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38 追悔

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 辛うじて幾つかの発光石が転がっているが、その灯りは頼りなく弱い。
 辺りはほとんどが闇だ。そんな中、地から生えているかのような太い鎖が、彼の三つの輪に繋がっている。
 魔術の込められた鎖。周囲には結界も張られていて、逃げることなど不可能だというのに、その上ここまでするとは……。

 リィは自身の騏驥のあまりの姿に、眉を寄せずにいられなかった。
 こんなことなら、軍議など無視して、もっと彼の処遇について配慮を願うべきだった。
 まさかこれほど彼を酷く扱うとは。

 リィは静かに、静かにルーランに近づく。
 けれどいざ彼と会うとなると、何を話せばいいのかわからない。
 道中考えればいいと思っていたが、何も考えられなかった。
 ただただ、彼に会いたいと——会わなければと、そう思って……。

 一歩一歩と、彼に近づく。
 ようやく彼の輪郭がはっきりし始めるところまで近づいた時。

「……!」
(な……)

 リィはルーランの姿に息を呑んだ。
 彼の服は裂け、胸元に血が滲んでいたからだ。
 
「ど……」

 慌てて駆け寄ると、ルーランは面倒そうに顔を上げる。
 目が合うと、彼は「はっ」と短く笑った。

「なんだ、あんたか。鼻も耳も効かなくなってるな」
「ど——どうした、それは。この辺りの獣にでも——」

 言いかけて、再び息を呑む。
 獣じゃない。
 これは……この跡は……。
 
 まさかと思いながらルーランを見ると、彼はおかしそうに嗤った。

「またあいつが来たのかと思ったぜ。たった二発じゃ打ち足りなかっただろうしな」

 ルーランの言葉に、リィは寒気がした。
 
「…………ゾイエ……」

 もう敬称も付けたくない。
 声が震える。ルシーにあんなことをしておいて、その上、彼にそんなことを?
 込み上げてくる怒りで頭の芯まで冷たくなるようだ。
 
 打ったのか。
 わざわざここへ来てこの騏驥を。
 抵抗できないこの状態の——。
 
(そういえば……あの男……)

 思い返せば、軍議の時にも見なかった気がする。
 顔も見たくないから構わないと思っていたが……こんなことのためにここへやってきていたとは……。

 痛々しい姿のルーランを見つめ、唇を噛むリィに、彼は嗤ったまま続ける。

「手下だか子分だかを四、五人引き連れて来たぜ。みんな嫌そうな真っ青な顔だったけどな。そりゃ、こんなところ来たくないだろうよ。なのにわざわざ連れてきたんだ。俺のことがよほど怖いんだろうな」
「…………」
「しかもこの状態だって言うのに、鞭打つときはご丁寧にその手下だか子分だかに俺を押さえつけさせてな。挙句、口の中に布切れまで突っ込んでくれたよ。そんなことまでしなくても、あんな男の鞭程度で叫んだりしないってのに」
「やめろ……」

 それ以上聞きたくなくて、リィは震える声で言いながら頭を振った。
 彼が——自分の騏驥が凄惨な目に遭わされたことなど聞きたくない。
 嫌だ。
 怖い。
 いやだ。

 なのにルーランはなおも嗤いながら言う。

「そのまま打たれて——でも二発で鞭が折れた。あとは三回ほど蹴りつけられて——」
「もうやめろ、聞かせるな!」

 リィは思わず両耳を押さえて絶叫した。
 聞きたくない。
 聞きたくない。聞きたくない。
 目の前がぐらりと歪み、足元がおぼつかなくなる。
 そのまま、ルーランの前に膝をついた。

