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18 あちこち迷路
しおりを挟む(何が『舐めたら』だ。悪食め。それだから人扱いされないんだ)
馬であっても決して布など食べないだろうとわかっているが、今はそんな事実よりも、まだ纏わり付く記憶をなんとかしたくて毒づいてみる。
押し込めても押し込めてもふとした弾みで蘇る感触と記憶は、あの後もたびたびリィを混乱させている。
“あんなこと”をされた経験がなかったためだろう。
そう。
普通は他人の肌には触れないものだし、舐めるなどもってのほかなのだ。
なのに。
なのにこの騏驥は。
しかしそれを一度で終わらせなかったのは他でもない、リィ自身だ。
ルーランに挑発されたためだが、あんなところで妙な反抗心を出してしまったのが、よかったのか悪かったのかはよくわからないままだ。
背中に、彼の気配を感じる。
触れた手は大きく温かだった。
確かに怪我はなかったけれど、彼がその手をじっと見つめていたのは、本当に彼が言った通りの理由だからだったのだろうか。
再び尋ねる気はないけれど、納得いくようないかないような——だ。
そんな気配ではなかったような気もするが、彼なら「ありえる」気もする。
(にしても……)
ここはどこだ!?
リィは困惑せずにいられなかった。
後ろからルーランがついてきているのはわかっているから、平然と歩いているフリをしていたが、一歩毎に混乱は深まっていた。
来たことのある師の部屋——そのはずだった。
なのに、部屋は記憶の中のそれよりも更に混沌としている。
最後にここを訪れた時——まだ学生だったけれど——も、随分雑然とした部屋だと思ったが、今日はそれ以上だ。
満ちているのは、古い草木の香りだ。
香だろうか。それとも、あちこちから突き出している大小の古木の香りだろうか? そもそもこの古木は、どこから拾ってきたのだろう。
もしくは本の香りかもしれない。
大きなもの小さなもの、厚いもの薄いもの、古そうなものもっと古そうなもの。
それらが無秩序に積み上がり、至る所に不安定な塔を作っている。
しかも、そんな一つの塔の陰から、時折銀色の細い尾がチラチラと見え隠れしている。
小さな動物のようだったが、あれは本物だろうか。それともさっきの鳥のようなものなのだろうか。
師は魔獣も作れたはずだ。
深く考えることはやめにして、リィは先へ進む。
だが、肝心の師はどこへ?
こんなに広い部屋だっただろうか?
訝しく思うが進めるのだから進むしかない。
(きっと久しぶりだから、広さを忘れてるんだ……)
そうに違いない、と自分に言い聞かせて進んでいくと、何に使うのかわからない布の端切れがいっぱいに入った籠が前を塞ぐ。
溢さないように慎重に迂回すると、その先には大小の壺に、額縁から外れた描きかけの絵画、いくつかの楽器をでたらめにくっつけたように見える代物が次々現れ、またしても行く手を阻まれる。
リィはますます慎重に、壊さないように、ぶつからないようにそろそろと身を捩りながら避けながら進む。
とてもではないが、部屋の中を歩いているとは思えない。
どこからか滑り落ちそうになる紙束を、右手で、次には左手で慌てて拾いながら、まるで森の中を密かに行軍しているかのようだと思ったとき。
その顔に、バサッと何かが落ちかかってきた。
「わっ!」
驚いて払えば、それは枯れた草が何種類も山盛りになった籠だった。
リィは顔を顰めて髪についた草を取ると、転がり落ちてきたらしい籠を棚の上に戻す。
そのとき、棚に並ぶ瓶の中に生き物がいたような気がしたが、リィは見なかったことにした。きっとそう見えただけだ。もしくは、似せて作っただけの物に違いない。
しかしこれだけ物があるのに、塵や埃は全くないのが不思議だ。
片付いていないけれど、汚れてはいないのだ。
どうなっているのだろう、とリイが不思議に思っていると、ルーランも同じように感じたのだろう。
「なんか……面白いな部屋だな。ぐちゃぐちゃでめちゃくちゃだけど綺麗だ」
リィの耳元に顔を寄せ、感心しているような不思議そうな小声で囁く。
ここまでの間、背後からは慌てたような声も、何かにぶつかったような音も、何かを溢したような音もしなかったから、彼は上手く歩いてきたのだろう。
もしかしたら、リィよりも巧みに。
何しろ彼は、走ったり歩いたりは人よりよほど上手い騏驥だ。
近付きすぎだと思うと微かに全身が緊張したが、離れているよりもある意味安心か、と思い直す。
部屋全体に魔術が影響しているのか、この混沌ぶりだ。
もしルーランが迷子になれば、困るのはリィなのだから。
(だが、なんだかこれでは二人きりで部屋を彷徨っているようだ……)
迷路の中に二人きりにされてしまったかのようだ。
彼と——騏驥と——ルーランと二人きり。
(っ……)
それは、またあの夜を思い出させる。
(今は関係ない。関係ない。関係ない)
リィは蘇ってきた記憶を打ち消そうと繰り返す。
しかしそんなリィの狼狽と葛藤をよそに、彼の騏驥はなんとも呑気だ。
「床にも棚にも埃ひとつないんだよな。これも魔術なのか? 掃除する魔術、とか」
「まさか」
リィは首を振る。そんなもの、聞いたことがない。
けれど師ならありえるだろうか?
