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32 未来と約束
しおりを挟むすると、そのGDがふと遠くに目を向けつつ、軽く顔を寄せるようにしてリィに尋ねてきた。
「ところで、あそこにいる騏驥は? ルーランと話している……見たことがない騏驥だ」
「あ……彼女は……」
リィも仕方なくそちらへ目を向けると、ルシーのことを説明する。
彼女を見ていると、こちらの話は聞こえているのだろうとわかる。
横顔か次第に緊張していくからだ。
それでいて、聞いていない風でルーランと話している様子は——騏驥として礼儀に則っている様子は、なるほど、リードホースというまだ慣れていない騏驥たちを導く仕事に従事していただけのことはあるな、と唸らされる。
小柄なためか戦闘にはあまり向かなさそうだし、それゆえ騎士から軽んじられることもありそうだが、基本的には立居振る舞いのしっかりとした、芯の強い者なのだろう。
そんな騏驥だから、きっとルーランも懐いたのだ。
とはいえそこまで詳しく話すことはせず、リィはごく簡単にルシーのことを説明する。
GDは、ルシーに興味を持ったようだった。
「リードホース、か。聞いたことあるが見るのは初めてだな」
「そうですね。私も初めてでした」
「…………」
リィの言葉に続くGDの反応は沈黙だ。
だがその沈黙は、そしてルシーを見る視線は明快な意味を持つ。
次の瞬間、控えめな足音がしたかと思うと、ルシーが近づいてくる。
やや目を伏せ視線を合わせないようにしながらも丁寧な足取りでGDの前へやってくると、片足を引き、もう一方の膝を軽く曲げて背筋を伸ばしたまま頭を下げる。
綺麗な礼だ。
GDも満足しているのだろう。微笑むと、「ルシー」と彼女を呼んだ。
「話していたところを呼びつけてすまない。わたしはガリディイン。リィと同じ騎士だ」
「御高名はかねがね。お目にかかれて光栄です」
「リィから少し話を聞いたのだが、リードホースをしていたとか」
「はい」
「今回の遠征への参加はどうして?」
「今は東の厩舎のほうにおりますので、そこから遠征に参加しているものの付き添いという形です」
「なるほど、東にいるのか。だから見たことがなかったのだな」
肯きながらGDが言う。
所属している現役の騏驥全ての名前と特徴と傷病歴を覚えている、という噂の医師のニコロほどではないにしても、GDもまた非常に騏驥に詳しい。
調教で乗ったことのある騏驥はもちろんだが、遠征時に見ただけの騏驥でも見た目の特徴はもちろん、歩き方の癖や走り方などをよく覚えている。
騏驥が好きだから——と言うよりも、彼の場合はおそらく「良い騏驥」に対して貪欲なのだろう、とリィは想像している。
完璧とも言えるレイ=ジンを従えながら、それでも彼は常に「より優れた騏驥」を求めている——そんな気がするのだ。
それはルーランに対しての態度からも感じられることで、彼はなんだかとてもルーランを意識している。
こう言うと言い過ぎかもしれないが、特別扱いしているようにも思えるのだ。
乗ることを希望していながら、周囲の配慮によって乗れなかった過去が尾を引いているのかもしれない。
礼儀として、また彼自身のプライドの高さから、今はリィの騏驥であるルーランに乗りたい素振りを見せることは微塵もないけれど、それでもそれとなく意識していることがなんとなく感じられる。
今回ルシーに興味を持ったのも、自分が知らなかった騏驥だったからだろうし、さらにはルーランに関わりのある騏驥だったからだろう。
——おそらく。
リィはそんな風に考えていた。
そしてそんなGDの気持ちは、リィにとって嫌なものではなかった。
むしろそこまで騏驥に対して、ひいては自らが騎士であることに対して、常に「もっと」を求めている彼を尊敬さえしている。
家柄と才能に恵まれていても、それに甘んじず、より高みを目指している彼の姿勢は同じ騎士としても学ぶことが多い、と感じていた。
するとGDは、ルシーに向け、「顔を上げて」と続ける。
ルシーの肩がピクリと動く。緊張が増したのが伝わってくる。
