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55 決断
しおりを挟む携えている弓と剣、そして魔術を最大限利用して、全員を倒せるだろうか。
だが近づいてくる者たちに対抗できたとしても、リィたちを見下ろしている二人が控えている。
リィは再び、丘の上へ目を向けた。
明るさに目が慣れるに従い、わかってくることがある。
これは推測だが、この場を指揮しているのはあの二人だろう。
身なりが違うし、何より雰囲気が違う。騏驥を見ても全く怯んでいない。
むしろ、この状況を喜んでいるかのようだ。
(もしかして……)
ダンジァの異変も、あの二人が?
『へぇ、本当に来た』
さっき聞こえたこの言葉。
これを、彼らのどちらかが口にしたのだとしたら。
だとしたら。
あの二人は、いったい?
段々と縮まっていく包囲網に、リィの警戒心が最大限に高まったとき。
<リィ様……?>
不意に、ダンジァの声がした。
手綱を通して、しっかりと伝わってくる。
彼の声だった。
<リィ様、ここはいったい……!? それにこいつらは……>
「正気に戻ったか」
リィは驚きつつも、ほっとしながら応えた。
さすがに混乱はしているようだが、彼の彼のらしい意思は感じられる。
「説明はあとだ。一刻も早くここから離れる。周囲の奴らは味方じゃない」
<え…は、はい! ですが敵なら自分が——>
「それよりも離脱だ。ここがどこか、どこに来ているかわからない以上、長居はしたくない。お前なら夜目が利く。とにかくこの男たちからなるべく遠くへ!」
<わ——わかりました!>
騏驥が復活したのなら、戦えないことはない。
戦えば勝てるだろう。
だが、ダンジァが正気を失くしたような状態になってしまった理由がわからず、また、それから回復した理由もわからない以上、いつまた同じ状態になってしまうかわからない。
ならば、戦うよりも逃げる方がいい。
敵の正体も、ここがどこかもわからないまま、無謀な戦いをしたくはない。
遠くまで逃げさえすれば、そこから改めて考えられる。
そう判断し、リィはダンジァの向きを変える。
しかし。
「走れ」と合図をしても、またしても彼は動かなくなってしまった。
「っ!? ダンジァ!?」
リィは大きく狼狽えた。
直前まで意思が通じていたのに!
リィは再びダンジァの腹に脚を入れ、駆けるための合図を送る。
今度は、さっきよりもより強くだ。
だが彼は動かない。
リィがその貌に焦りを滲ませた時。
「無理だよ」
再び、声がした。
今度は誰が発したのかはっきりわかる。
崖の上の、二人のうちの一人。小柄な方が口にしたのだった。
男だ。
次の瞬間、彼は馬を駆ると、そのまま一気に駆け降りてくる。もう一人もだ。
やはり二人とも、馬の扱いに長けている。かなりの高さからなのに、全く怖がることなく駆け降りてきた。そして馬も、それに応えていた。
二人はリィからいくらか距離を取ったところで、ゆっくりと馬を止める。
目元の仮面で顔はわからないが、体格から言って、男二人だろう。小柄な方は、なんとなく雰囲気が若い。年はリィと同じくらいかもしれない。
身体の大きな(おそらくルーランと同じくらいだ)男の方が軽く手を上げると、周囲から近づいてきていた馬に乗った男たちも止まる。
近すぎず遠すぎずの距離から囲まれ、リィは眉を寄せる。
そんなリィに、若い男は愉快そうに笑った。
「そんなものに乗ってても無駄だよ。さっさと降りれば」
「……どういうことだ」
リィが警戒も露わに言い返すと、
「どうもこうも」
嘲るように男は言う。
こちらの不快さを煽るようなものの言い方だが、不思議なことにその声には張りがあって——こういう言い方はおかしいかもしれないが、「綺麗」だった。
発声が美しいといえばいいのか、品の良さが感じられるのだ。
(こんな奴が?)