 そんなリィを見ていながら、ルーランの嘲るような愉快そうな声は止まない。

「なんで。あんたの言うことを聞かなかった騏驥が罰を受ける話だ。あんたには気分のいい話だろ」
「そ——」

 呆然とルーランを見つめるリィを、冷たい瞳が見つめ返してくる。
 やがて、ルーランのその双眸がスッと細められた。

「二発目で鞭が折れた、って、どういうことだと思う」

 それは疑問の形をとっているが、疑問ではない。
 答えられないリィに、ルーランはそのまま続けた。

「俺を打ち始めて二発目で折れるほど、ルシーを鞭打ったってことだよ」

 思い出しているのか、彼の表情が険しく歪む。
 自分が打たれたことよりも、その方が痛いと言うように。
 リィの脳裏にも、あの時のことが蘇る。
 絶えなかった罵声と鞭の音、悲鳴。そして……。

 俯きかけたリィの目に、ルーランの腕にも血が滲んでいるのが見える。
 ここも打たれたのだ。
 痛々しさに、リィは顔を顰める。

「ニコロに、治療を……」

 言いながら、そっと手を伸ばしてそこに触れようとした寸前。

「触るな」

 短い、刺すような声がした。
 びくり、と、リィは思わず手を止めてしまう。

 声と同じくらい、否、それ以上に冷えた瞳がリィを見つめていた。

「触るな。二度と、俺に触るな」

 噛み締めた歯の隙間から押し出すような声で、ルーランは言う。

「あんたの言うことなんか聞かなきゃ良かった。騎士の言うことなんか、聞かなきゃ良かったんだ。そうすれば……そうすればルシーはあんなことには……っ……」

 彼は、硬い土を掻き毟るようにそこに爪を立てる。次いで怒りを抑えられないように固めた拳で地を叩く。
 二度、三度、四度。
 血が滲む。

「止めろ!」

 リィは慌ててその腕に取り縋ったが、

「触んな!」

 直後に吹き飛ばされ、リィは地を這った。
 驚きと混乱と——そして痛みに、一瞬何が起こったのか解らなくなる。

 ルーランに振り払われたのだとわかったのは、少ししてからだった。
 彼がリィに対してこんなにも力を露わにしたのは初めてだった。

 土に擦れたあちこちが痛い。
 それでも身を起こし、リィは再びルーランに近づく。
 顔を逸らした彼は、もう視線も寄越さない。
 それでも抑えられないほどの憤りが伝わってくる。

 囚われ、それでも怒りと憎しみを露わにしている彼は、手負の獣のようだ。
 もし彼が野生の獣に襲われたら、と心配するなど、自分はなんと愚かだったのだろう。
 今の彼は獣でさえ逃げ出すだろう。
 そばにいるだけで総毛たつほどの怖さだ。 

 リィはそろそろと口を開いた。

「ゾイエも……王都に戻れば審議対象になる。騏驥に対する過度の……」

「過度!? は! それを決めるのは誰だよ。え? 騏驥じゃない。あんたたちだ。あんたたち騎士が決めることだ。結果なんかわかってるさ。不問、でなきゃ適当に注意されるだけだ。『以後気をつけるように』——。違うか!?」

 激昂したルーランが、リィの言葉をかき消すように言う。
 向けられた瞳は炎のようだ。
 今までどれほど怒ったときでも、これほど感情を剥き出しにしたことはなかったのに。

 リィは「違う」と言ってやりたかった。
 けれど大して違わないだろうということも想像がつくから、口にできない。
 リィの沈黙に、ルーランはますます顔を歪める。

「仮に罰されるとしたって、どうせ何日間か騎乗停止になるだけだろ。しばらくしたら、また俺たちの背中の上で好き勝手やりだすんだ」

「…………」

「それだけだ。たったそれだけ! ルシーは……ルシーはもう――」

 最後の言葉は口にしないまま、ルーランは再び土に爪を立てる。
 まるで自分の胸を抉っているかのように。

「駄目なんだろ、もう、ルシーは…………」

 また目を逸らして、呟くようにルーランが言った。
 あてなく中空を見つめる彼の貌は、見ているだけで辛くなるほどだ。

「可愛そうに……。いろんな奴らにずうっと従順に尽くして尽くして尽くして……挙げ句、受けた仕打ちがアレだ。報われないよな」
 
 親元に帰れるはずだったのに——。
 
 悔しそうに、哀しそうに、彼がギリッと奥歯を噛み締める。
 鈍いその音に、リィは自身の胸も軋む気がして、思わずそこを押さえる。

「ああ——」と、深い嘆きと後悔の声がした。

「なんで俺は……っ……。あんたの言うことなんかきかずに、すぐにルシーのところに行ってれば……!」
「…………」
「そうすれば助けられたのに! あんな目に遭わせずに済んだのに!」

