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53 不穏

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◇ ◇ ◇



 翌日、リィたちは、予定よりも早く本隊と合流することができた。
 道中、特に国境を越えてからは、それまでにも増して気を張り通しだったが、どうやら卿が言っていた通り、那椅国側とある程度の話はついていたようだ。


 そのこといくらかほっとしつつ、それでも警戒は解かぬまま、リィは疲れた様子を隠せない様子で撤退の準備を続ける兵たちを騏驥の上から眺める。
 一見は整然としているが、手際は悪い。
 早くこの地を離れたいと思っているのだろうが、その思いと体力や気力が上手く繋がらないのだろう。
 それほど、疲労や倦怠が兵たち一人一人を、そして隊全体を覆っている。


 慣れぬ土地でいつ終わるともわからないまま長い間闘い続けていたのなら無理もないだろう。しかも、得られたものはほとんどないのだ。
 大勢の兵馬を送り込んでの遠征の結果が、この撤退だ。
 全く意味がなかったとは思いたくないが、この辺りは国境線が少々動いたところで大勢に影響はないはずだ。
 それとも、そもそも遠征の理由づけになった例の不可解な事件の手がかりの一端でも見つけられたのだろうか……。
 思い返せば、不思議なことだ。


 あれは結局、なんだったのだろう。
 遠征が決まってからというもの、リィやルュオインが経験したような「妙な事」が起こったという報告はないままだ。
 元々が、「ちょっと気になる」という程度の、些細な「妙な事」だから、実は起こっていても噂にもなっていないのかもしれないし、リィが知れずにいるだけかもしれない。
 が……。

 こんな風に、遠征したはいいものの、何の成果もなく撤退せざるを得なくなったことが二回も続けば、訝しくも思ってしまうのだ。
 ちょこちょこと起こった異変はもしかしたら「餌」のようなもので、誰かの企みにうまく乗せられ誘い出されただけだったのではないか、と。

(…………)

 しかしそうなると、誰がどんな目的でそんなことをしたのかという話になる。
 やはり周辺国のいずれかが関わっているのだろうか。
 それとも、もしかして国内の誰かが……?

 卿の話では、この遠征を強引に推し進めた勢力もあったらしいが……。

(まさか)

 わざわざ国を荒らすような、そんな真似をする者がいるわけが、とリィが首を振った時だった。

「——リィ」

 聞き覚えのある声がした。
 はっと顔を向ければ、一頭の馬が近づいてくるのが見えた。その鞍上にいるのは——ルュオインだ。

 だが一瞬、リィは自分の目を疑った。
 目に映るルュオインは、リィが見知っている洒落男の彼とは別人のようだったからだ。
 さすがに騎兵隊長としての威厳は感じられるし、身だしなみもきちんとしている。だがその面差しと雰囲気からは、心身両面の疲れがひしひしと伝わってくる。
 
 すぐに言葉が出せないリィにルュオインは苦笑すると、ゆるやかに馬を止めて下馬する。
 リィもダンジァから降りると、彼に周囲の警戒を怠らないように言い置き、ゆっくりとルュオインに近づいた。
 間近で向かい合うと、彼の疲れ具合が一層わかる。
 何か言うべきか、それとも……とリィが迷っていると、

「——すまないな」

 ルュオインが辛そうに眉を寄せて言った。

「こんなところまでわざわざ来させてしまって……。まったく、情けないことだ」

 溜息混じりにそう言うと、ルュオインは自嘲を浮かべてため息をつく。
 リィは慌てて「いいえ」と頭を振った。

「あなたのせいではないのですから、そんな風に言わないで下さい」

 だが、リィのその言葉にも、ルュオインは暗い表情で黙ったままだ。
 リィは自分の口下手さが悲しくなった。
 お世辞やご機嫌取りが上手くなりたいとは思わないけれど、こんなときぐらい少しでも相手を励ますことができればいいのに。

「そんな顔するなよ」

 と、ルュオインが苦笑交じりに言った。

「それじゃ、お前の方が大変な目に遭ったみたいだ」

「あ……」

 リィは気まずさに口ごもった。
 確かに、ここは自分の至らなさを悔やむ場面ではない。

「すみません。そんなつもりはなかったのですが……おっしゃる通りです」

 リィが謝ると、ルュオインはクッとおかしそうに笑った。

「謝るなよ。まったく、冗談の通じない奴だな。まあ、そう言うところが『らしい』んだが……。そもそも俺が謝ったのだって、この遠征に加わった者として、謝っておかないと気が済まないっていうだけだ。名目上は援軍で来てくれているわけだから、みんなお前に感謝こそすれ謝ったりはしないだろうからな」

「…………」

「俺だって、普段ならいちいち謝ったりしない。遠征での勝ち負けなんて、その時になってみなきゃわからないこともあるし、逆にその時にはわからないことだってあるんだからな。誰かに謝罪する義務なんかないさ。ただ今回は……」