ますます警戒するリィに向け、
「それはもう役に立たないってことだよ。動かない岩の上に乗ってるも同じだ」
男は口の端を均等に上げて言う。
仮面のせいではっきりはわからないが、きっと目元もそれは楽しそうに細められているのだろう。
「お前たちがなにかしたのか!?」
リィは声を荒らげたが、男からの返事はない。
傍らの背の高い男も、成り行きを見ているだけで口を開く気はないようだ。
代わりに声をあげたのは、リィの周囲を取り囲む男たちだった。
「なにグズグズしてんだよ!? さっさと捕まえちまおうぜ!!」
「そうだそうだ。何を悠長に話してるんだ!」
視線を向けて確かめる。
いかにもガラの悪そうな男たちだが、彼らも馬に乗る姿がそれなりに堂に入っている。
仮面の二人とは明らかに差があるが、一応は馬に乗る訓練を受けた者たちと言うことなのだろう。
(訓練……)
リィははっとした。
以前の遠征。二カ国へ侵攻が行われる前の、ルーランと共に突っ込んでいった、あの森の砦。
そこに潜んでいた連中が、丁度こんな風ではなかったか。
どこの国の者ともわからず、けれど奇妙に統率がとれていて。
(まさか……?)
あのときと、何か関連があるというのか。
リィが妙だと感じた、あのときの遠征と。
全部が繋がっているのか?
それとも偶然なのか。
あれこれと考えている場合じゃないと解っているのに、過去が次々蘇ってくる。
「大人しく捕まってくれれば酷い目には遭わせないよ。多分ね」
すると、そんなリィに若い男が再び口を開いた。
血気盛んな周りの男たちを抑えるように片手を上げ、ゆっくりと馬を進ませてくる。
ダンジァを全く恐れていない。彼が動かないことを、確信しているのだ。
「むしろ傷つけないように丁寧に丁寧に扱うさ。その方が高く売れる」
彼は、リィにもわかる近くでにっこり笑う。仮面をつけていてもわかるぐらい楽しげに。
「…………」
その声と言葉に、リィは虫酸が走る思いだ。だが、睨んでも男は顔色一つ変えない。
むしろ一層楽しげに嘲るように言う。
「なにしろ、成望国の騎士——それも美形とくれば、どれだけ金を積んでも手に入れたい、飼ってみたいと思う者はあちこちにいるからね。男でも女でも。普段騏驥を鞭打っていた騎士を泣くまで打ってみたい、とか思うような、ちょっと変わった性癖の人とかさ。ああ、そうだ。騏驥とセットなら、なお価値が跳ね上がるかも。騏驥を人の姿にして騎士と絡ませれば、いい見せ物になる」
「……貴様……」
くつくつと笑いながら言われ、リィは込み上げてくる悪寒と憤りを堪えるのに必死だった。
騎士と騏驥を幾重にも侮辱しているのだ。この男は。
しかも人の姿の騏驥と——だと?