 繰り返されるその声は、その言葉は、まるで血を吐いているかのようだ。
 きっと何度も何度も何度も何度も彼はそうして苦しんだのだろう。
 そしてルーランは血走った目で吼えるように言った。

「あんなクソ野郎、ルシーの言うことなんか聞かずに、踏み潰してやればよかった!」

「ルーランそれは……!」

「なんだよ!? まだあんなヤツを庇うのかよ!?」

「ちが——」

 興奮するルーランに、リィが言い返しかけたときだった。

「そうだったな。あんたもあいつと同じだ」

 冷笑を浮かべながら、彼が言った。

「同じ『騎士』だ。そりゃ庇うよな」
「違う! わたしは——」
「同じだろ」
「ル……」
「同じだ!」

 叫ぶ声は、どんな鋭い棘よりも深く、リィの胸を刺す。
 言い返せないリィに、ルーランは可笑しそうに「ふん」と一つ鼻を鳴らした。 

「魔術師の傀儡のくせによ」

「——!」

「そうだろ? 騎士がなんだっていうんだ? 鞭と手綱がなきゃ、なにもできやしないくせに」

「そ……」

 思わず気色ばんだリィに、ルーランは嗤いながら肩を竦めて見せる。

「ムカつくんなら、あんたもあいつみたいに打てばいい。鞭、持ってるんだろ? 俺は抵抗出来ない。絶好の機会だ。気が済むまで、好きなだけ打てばいい」

 しかも、あなたはとりわけ鞭の使い方がお上手だ。——殿下。

 ことさら嘲るように付け足された言葉や声音は、明らかにこちらを挑発するものだ。
 歪められた頬も、口の端も。
 ただ視線だけが、恐いほどの密度でリィを責め、追いつめる。

 仮に今、彼を打ったところでなんの問題もない。
 どんな姿であってもルーランは騏驥、リィは騎士で、騏驥による不要な挑発行為を罰することは騎士にとっては「騏驥の躾」という側面さえあるのだから。
 
 だが——。

 打てるわけがない。

 リィはいつしか固く握りしめていた右手を、左手で更に強く握る。
 腰に帯びている鞭が、いつもよりずっとずっと重たく感じる。
 見つめられていることに耐えられず、逃げるように視線を逸らすと、

「意気地なしだな」

 ルーランが嗤った。

「騎士だなんだと普段は粋がってても、その程度かよ」

 ク、と喉奥で嗤い、肩を揺する気配に、リィは唇を噛んでルーランを見つめた。
 言い返したい想いは溢れるほどあるのに、どう言葉にすればいいのかわからない。


 騎士と騏驥。従わせるものと従うもの。


 リィはルーランを見つめたまま、言葉を探す。けれどやはりなにを言えばいいのかわからない。
 そうしていると、ルーランの瞳もまた、もの言いたげに揺れる。
 そこに本当に在るものは、ただただ深い哀しみだ。
 
 リィはルーランを見つめたまま、長く息をついた。
 
 今ここで、全てのことに決着をつけるのは無理だ。
 きっと、お互いに。

 そう判断すると、リィは自分を落ち着かせるように、再び静かに息をつく。
 変わらず自分を見つめ返してくるルーランに向けて、ゆっくりと言った。

「お前の処遇がどうなるかも、王都に戻ってからの審議になるだろう。わたしは騎乗していた騎士として……なるべく……お前の処分が軽くなるよう尽力する」

 それしか償う方法がない、と改めて思いながら告げたリィに、ルーランは微かに口の端を上げる。

「ご勝手に」

 泣き顔にも似たその淡い笑みは、まだ癒えない悲痛さの名残に違いなく、だからどんな挑発より罵倒より、リィの胸を刺して止まなかった。
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