常にレイ=ジンを伴っているGDだから、調教時以外でこうもはっきりと他の騏驥と対面することはあまりない。
それを、ルシーもわかっているからだろう。
基本的には西の厩舎に所属する騏驥の調教をつけるGDだが、頼まれれば、または彼自身が興味を持った騏驥がいれば、東にも乗りに行く。
だから彼の噂やその人気は、ルシーもよく知っているはずだ。
緊張しながら、彼女が顔を上げる。
その途端、
「ルシーもやっぱりGDみたいなのがいいわけか」
大袈裟にガッカリしたような声を上げながら、ルーランがやってくる。
その後ろから、レイ=ジンが戻ってきた。同じ騏驥なのに、別の生き物のように歩き方が違う。
どちらがだらしなく、どちらが流れるようになのかは、言うまでもない。
ニコロとの話が終わったらしいレイ=ジンは、GDと目で会話するかのように視線をかわすと、すぐにまた彼の傍に控える。
立っているだけでも何かしら喧しく、「ここにいます」と自己主張しているかのようなルーランと違い、彼は静かに佇んでいる。
もっとも、そうしていても、その美麗さは隠せないのだけれど。
ルーランの言葉に、ルシーは真っ赤になる。
本当ならすぐにでも嗜めたいのだろうが、GDの前にいる以上彼を優先しなければならないから、叱るに叱れないのだろう。
そしてルーランもそれをわかっていて揶揄ったに違いない。
面白そうにくすくす笑っている。
そういう、親しい仲なのだ。
悪ふざけをするような、そんな間柄なのだ。
それを感じると、リィは、またなんだか胸が苦しくなるのを覚えた。
以前も感じたことのある苦しさだ。カドランド師の部屋で感じたあの苦しさに似ている気がする。
ルーランがスゥファを気にした時の……。
だがそんなリィの苦しさに関係なく、周囲の会話は和やかに流れ続ける。
ルーランの言葉を受けて、GDが微笑んだ。
「では今度、機会があればわたしが調教に乗っても……?」
「!?」
ルシーが驚いたように息を呑んで目を丸くする。
それに対し、ルーランは心底嫌そうな顔だ。何か言いたそうにチラリとGDに目を向ける。
そんなルーランを、本当は止めなければならないことは分かっている。
けれどリィは口を開きたくなかった。
今口を開くと、何かもっと別の——とても嫌なことを零してしまいそうで。
すると、再び頭を下げながら、ルシーが言った。
「もったいないお言葉です。ですが、その……実は私は、この遠征が終われば王都を離れることになっておりまして……」
「え!?」
声を上げたのはルーランだ。
彼はルシーの顔を覗き込むようにして屈むと、「なんだよそれ」と残念そうに惜しむように言う。
GDとルシーの会話に割って入った——どころではない。
だがGDはそれよりもルシーの言葉の方が気になったらしい。
それともルーランのやることだから、と気にしていないのだろうか。
「王都を離れるとは。また育成施設に?」
話に割り込まれたことなどなかったかのように、ルシーに尋ねる。
と、彼女はそろそろ顔を上げ、少し照れたように微笑み、そして言った。
「実家に、戻れることになったのです。両親がとても——とても力を尽くしてくれて……」
噛み締めるようなその声に、全員が息を呑む。
一瞬。本当に静まり返ったその場の空気を破ったのは、やはりルーランだった。
「え……え……戻るって……」
驚きのまま言うルーランに、ルシーははにかむように笑った。
「戻れることになったの。両親が色々と……手配してくれて……」
「…………」
「まあ、実家って言っても元の家に帰れるわけじゃないんだけどね。つまり、ほら……いろいろあるから。でもまた両親と一緒に暮らせそうなの。この身体だから、いつまで一緒にいられるかはわからないけど……」
しみじみと、ルシーは言う。
その表情は幸せそうで、ルーランの表情も驚きから次第に笑みに変わっていく。
リィとGDは思わず顔を見合わせていた。
驚きだ。GDもそういう顔をしている。
リードホースをしていた騏驥に会ったのも初めてなら、両親の元に戻れるという騏驥に会うのも初めてだ。
