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35 撤退
しおりを挟む「下がれ! 下がって隊列を整えろ!」
「迎え打て! 下がるな! 下がらずに押し返せ!」
「火を消せ! 火だ! 先に火を消してしまえ! これ以上の延焼を避けよ!」
「進め! 進め! 早く前に追いつくのだ! ここで遅れるな! 進め!」
「騎兵を! 後方の騎兵の到着はまだか!」
好き勝手な叫び声が錯綜する中、騎手を無くした馬たちが、いまだあちらこちらで燃え続ける火や、激しく剣がぶつかる音に興奮し、周囲の兵士たちを弾き飛ばしながら暴れ回る。
少し前までの退屈でのろのろとした行軍は一変し、今や辺り一帯は敵味方入り乱れた大乱戦になっている。
いや——戦況はもっと悪い。乱戦ですらなく、一方的にやられている。
敵の人馬は次々と、土埃を巻き上げながら突っ込んでくる。
戦闘を予期していなかったためか、成望国側はろくな応戦も出来ないまま、無惨に攻められ押され続けているままだ。
敵がどれほどの数なのか、味方がどうなっているのかもきちんと把握できていないだろう。だから指示が錯綜するのだ。
「戦える者は付いてこい! ここでできる限り敵を迎え撃つ!」
リィは自らの判断でルーランを前線に押し出した。
この混戦状態では騏驥も充分に力を発揮できないだろうことは予測できたが、それでも騏驥だ。
加われば大きな戦力になるのはわかっているし、何より士気が上がる。
リィはルーランを駆り、目の前の敵を叩き、蹴散らしていく。だがやはり、それが形勢を押し戻すまでには至らない。
とはいえ、ここでルーランやリィと共に戦っている騎兵たちが引けば戦力は完全に分断される。
持ち堪えるしかなかった。
リィはルーランの鞍上で剣を振いながら、惨憺たる周囲の様子に唇を噛む。
指揮官からの指示は、未だ届いていない。
一時撤退なら撤退で早々に決めてくれれば、皆それに即して動けるのに、どうすればいいのかわからないままだから、ただただ無為に時間が過ぎ、人馬の命が失われていく。
<おい! そろそろなんとかならないのか!? いつまでこんな、チマチマと面倒なことをしてなきゃならないんだよ!>
激しい戦火のただ中に突っ込んでは応戦し、味方の兵や騎馬を護ることを繰り返しているルーランが、とうとう堪らなくなったように叫ぶ。
こんな行き当たりばったりな応戦では、ただ消耗していくだけだと彼にもわかっているのだろう。
ルーラン自身はまだまだ余力があるとはいえ、敵は「それなら」とばかりに騏驥のいない箇所を重点的に狙い始めていて、状況は悪くなる一方だ。
見たところ、応戦している騏驥は似たような様子で、あちこちで暴れていてもそれは局地的な活躍にとどまっている。
しかし、今はそうして戦うしかない。
リィは焦ったく感じながらも、敵を見つけてはルーランを促し、そこに突っ込んで行く。
<……っ! リィ……!>
「わかっている!」
ルーランの言いたいことはわかっている。
わかってるが、どうしようもないのだ。
現状がもどかしくて堪らない。
騏驥に騎乗している騎士は、当然のことながらその視線も誰より高くなる。
現在の戦況をもっとも俯瞰的に——的確に見ることが出来ているのはおそらく騎士で、だからこそ自分と騏驥が「正しく」使われていないのが歯がゆくて堪らない。
的確な命令さえあれば、引くにせよ、進むにせよ、もっと違った、より効果的な戦い方が出来るのに。
ルーランの鬱憤も、手綱を通して伝わってくる。
(くそ……)
なんとかならないものなのか……とリィが顔を歪めたとき。
オオオォ……ッ————!