(っ……)
リィの脳裏を、過日のルーランとの出来事が過ぎる。
羞恥と惨めさ、そして自己嫌悪。
父のことがあったからこそ、なおさら自分は絶対に騏驥と「そんなこと」にならないと心に決めていたのに。
未だ忘れられず、ふとしたとき蘇る記憶。それを無理やり押し込めるように唇を噛むと、リィはきつく男を睨む。
「おお——こわ」
と、男は戯けたように肩を竦めた。
「綺麗な顔に睨まれると怖いな。そういうこと言われない? まあ、騏驥がその状態じゃ睨まれたところで怖さも見せかけだけだけどね」
男が微かに合図すると、じり、じりと包囲の輪が狭くなってくる。
(どうする……)
自分の無力さに、リィが眉を寄せた時。
「——うわっ!?」
突然、身体の下にあったものが消えた。
「っ!」
落ちたのは、半端に固いものの上だった。
地面じゃない。
人の姿になったダンジァの身体の上だった。
「!? ダ……お前!?」
彼は馬の姿から人に戻った姿で——つまり裸でリィの身体の下に潰れていた。
リィが慌てて飛び退くと、彼も身体を押さえて呻きながら起きあがる。
「っ……リィ様……? え?」
リィの姿を確認して不思議そうな顔を見せ、自分の格好を確認してびっくりした声を上げる。
「え……こ、これはいったい、どういう……」
「っ——い、いいから立て! 逃げるぞ!」
リィは狼狽えているダンジァにそう叫ぶと、彼の腕を掴む。
無理やり立ち上がらせると、そのまま、連れだって駆けだした。
背後から、男の楽しそうな笑い声が響く。
「走って逃げる気か!? 馬から逃げられると!?」
そしてそれに、周囲からの嘲るような声が続いた。
馬たちが次々と嘶きを上げ、土煙を巻き上げながら突っ込んでくる。
思わずリィが怯んでしまった瞬間。
「リィ様!!」
掴んでいたはずの手で、逆に腕を掴まれ、ダンジァにグイと引き寄せられる。
男の一人が振り回した長剣が、すぐ側を掠めていった。
「こっちへ!」
騏驥であるダンジァの方が、男たちの動きや馬の動きがわかるのだろう。
彼はほとんどリィを抱きかかえるようにして護ってくれると、四方八方から次々と突進してくる馬たちを避け、隙間をかいくぐるようにしてなんとか逃げ切ろうとしている。
リィも懸命に走ろうと試みるが、足場が悪い上に怖さのためか身体が思うように動かない。
情けなさと悔しさにリィが唇を噛むと、
「大丈夫です!」
励ましてくれるような、ダンジァの声がした。
「絶対に——絶対にリィ様はお助けします」
そして彼がそう言った直後。
「!!」
彼の姿は再び馬に変わる。
なぜ、と考える間もなく、リィはダンジァに飛び乗った。
今まさにリィたちを追いつめようとしていた男たちが、再び現れた騏驥の強大さに怯んだのがわかる。
「ダンジァ!」
リィは声を上げると、ダンジァの横腹を蹴り、全速で駆けろと命令した。
騏驥が本気で駆ければ、馬は絶対に追いつけない。
次の瞬間、狙い通りリィたちはあっという間に賊たちの囲いを突破する。
だが——。
<っく——>
安堵したのは、ほんの数秒。
彼らを引き離したと思った直後、手綱から、苦しそうな辛そうなダンジァの感覚が伝わってきたのだ。
ガクン、とスピードが落ちる。
走れてはいる。
駆けられてはいるが、その速さはとても騏驥のそれとは思えない、普通の駿馬程度のものだ。
「ダ……」
<大丈夫です! 大丈夫ですから——捕まっていて下さい>
なにがあったのかと気遣うリィに叫ぶように言うと、彼は無理矢理のようにグイとスピードを上げようとする。
だがやはり酷く苦しそうだ。
まるで見えない鎖に縛られているかのように、見えない重りを四肢に括り付けられているかのように、普段の雄々しい走りようではなく、泥の中を藻掻いているような、背中や腰や四肢の使い方がバラバラの走法になっている。
(これでは……)
これでは彼の身体が。
だが、どうすればいい?
何も出来ない。
リィは唇を噛む。
鞭打てば——速さを増すかもしれない。今ならば、意思の疎通が出来ている今ならば、彼が「騏驥」としての能力を幾らかでも取り戻している今ならば。
だが。
鞭打つのか?
今の、彼を?
手を伸ばせば、腰に帯びている鞭を掴むことは出来る。
そしてそのまま手首をひらめかせれば、彼を鞭打つことは出来る。
走れ、と。
より速く走れ、と。
騏驥に命令できる。指示できる。
——騎士として。
でも——。
「あっ——」
ダンジァの上で逡巡するリィの肩を、背後から飛んできた矢が掠める。
(もうそんなに近くに!?)
振り返るリィの目に、賊の姿は見えない。目印になってはまずい、と発光石は消してしまったのだ。ダンジァの目を頼ればなんとかなると信じて。
けれど、賊にも夜目が利く者や、遠矢に優れている者がいたとしたら……。
リィは顔を顰める。
敵の姿が見えさえすれば、応戦できるのに。
今はただ為す術なくダンジァの背の上で彼の走りに全てを委ねるしかない。
まだ本調子ではないらしい、彼の走りに。
(いつまで保つか……逃げ切れるか?)