厩舎に入厩してからというもの自由に出歩けるわけでもない騏驥は、それゆえに、大半が戦場で死ぬか、怪我や病気や加齢で使えなくなり「処分」されるかで一生を終える。
ごく稀に騎士学校の練習用の騏驥に転身したり、王城の式典用の騏驥になって余生を過ごすものもいるが、それは本当に「運良く」というケースだ。
戦場に出る騏驥としては見劣るようになったとしても、特別に扱いやすいとか見栄えがするとか——そういった騏驥側の条件と、受け入れ先に「『空き』ができたとき」という条件の両方が揃って初めて実現する。
例外として、繁殖用に残される騏驥もいるが、それは殆どが始祖の血を持つ騏驥だ。
そうでないものは、あらゆる面でよほど傑出した存在でなければ、子を残せず死んでいく。
そんな運命なのだ。
家族から「引き取りたい」という申し出があれば一応検討はされるようだが、そもそもそんな申し出は殆どない。
騏驥はこの国の誇る最強の兵器——。
けれどその最強の兵器は、言ってみれば異形なのだ。
馬とも人ともつかない異形。
一度手放したそれを、再び手元に置こうとする親はまずいない。
しかも長く生きているということは、それだけ大勢の人を殺して生き延びてきたということに他ならない。
より厄介度が増しているというわけだ。
だからほとんどの親や家族は、彼や彼女を、手放したとき——厄介払いしたとき——が、今生の別れのときだと思っている。
ルシーの両親のように、娘をもう一度手元に、と思う親はごく稀だ。
しかも、そうして申し出たからと言って、必ず許可されるものでもない。
どこでどう暮らすつもりなのか、逃亡させないための策は講じているのか、もし両親が先に死んだ場合の対処は……。
そんな細かなことをいちいち調べられては確認され、全て問題ないと判断されて、ようやっと親元に帰れるのだ。
優しい家族と、条件を整えるために使える多くの時間とお金。それらに恵まれて、やっと。
(そうか……)
喜んでいるルシーの姿に、リィも目が潤みそうになる。
そうか——よかった。
親元に戻れるなら何よりだ。そんな幸せな余生を送れる騏驥がいたことに、心からほっとする。
「よかった……よかったな……」
ルーランも、いつになく感激しているようだ。
震える声で何度も「よかった」と繰り返す。
「すごいな……よかったな、ルシー!」
さらに声を上げると、ルーランはルシーをぎゅっと抱きしめた。
「……よかったな……」
ルシーは慌てた様子だったが、苦笑しつつもされるままになっている。
リィも口を挟む気はしなかったし、GDもそうだろう。
見守っていると、やがて、ルーランは惜しむように腕を解く。
されるままになっていたルシーが、目を細めて微笑む。
「——よかったね」
リィが言うと、GDも笑顔で深く頷く。
それに続いて、「よかったです」とレイ=ジンの控えめな声がした。
普段の彼は、「わたしの優しさはGDに対してのみ発揮されます」と言わんばかりの態度だが、垣間見えるその表情も、心なしか穏やかだ。
騒いだために、話が聞こえたのだろう。
ニコロまでが近づいてきて「よかったねえ」と笑顔だ。
ルーランが、両手で、ルシーの両手を取った。
「おめでとう、ルシー。居場所がはっきり決まって、落ち着いたら連絡くれよ。機会があったら会いに行くからさ」
「……ええ。よかったわ、最後の遠征であなたに逢えて」
許可がなければ出歩くこともできない騏驥が「会いに行く」ことなどできるのかどうか。
そんなことは、ルーランにもわかっているだろう。
それでもそう言わずにいられなかったルーランと、それに応えるルシー。
そんな二人を見ていると、リィはさっきまでの胸の苦しさも消えていくような気がした。
二人が醸し出す幸せな気持ちに溶けてしまったかのようだ。
騏驥であることを忘れたかのように、普通の人たちのように、そうして約束する二人を見ながら、リィは騏驥という存在について改めて想うとともに、胸が熱くなるのを感じていた。
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