは話がし辛い」

<……>

「…………」

<…………>

 だが、彼は変わらない。

「変われないのか?」

 リィが尋ねても、答えはない。
 が、答えないということは「変われない」という訳ではないのだ。
 なのに——変わらない。
 つまり、変化しないのは彼の意思だ。

「ルーラン」

<このままの方が安全だって説明しただろ>

「それはそうだが、い、一度くらい、少しぐらい人の姿になったって……」

<素っ裸で?>

「……」

 そう言われると、躊躇してしまう。リィの側がどうこうと言うより、何一つ纏わない姿で——獣の状態のままで人の姿になる彼の心中を思うと、無理強いすることが躊躇われたのだ。
 が。

「——あった!」

 もしかして……と探れば、袋の中にはルーランが着られそうな服があった。取り出して、目の前に置いてやる。

「これで着替えはできた」

 リィは得意になりながら言う。だがルーランはまだ渋っている様子だ。
 繰り返し首を捻り、抵抗の仕草を見せている。

「……」

 そんな騏驥の様子に、リィは小さく唇を尖らせた。
 何故そんなに嫌がるのだ。
 こちらはもうしばらく彼の人の姿を見ていない。
 最後に見たのは——。

 見たのは……。

「…………」

 思い出して、リィは俯いた。
 そうだ。彼の姿を最後に見たのは……。

<やめとこうぜ>

 と、そんなリィの気持ちを見透かしたように、ルーランが言った。
 もしかしたら、最初からそのつもりで——こちらを気にして馬の姿で居続けようとしていたのかもしれない。そんな口ぶりだった。

<このままでも問題ないんだ。これでいいだろ>

「……」

 確かにそうだ。その通りだ。
 
 でも。
 でも——。

「……よくない……」

 小さな——小さな声でリィは言った。
 ルーランの身体に寄り添い、寄り掛かるようにしてその毛並みを撫でながら。

 背を、首を、顔を撫でていると、その温もりがこちらにまで移ってくるかのようだ。手のひらから腕を通して、安心感や心地よさが全身に染み渡っていく。
 愛しい姿だ。
 でも。
 
「……人の姿になれ」

 リィは繰り返す。
 と——。

「それは命令?」

 ルーランが尋ねてくる。
 リィは首を振った。
 同じようなやりとりをしたことがあったなと思いながら。

 あの時の正確な感情はもう覚えていない。けれど今の気持ちはわかる。

 命令じゃない。 
 命令じゃなく、自分はただ——。

 リィはじっとルーランを見つめる。
 
 ややあって、彼は人の姿になった。
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