そうしていると、またヒュッと風を切って矢が飛んできた。
一つじゃない。二つ、三つと続けてだ。
<大丈夫ですか!?>
手綱を通して、ダンジァの声が伝わってくる。
彼も焦っている。
本当なら——普段の騏驥の能力なら、全速力で走りながらでも背後に注意が払えるはずなのだ。
特にダンジァのような優れた騏驥ならば、いつもなら造作もないことに違いない。
なのに今は、どうしてかままならない重い足を引きずるようにして、なんとか駆けるので精一杯だ。
こうしている間も、一完歩ごとに彼が苦しさを増しているのがわかる。
速度が落ち始めている。このままでは——。
そう、思ったときだった。
「!?」
ダンジァの走りが、さらにゆっくりになっていく。
「ダンジァ!? 怪我でもしたのか!?」
矢がどこかに当たったのだろうかと、リィは狼狽えながら彼の背や臀部に触れて確かめる。
しかし次の瞬間、
「うわっ」
その身体が、ふっと浮いた。
乗っていたダンジァが再び人の姿になってしまったのだと気付いたのとほぼ同時、
「大丈夫ですか!」
地に落ちかけた身体をすんでのところでダンジァに抱き留められる。
彼は疲労に乱れた息のまま、「申し訳ありません」と悔しげに眉を顰め、頭を振った。
「どうしてか、変化の調整が上手くいかないのです。人になるつもりではないのに、こんな……」
しかしそう言った直後、彼は自らを奮い立たせるように頬を引き締め、リィを見つめて言った。
「このまま走ります。お嫌かもしれませんが、少しばかり我慢を。捕まっていて下さい」
そして彼はそう言うと、リィをしっかりと横抱きに抱え直し、人の姿のまま走り始める。
「ダ……」
「舌を噛みます! 黙って!」
無理だ、と言おうとしたリィの言葉を遮る、ダンジァの鋭い声がした。
普段の彼なら絶対に言わないような騎士への言葉。
「お叱りは後で受けます」
低くそう続けてダンジァはなお走るが、そんな二人に追いかけてくる馬たちの足音が聞こえてくる。
もう、そんなに近くまで来られているのだ。
「っ」
慌てているからか、それとも身体に違和感があるのか、ダンジァの身体がたびたび傾ぐ。元々足場の悪い場所だ。その上リィを抱いているから尚更走りづらいのだろう。
それでも彼は護ってくれるようにリィを抱き、懸命に、一歩でも遠くへ少しでも安全な場所へと走り続けている。
リィのために。
だがいくらか走ったそのとき。飛んできた矢を避けようとした彼が大きくバランスを崩した。
「っ!」
踏みとどまれず、もんどり打って倒れる。
「!!」
リィも彼の腕の中で大きな衝撃を受ける。それでも、身体が地に投げ出されることはなかった。ダンジァがその全身で護ってくれたからだ。
代わりに彼は、リィを庇ったせいで受け身も取れず、肩や背をしたたか地面に打ち付けたようだ。
痛みに呻き、きつく眉根を寄せている。
「っ……く……」
「ダンジァ!」
「っ…すみません……お怪我は……」
「私のことなんかいい! それよりお前が……」
リィは彼の怪我の様子を確認しようと身を起こし、絶句した。
地に転がったせいで擦り傷を負ったのだろう。裸の身体のあちこちに血が滲んでいる。
そうだ。彼は何一つ身に纏っていない状態でこの荒れた地に身体を打ち付けたのだ。
リィのせいで。
しかも肩や背の一部は内出血のためか月明かりでもわかるほど黒っぽく色が変わっている。相当酷く転んだのだ。
しかしそれよりもリィを青くさせたのは——。
(足……足が……)
目に映る悲惨な光景に、血の気が下がる。
素足で無理に駆け続けていたダンジァの足先は、爪が剥げ皮膚はズタズタに裂け、全ての指は、痛々しく目を背けたくなるほどの血に濡れていたのだ。
