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28 どうして彼は なぜ私は

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 だが——しかし。

 リィは危うくルーランのその瞳に見惚れそうになりながら、慌てて考えを引き戻す。
 ルーランは「もういい」のかもしれないが、やはりこちらはそうはいかない。
 
 しかしそんな風に気持ちは収まらない一方で、確かにこれ以上やりあってもいいことはないとも理解している。
 リィがどう言おうが男は自分の正当性を主張し続けるだろうし、そんな泥仕合をこんな大勢の兵士たちの前で行いたくはない。

 どうしたものか、とリィが考えを巡らせていると、

「あの」

 また、小さな声がした。
 さっきの女性の騏驥だ。彼女は恐る恐る、といった様子でリィたちの方に近づいてくると、「怪我が……」と痛ましそうにルーランの肩を見ながら言う。
 次いで、意味ありげにそっとリィを見た。

「!」

 次の瞬間。
 リィは怪我をしていない方のルーランの腕を取ると、「行くぞ」と引っ張った。

「ほら——来い。医師に診てもらう。きみも付いてきて」

 そして女性の騏驥にもそう告げると、男を振り返り、睨むようにして言った。

「まずは私の騏驥が負った怪我を医師に診てもらいます。貴殿の言い分はともかく、彼の今後に影響が生じるようであれば、覚悟していただきたい」
「!」

 脅しをたっぷりと込めたリィの言葉に、男が顔を青くする。
 騎士が騏驥を鞭打つにしても、当然限度がある。
 自分が連れていない騏驥なら尚更だ。
 即座に処罰しなければならない緊急の状況だったならともかく、他の騎士の騏驥を、しかも人の姿の騏驥を、極々個人的な私怨で後を引くほど傷つけたとなれば、男も何かしら処罰を受けるのは必至だ。
 裁決の場で「私は何も悪くない」で通せはしない。

(まあ——とはいえ)

 幸にして後々まで影響するような怪我ではないだろう、リィは確信している。
 確かにリィを庇ったために負わなくていい怪我を負うことになってしまったし、詳しいことは検査してからだが、ルーランが言うように致命的なそれではなさそうだ。
 だからといって、人の騏驥を鞭打ったあの男を許す気はないけれど。

「行くぞ」
 
 リィはルーランの腕を引くと、人の輪を割るようにしてその場を離れた。
 そのまま、医師の天幕の方へ向かう。
 あの女性の騏驥もちゃんとついてきているようだ。

(よかった……)

 どさくさに紛れて連れ出せてほっとする。
 あの場に一人にしていたら、きっとまたあの男の鬱憤ばらしのために絡まれていたに違いない。

 にしても、この女性の騏驥は大人しそうに見えて賢い騏驥だ。
 これほどの遠征に連れられて来る騏驥なのだから、見た感じはどうあれ良質の騏驥なのだろう。
 
 しかし気づけば、周囲からの視線が痛い。
 リィは恥ずかしさに耳が熱くなるのを感じながら、歩を早める。
 揉め事が生じているなら仲裁しなければと思ってやってきたのに、気づけばすっかり当事者になってしまっている。
 こんなはずではなかったのに。

(まったく……この騏驥が絡むといつもどうしてこう……)

 リィは眉を寄せる。
 直後、はっと気づいた。

 ——そういえば!

「お前、そもそもどうしてこんなところを一人でフラフラしていたんだ!?」

 足を止め、思わず尋ねる。
 そうだ。
 ルーランがこの女性の騏驥を庇ったことが騒動の発端だったとして、そもそもどうしてこの騏驥は「そんなところ」にいたのか。
 厩舎となっている騏驥用の天幕にいればこんなことにならなかっただろうに。

 と、訊かれたルーランは一瞬不思議そうな顔を見せ、次いでじっとリィを見つめてくる。
 目を見て、頭の天辺から、爪先へ。そこからまた頭へ。
 そして再び目が合うと、彼は「いやあ……」と苦笑した。

「ちょっと辺りの様子なんか見ておいたほうがいいかなと思ってさ」
「…………」
「初めてのところだし、人も馬も騏驥も多いし」
「そ、そういうことはわたしがする。いつもそうだろう。なんで今回は……」
「気になったことがあったから?」

 ルーランの言葉に、リィはつい前のめりになる。

「『気に?』 なんだ? いつもと違う感じがするものがあるのか?」

 騎士の自分では気づかない、騏驥だけが感じるものがあるのだろうか。
 だとしたら確認しておきたい。地図にもちゃんと書いておかなければ。
 気になって、リィは矢継ぎ早に尋ねる。
 しかしルーランはそんなリィを見つめてゆっくり首を振った。

「ないよ。——なかった。大丈夫そうだ」

 そして微かに笑むと、ルーランの腕を掴んでいたリィの手を取り、キュッと握る。
 全く痛みはなく、けれど力強さを感じる、そんな心地良さで。
 安らぎや安堵。勇気とつよさ。そして誇り。
 リィがいつも求めているそれらを、けれど時に見失いかけるそれらを、全て”ここ”に繋ぎ止めておくかのような強さで。

 リィは、掴まれている手を振り解くことも忘れて思う。

 さっきもそうだった。
 さっき手に触れて来た時も。
 怒りに震える拳に、それを宥めるように触れてきた時もそうだった。
 
 どうして騏驥は、こんなにも心地良く触れてくるのだろう。

 欲しい時に欲しいものを与えてくれるかのように。
 
 ——違う。

 自分が求めていると気付かなかったものまで与えてくれるかのように。

 騏驥の全てがそうなのだろうか。

 それとも、この騏驥ルーランだけが?

 どんな騏驥よりも軽やかに力強く地を蹴り駆ける彼だからなのだろうか。

 乗っていて気持ちがいいと感じるのと同じぐらい、彼に触れられるのは心地いい気がする……。

(何故?)

 そしてまた、「何故」。
 何故、と考えた端から、別の「何故」が沸き起こる。

 必要なく騎士に触れるのは非礼だ。
 だから騏驥がそうしたときには、騎士は適切に叱るべきなのだ。
 そう教わった。それを守ってきた。

 なのに何故。

 何故今、自分はそれをせず、こんなことを考えているのだろう?

 考える必要なく叱るべきなのに。

 リィはルーランを見つめる。
 答えを彼に求めるように見つめる。
 見つめているうちに、胸が苦しくなる。
 その答えさえ求めるように見つめていると、彼は黙ってリィを見つめ返し、微かに笑みを見せる。
 それは、普段の彼からは想像もできない淡いような笑みだ。
 戸惑うリィを見つめたまま、やがて、ルーランはそっと手を離す。
 まだルーランを見つめるリィに、彼は口の端を上げて見せる。
 それは、いつもの彼が見せる笑みだ。
 人を食ったような、一癖も二癖もあるような、掴みどころのない——。
 
 そして彼は揶揄うような口調で言った。

「ほら——立ち止まってないで早くニコロに診てもらわないと」

 彼は笑ったまま言うと、「行こう行こう」と先に立って歩き始める。
 
 ニコロに怒られるだろうな、と独りごちて苦笑するルーランの傍、リィは彼に握られた手をそっと撫でる。
 そこに残る彼の感触が、温もりが次第に失われていくことが、どうしてか堪らなく切なかった。
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