 ルュオインも辺りを見回す。
 疲労困憊で撤退の準備をしている兵たちを。

「今回は謝っておく。こんな遠征、本当はやりたいものじゃないだろう。誰だってそうだ。神経をすり減らす割に、得られるものはないからな。こんな……後始末の手伝いみたいなものに加わらせてしまってすまない。しかもそっちだって別の遠征に出ていたのに」

 重たく暗い声で絞るように言うと、ルュオインは疲れきった息をつく。
 彼の傍らを、引きずるような重い足取りで、人馬が通り過ぎていく。
 その様子に、ついリィが顔を曇らせた時だった。

「少しいいか」

 心持ち顔を寄せてきたルュオインが、低く、口早に言った。

「あまり時間がない。手短に言う」

「は、はい」

 戸惑いつつもリィが頷くと、彼は一層声を潜めて続けた。

「騏驥に気を付けておけ」

「!?」

 息が止まる。
 思ってもいなかった言葉に、リィはぎょっとしてルュオインを見る。
 彼の瞳の鋭さと真剣さに、これは嘘でも冗談でもないのだと知る。

「不安を煽るつもりはない。だが覚えていてくれ。騏驥には気をつけろ」

「ど……」

「今回、この遠征がここまで手間取った一因は、騏驥だ。騏驥が……」

 そこまで言うと、彼は言葉を探すように顔を歪める。
 迷っているような苦しんでいるような貌だ。
 リィは息をつめてルュオインの次の言葉を待つ。
 だが、彼は何か言おうとしては止め、やがて、ゆっくりと頭を振った。

「すまない……」

 呻くような声だった。
 狼狽するリィに、彼は見たことがないほどの深刻な面持ちで――眉間に深い皺を刻んだ貌で、大きく首を振った。

「わからない。どういうことなんだか……よくわからないんだ」

「どういうことですか? いったい、騏驥になにが……」

 更に顔を寄せ、前のめるようにしてリィは尋ねる。そんなリィの前で、ルュオインは苛立つように再び頭を振った。

「なにもない。なにもなかった。目に見えた異常は。でも普通じゃなかった。きっと——いや、多分。俺は騎士じゃないから本当のところはわからない。でも——おそらくそのせいで、馬たちが全部影響されて——」

「…………」

「なにもかもが上手くいかなかった……」

 食いしばった歯の隙間からくぐもった声が漏れる。

「でも本当はそうじゃないのかもしれない。そんな気がするだけで…………」
 
 ——よくわからない……。

 重たい声でそう言うと、ルュオインははぁっと大きく息をついた。
 まるで、胸の中に滞っていた昏いものを吐き出してしまおうとするかのように。

「みっともない遠征失敗の挙げ句に、なにを妙な言い訳をと思うだろう?」

「いえ――」

 自嘲気味に言うルュオインに、リィは首を振った。
 確かに、言っていることは支離滅裂だ。
 けれど、いつもなら決してそんな風にならないルュオインがこうも混乱してしまっているということは、きっと「なにか」あったのだ。
 

 それがなにかはわからないけれど、ここで、きっとなにかが。
「あるはずのないこと」が。



 リィは一瞬、ほかの騎士に尋ねてみようかとも思った。
 この遠征にも、既に騎士が騏驥とともに参加している。卿から聞いていた話では、確か三名。
 少し探せばすぐに見つかるだろう。
 
 だが……。


(訊いたところで、答えてはもらえないだろうな)


 リィは胸の中でそう思い直した。
 リィも含めてだが、どんな騎士でも、彼ら/彼女らには騎士としてのプライドがある。
 万が一騏驥に何か異変があったとして、そのことにルュオインが気付いていながら騎士が気付いていなかったら、それは騎士の存在理由に関わるし、また、気づいていたとしても、そのことがもしかしたら今回の遠征失敗(敢えてこう言おう)の理由の一つになってしまうかもしれないとなれば、その詳細については絶対に口を割ろうとはしないだろう。


 戦場で傷を負い戦えなくなったならともかく、自分が選び、連れてきた騏驥になにか不具合があったことなど認めないに違いない。
 リィがどう尋ねたとしても、良くて「そんなことはルュオインの気のせいだろう」という返答だろうし、通常なら「どうしてそんなことを尋ねてくるのか」と無言のまま不快そうな顔をされるだけに違いない。
 本当に騏驥に何かあったのかどうか——ルュオインが感じた異常があったのかどうかを確かめる術はないのだ。


「いたずらに混乱させてしまったなら、すまない」

 黙ってしまったリィを気にしたのだろう。ルュオインが慌てたように言った。


「だが言っておかなければと思った。よければ頭の隅にでも置いていてくれ。なにもないならそれでいい。それが一番だ。騏驥のことなんかなにも知らない、一介の騎兵の戯れ言だったなら、それはそれでいい。笑い飛ばしてくれ。ただなんだか……どうしても普段とは違うような……何かが……」