(騏驥の……足……っ——)
騏驥の命にも関わる、なにより大切な部位。
その足元のこの上ない惨状を目の当たりにし、リィは声も出せなくなる。
「……さま……リィ様!」
不意に、腕を掴まれ揺さぶられて我に返る。
身を起こしたダンジァが、不安そうな顔で見つめてきていた。
「大丈夫ですか? やはりどこかに怪我を……」
「……いや……」
大丈夫だ、とリィは首を振る。
だが頭の中は今見た光景で一杯だった。
夢であってほしい、と再びちらりとダンジァの足先を見る。
「!」
直後、慌てて目を逸らした。
そこはやはり、血と泥にまみれていたからだ。
足は、騏驥にとって最も大切な箇所だ。
走れない騏驥は存在する意味がない。
走れなくなれば「処分」されるしかない……。
(処分……)
想像すると、ゾッとする。
そんなリィの腕に触れ、
「行きましょう。もう大丈夫です」
ダンジァは言うと、リィの身体を再び抱き上げようとする。
——なんでもないことのように。
当然のように。
けれど間近から見れば、その表情は無理をしている様子がありありと窺える。
当然だろう。馬の姿でリィを乗せていただけでなく、人の姿でずっと抱えて走り続けていたのだ。そのせいで足はあんな状態で、肩は不自然に腫れあがっている。
全身、傷だらけで……。
「……リィ様? 急がなければ——」
いつしか俯いてしまったリィに、ダンジァが言う。
リィはゆらりと顔を上げると、彼を見つめ、堪らず頭を振った。
ダンジァの眉が、訝しそうに寄せられる。
「? リィ様——」
「……ろ……」
「え?」
「……逃げろ」
言うと、リィは慌ただしくダンジァの手を取る。
その掌に、持っていた鞭を渡した。
「!? リィ様!?」
ダンジァが驚いた声を上げる。
そんな彼を見つめ、リィは必死に続けた。
「これを持って逃げろ。これを持っていれば、絶対に誰かに保護してもらえる。早く逃げて最初に出会った人を頼って――」
「何を仰るんですか!」
口早に言うリィの声を遮るように、ダンジァは声を荒らげた。
悲鳴のような声だった。
「自分はリィ様を——」
「お前だけならなんとかなる。わたしがいなければその分早く走れるだろうし、もしまた馬の姿に変われたなら、もう誰も追いつけない。安全なところまで逃げることが——」
「嫌です!!」
ダンジァが叫んだ。
しゃがみ込み、両手でリィの両腕を掴むと、縋るようにしながら言う。
「そんなことを仰らないで下さい! あなたを置いて逃げられるわけがない。自分の仕事は——使命はあなたをお護りすることです。あなたを絶対に、無事に……!」
これ以上はないほどの悲痛さを湛えた声で、彼は言う。
使命感と忠心、真面目さ、誠実さ……。そんなものに溢れた声だ。騎士に仕える騏驥の声。
だからリィの胸はなお痛む。
リィは彼を見つめ——見つめ——見つめて——。
——首を振った。
「お前の気持ちはよくわかっている。だが駄目だ。二人ではきっと逃げられない。だからお前だけでも逃げろ。鞭があればお前の身柄は保証される。脱走した騏驥ではなく、騎士が逃がした騎士として……」
「そんな保証なんかいりません!」
ダンジァの目から涙が溢れた。腕を掴む手に、力が籠もる。
「馬鹿なことを仰らずに、逃げましょう。大丈夫です。絶対に護ります。絶対に無事に——」
「そのためにお前を犠牲にはしたくないんだ!」
リィは叫んだ。
自分の言葉が騎士として間違っていることはわかっている。
騎士は、騏驥を犠牲にしても「かまわない」のだ。
それが騎士で、騎士と騏驥はそういう関係のはずなのだから。
でも。
「もういやだ……」
リィは歯を食いしばったまま、呻くように言った。
騎士のせいで、騏驥が傷つくのはもう嫌だ。