と、再びどこからか鬨の声が轟いた。
間を置かず、馬群が近づいてくる地鳴りのような音が続く。
——敵だ。
こっちが劣勢と見てますます勢い込んで攻め込んでくる更なる敵たちだ。
怒濤の勢いで雪崩れ込んでくる敵の兵馬たち。
ルーランが抑えきれない闘争心も顕に全身をぶるりと振るわせる。
直前までその凶器の蹄で敵を蹴り上げ蹴散らし弾き飛ばして暴れ狂っていたにも関わらず、それさえまだ前哨戦だったとでも言うように。
まだまだ余力があるのだと示すように。
リィは思わず手綱をぎゅっと握り込む。その時。
「リィ殿!」
声がしたかと思うと、一騎の騎馬が混乱の隙間を縫うようにして駆けてくる。
土と埃に塗れているが、そこに見えたのは陽黄色の鞍飾り。今回の遠征の総指揮を執るタン連隊長付きの伝令の騎兵だ。
彼は傍らに寄せると、口早に言った。
「連隊長より命令です。全兵の退却に伴い、騎士の方々は騎兵中隊とともに敵の侵攻を食い止めるよう、と。ここへは第五、第六中隊が加勢に参ります」
「退却……」
リィの呟きに、伝令の騎兵は深く頷く。
「先の野営地まで一時撤退との決定です。既に後方の兵馬は退き始めております。先行していた隊も反転を開始しており、なんとかこれ以上の敵の侵攻を封じ、この場の退路を確保するようにとのご命令です」
「…………承知した」
リィが応えると、伝令は「お願い致します」と慌ただしく駆け去っていく。
きっと他の騎士たちにも同じことを伝えるのだろう。
あの口ぶりでは、この辺りが最も交戦状況が激しいようだ。
流石にそんな場所を、騎兵たちと共に、とはいえ、一騎の驥騏だけでなんとかするのは無理がある。
単に敵を全滅させるだけなら、ルーランには不可能ではないだろう。
だが、退却のための退路の確保となればまた話は別だ。ただ戦えばいいというわけじゃない。
いまだあちこちに火が見え、土煙の噎せるような香りが漂い、血の湿り気にべったりと空気の重いなか、負傷した人馬、そしてもう動かない人馬を視界の端にしながら、リィはきつく唇を噛む。
命令された以上はそれに従う。こんな形で進軍を中断せざるを得なくなったことは初めてだが、不慣れな土地で闇雲に応戦を続けて損害が大きくなるよりはましだと判断したのならば従うまでだ。
だがもう少し——あと少し判断が早ければ被害ももっと少なかったに違いないのに。
数秒後、リィは気持ちを切り替えるようにふっと息を吐くと、
「聞いたな」
自らの驥騏に向けて言った。
ほとんど息つく間もない戦いの連続だったはずなのに、ルーランの呼吸はもう落ち着いている。
回復が早い。
いや、早い、などというものじゃない。驚異的だ。
息の戻りの速さ——呼吸の安定は名馬の証の一つだ。
馬の姿のとき、騏驥は普通の馬同様に鼻でしか呼吸をしない。
だから激しく動けば動くほど心臓と肺には相当な負担が掛かる。そのため、息の戻りが早いというのは心肺機能の能力の高さの証明なのだ。
普通の馬に比べれば、どの騏驥も回復が早いが、ルーランはずば抜けている。
そもそも「息が上がる」こと自体が滅多にないし、乱れてもすぐに戻る。
だからずっとずっと——いつまででも駆けていられるような気がしてしまうのだ。この騏驥とならば。
(しかも……)
それだけでも目を瞠る特長なのに、その上、彼はあれだけ激しく戦ったというのに傷らしい傷を負っていない。
緑がかって見える馬体が、今はじわりと鈍緋色に染まっているけれど、それは返り血のせいだ。
リィの指示と手綱に促され、鞭に駆り立てられ、敵をなぎ払い暴れた証。
それ以外は目立つ汚れすら一つもない。
リィも同様だ。
向けられる刃も、突き出される槍も、飛んでくる矢も、すべてすべて、ルーランがかわした。
軽やかに。飛ぶように。悦び踊るように。
リィは感嘆と驚愕を胸の中に押し隠しながら、静かに身じろいだ。