 騎士というリィの立場に遠慮してか、最後の方は小声になるルュオインに、リィは首を振った。

「気をつけます。あなたがわざわざ忠告して下さったことなら、きっと意味のあることでしょうから」

「リィ……」

「もちろん、なにもないならそれに越したことはありませんが……」

 万が一、ということもある。
 羅々国侵攻の時だって、考えてもいないことが起こった。起こって、その挙句……。
 リィは凄惨な記憶を思い出しかけ、慌ててそれを頭の中から追いやる。

「気に留めておきます」

 頷いてリィが言うと、ルュオインは心なしかほっとしたような顔を見せる。
 そして軽く手を上げて別れると、自身の馬へと走っていった。
 少し遅れ、ダンジァのもとに戻ろうとしたリィの視界の端を、騎士を乗せた一頭の騏驥が悠然と過ぎっていく。
 歩兵や騎兵たちを護るようにゆっくりと歩を進めているその姿は、リィが見慣れた騏驥の姿だ。雄々しく美しく、そしてどこか神々しい。
 
 側から見た感じでは、騏驥の様子にも騎士の様子にも、特に違和感はない。
 
 長引いた遠征のせいか、健康状態を示す毛艶の様子は今ひとつのようにも映るが、それ以外は、普段見るそれらとなんら変わりはない。
 疲れているだろうし、ストレスも堪っているだろうに、それをおくびにも出さずにいる。
 躾の行き届いた、いい騏驥だ。鞍上との連携もよくとれている。

 ルュオインは騏驥に、いったいどんな危うさを感じたのだろう?

 もっとも、騏驥は馬以上に個性が強いから、古騏驥ではない別のそれらのどちらかが異変の兆候を見せていたのかもしれないが……。
 リィはぐるりと周囲を見回す。が、他の騏驥の姿はない。ルュオインと話をしている間に、もう通り過ぎてしまったのだろうか。

『騏驥に気を付けておけ』

 その言葉は衝撃的で、とても頭の隅に置いておけるようなものではない。 
 ルュオインは騎士ではないが、騎兵隊長として馬の扱いには長けているし、また騏驥の姿やその行動、振る舞いも見慣れているはずだ。だから彼だって、騏驥がどんなものかは普通の者よりも知っているはずなのだ。
 芯から知ることはないとしても。
 そんな彼が発したあの警告……。


 考えながらダンジァに近づくと、彼はリィの騎乗を助けるために器用に四肢を畳み、座り込むような格好で身を屈める。
 リィがその背中に腰を落ち着けると、

<なにか、気に掛かることでもおありですか?>

 立ち上がったダンジァから、手綱を通して声があった。いくらかおずおずとした様子だ。

<余計なことでしたら申し訳ありません。ですが、もしなにかあるようなら自分も気をつけていた方がいいかと……>

「……いや……ない。大丈夫だ」

 リィは言うと、安心しろ、というようにダンジァの首を軽く叩いた。が、直後、気になって言葉を継いだ。

「お前の方は気がかりなことはないか。那椅国側の動向、引き上げていく人馬や騏驥たちの様子……わたしが離れていた間に異常はなかったか?」

 なるべく自然な口調になるように気をつけながら尋ねた。
 ルュオインの言葉の真意がはっきりしない以上、どうしてあれこれ気にしてしまう。
 なにしろ、彼もまた騏驥だ。
 すると、そんなリィの懸念を晴らすかのように、いつもの歯切れの良い声で、ダンジァは<はい>と、応えた。

<特に異常はないようです。人も馬も動きが遅いように感じられることぐらいでしょうか。疲れているせいだと思うのですが……。この分だと予定よりも時間が掛かりそうですね>

「そうだな。……お前は、大丈夫か」

<?>

「お前の調子だ。体調や……気分……そういったものは変わらないか? 初遠征で、戦闘ではないとはいえずっと周囲を警戒したままで……気を張ったままだろう? 平気か」

<は……はい。大丈夫です。……ありがとうございます>

「うん。大丈夫なら、いい」

 リィの言葉に感激したような様子で言うダンジァの反応が気まずく、つい、素っ気なく応えてしまう。
 心配しているのは事実だが、どちらかといえば探るような意味合いで尋ねてしまったから。
 とはいえ、何もないならなによりだ。

 ダンジァが気にしていたように予定よりも時間は掛かりそうだが、それでも夜になる前には全ての人馬が安全な地域まで引き上げられるだろう。
 国境を越えて領内に戻るまで気を抜けないと言えば抜けないが、那椅国が追撃してきたとしても、しんがりとして当然リィも応戦の目処を立てている。
 大きな被害を出すことはない——はずだ。
 

 リィは大きく息をつくと、周囲に視線を巡らせる。
 ときおり強い風が舞う中、太腿からダンジァの温もりがじわりと伝わってくる。
 彼も周囲への注意は怠っていないが、緊張しすぎている様子はない。自己申告通り落ち着いているようだ。
 このままなにごともなく終われば、ルュオインが気にしていたことも、彼の気のせいだったということになる。
 そうなるといい、とリィは思った。
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