リィの脳裏を、ルシーの姿が過ぎる。
あれは特殊な出来事だったのだ、と頭ではわかっていても、自分はあんな真似を騏驥にはしないと思っていても、それでも。
それでも思い出すと胸が軋むのだ。
騎士の「せいで」傷ついた騏驥の姿。
弱々しい声でリィが零し、項垂れると、腕を掴んでいたダンジァの手がずるりと落ちる。
「……リィ様……」
「お前は、保護される。その身体や足も、早く治療を受ければ回復できるかもしれない」
「…………」
リィは顔を上げると、呆然とリィを見つめているダンジァに微笑んでみせる。
手を伸ばすと、彼の「輪」に触れた。
「これでいい。医師や魔術師たちが診れば、お前の状態だけでなく何があったのかもおおよそ知れよう。『輪』には記憶が込められる。万が一鞭を無くしたとしても、これでわたしが——騎士がお前を逃がしたのだと証明できる。お前の騏驥としての名誉も……最大限護られるはずだ……」
「…………」
「すまなかった」
しっかりと鞭を握らせて、リィは言った。
「すまなかった、ダンジァ。もっと早く決断すべきだった。そうすればお前の足も——」
「やめて下さい!」
リィの謝罪に、ダンジァは大きく首を振った。
そして再びリィの腕を取ると、無理矢理に抱え上げようとする。
「駄目です。やっぱりこんなのは駄目です! あなただけを置いて逃げるなんて出来ません! あいつらがあなたを捕まえたら何をするか——」
そのとき、馬の嘶きが一層近くに聞こえてきた。
もう、すぐそこまで来ているのだ。
「早く行け!」
リィはダンジァを突き放した。
「行け! 早く! 捕まりたいのか!?」
「ですが自分は」
「いいから行け! わたしは、騏驥を道連れにした不名誉な騎士になりたくない!」
「!」
ダンジァの動きが止まる。
リィは彼の頬に触れると、そこにある涙の跡をグイと指で拭ってやった。
二度、三度。そして改めて彼を見つめる。
「行け、ダンジァ。——ダン。わたしなら大丈夫だ」
微笑んでそう続けると、目の前の騏驥は大きく顔を歪めた。
せっかく拭った頬に、また一つ、二つ、三つと涙が流れる。
「どうして……」
掠れた声で、呻くように彼は言った。
「どうしてこんなときに、そう呼ぶのですか。自分はずっとずっと、あなたにそう呼んでもらいたかった。それが、あなたの騏驥になれた証だと——そう思って……っ。でもあなたは呼んでくれなかった。なのに、こんなときにどうして……っ……」
嗚咽混じりの声に、リィの胸にも切なさが込み上げた。
知っていた。彼がそう呼ばれたがっていたことも。
でも呼べなかった。
心のどこかで「違う」と感じていたからだ。
自分は、彼の騎士にはなれない、と。
なのに今、自分は、彼を逃がすためとはいえ、卑怯にもそんな彼の願望を利用する——。
「……お前は、わたしにはもったいない。だから死ぬな」
リィは穏やかに、けれどしっかりとした声で言うと、騏驥を見つめる瞳に心と力を込めて言った。
「ダン。お前の騎士が命じる。——行け。行って、逃げて、必ず生きて王都へ戻れ」
言いながら肩に触れ、そっと押し出すように力を込める。
ややあって、ダンジァは涙を拭って頷くと、託された鞭をぎゅっと握りしめる。
そして座り込んでいるリィの前に片膝をつき、深く深く頭を下げると、
「御意」
彼らしい強くまっすぐな声で言い、すぐさま立ち上がって駆け出していく。
遠ざかり、やがて見えなくなる背中。
地面に、涙が溢れた跡が残っている。
安堵したリィの背後から、多くの馬たちが近づく荒々しい足音が聞こえた。
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