手綱から、鞍下から、触れている箇所から伝わってくる脈動。生気。
今は激しい戦いの最中で、周りでは仲間が死んでいるというのに、この騏驥に跨っていると、言葉にできない高揚感が身体の奥から突き上げてくる。
素晴らしい騏驥だ。何にも代え難い、希有な、特別な——。
<聞いた>
と、その特別な騏驥はリィの声に反応して言葉を返してきた。
<要するに、引き続き暴れてろってことだろう? 引き続き——一層——敵を殺してしまえ——って>
「退路の確保、だ」
露骨なものの言い方に、リィが窘めるように言うと、ルーランはクッと笑った。
<綺麗な言い方をしてもやることは同じだろ。まあ、あんたは俺の上で高みの見物してればいい。汚れ仕事はこっちに任せて、せいぜい、しっかり手綱握って、落ちないようにしてればいい。万が一戦ってる最中に落っこちたら、間違って敵と一緒に蹴り飛ばしそうだしな>
汚れ仕事の手綱をとっているのはこっちだと知りながら、ルーランは笑いながらそんなことを言う。リィは微かに眉を寄せた。
<戯れ言はいい。仕事をしろ。敵数は増えた。が、味方はどれほど揃うか……。気を抜くなよ>
騎兵の中隊が加勢に来るとは言っていたが、とはいえ実際はどれだけの数が稼働できるのかはわからない。第五、第六中隊と言えばそれなりに精鋭揃いだったと思うが、敵はこちらが崩れたと見て更に兵を出したのだ。
勢いを増しているし、もしかしたらまだ伏兵がいるのかもしれない。
今は止んでいる湖側からの攻撃だが、こちらも警戒をおろそかには出来ないだろう。
高みの見物などとんでもない。
他の騏驥たちだって、撤退に付き添い護衛をする必要もあるだろうから、何頭がここに援護にこられるのか……。
もっとも、ルーランだってそれはわかっていての言葉だ。
彼が言いたかったのはおそらく後ろ半分。
剣を振るうのも弓を使うのもいいが、落ちるなよ——俺の邪魔はするなよ、ということだけだ。
ルーランに騎乗している限り、戦場で命に関わるほどの攻撃に晒される可能性は限りなく低い。
が、その一方で、落馬の危険性は極めて高くなる。
この騏驥の、良すぎる運動神経のせいだ。
そして性格のせい。
攻撃回避と攻撃行動の両方とで彼は絶えず暴れている上、その動きが他の驥騏に比べて特殊なため、気を抜くと騎乗者はバランスを崩してしまうのだ。
普通の騏驥はしない動きを——できない動きを——そんな風に動けるはずがない、という動きをするから。
しかも、その動きの半分は本能。そして半分は「騎乗者を落馬させてやろう」という魂胆が見えてのことだから始末が悪い。
リィは再び身じろいだ。
緊張が高まる。
今日のルーランは、出立時から馬の姿だった。戦闘用に馬装した状態だ。装鞍も問題ない。
だからいつもに比べればはるかに騎乗が楽なはず——。
リィは何度も胸の中で繰り返す。
だからなにも心配はない。不安はない——。
普通の騏驥に乗っているなら、こんな風に気を張る必要はない。
けれどこの騏驥は別だ。
御せなければ、この兵器は乗り手にとっての凶器になる。
リィは戦いに備え、鞭と剣の感触を確かめる。
それを気配で察したのだろう。
<怖い怖い>
笑い声混じりのルーランの声がした。
<間違って、俺の腹を刺したりしないでくれよ? さすがに悲鳴を上げそうだ>
「口の中にねじ込まれたくなかったら黙っていろ。わたしはそんな失敗はしない」
<それは失礼>
「落馬することもない。安心して思う存分仕事をしろ」
<お墨付きを頂いたんならこっちも好きにやれるわけだ>
剣呑さをたっぷりと含んだ声と共に、鞍下から伝わってくる生気の昂ぶりが、一気に増す。
騏驥。
獣の身体能力と人の知性と残酷さを持つ、稀なる兵器——。
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