首を傾げた時。
不意に視界が開け、猫足の大きなテーブルと、その三辺を囲むように置かれた大きなソファが目に飛び込んでくる。燻んだような朱の布張りがなんとも言えず味わい深い、古いソファだ。
磨かれて艶のある木目が美しいテーブルの上には、水時計のようなからくり仕掛けの時計が置かれている。形も大きさも違うものが、なぜか四つも。
そのせいだろうか。部屋の中なのに水の音がする。湧き出すような流れるような、そんな音だ。心地良くて聞き入ってしまいそうになるが、いったいどこから聞こえているのだろう。
ここが、終着点だろうか。
ここで話を、ということだろうか。
だが師の姿はない。
ルーランの手前、落ち着いているところを見せたいのについリィがキョロキョロしていると、
「どうぞおかけになってお待ちください」
心地良いアルトの、朗らかな声がした。
見れば、そこにいたのはさっき扉から顔を出したあの女性だ。
今度はその姿が全て見えた。
すらりと細く、美しい。だが淡い印象を与える笑みは、儚さとともになんだか不安を抱かせる。
綺麗なのだが作り物めいていると言えばいいのだろうか。
見ているうちに男性にも見えてくる容貌のせいかもしれない。
捉え所がなくて、その透明な瞳を見つめていると、なんとなく「何もないところに放り出される」ような気分になるのだ。
彼はどう感じているだろう、と気になって、リィはちらりとルーランを伺う。
だがリィの予想に反し、彼は大して興味のなさそうな様子だ。
目の前の麗人よりも部屋の部屋の方に興味があるようで、あちこち見回している。
少し意外だった。
にしても、この彼女は——もしくは彼は、いったい?
リィが不思議そうな顔をしたからだろう。
目の前の人は——確か師が「スゥファ」と呼んでいた人は、笑みを浮かべたまま「どうぞ」と繰り返す。
仕草でソファに座るように促され、リィは大人しくそれに従う。
何冊もの本や、幾つもの紙束や、何本もの杖や、なんなのかわからない置物を端に寄せてから、であったが。
そして訊ねた。
「その……カドランド師は……」
本当は「あなたは誰ですか」と訊きたかったのだが、さすがに一言目からそれは憚られた。
すると、スゥファは「すぐに参ります」と笑顔で答えた。
そう言われてしまうと「はい……」と答えるしかない。困ったな、と思っていると、
「綺麗だね」
リィの隣に腰を下ろしながら、ルーランが言った。
視線はスゥファに向けられている。
リィはなぜかドキリとした。
勝手に隣に座るな、と叱るより先に、「いきなり何を言い出すんだ」と怒るより先に、胸がツンと痛くなる。
その痛みは、「やはり彼もこの綺麗な人は気になるのだな」と納得するような気持ちと、なんとなくがっかりしたような気分の混じった、もやもやした感情とともにじわじわ強くなる気がする。
するとスゥファは笑みを深めるように目を細め、口の端を上げる。
見つめ合うような二人の様子に、リィの胸の中はますますモヤモヤする。
それは次第にチリチリと焦げるような心地になり、なんだか普通にしていられず、思わずフイと顔を逸らしてしまうと、
「お飲み物をお持ちします」
声を残し、スゥファが踵を返す。
そのとき。
「もう一つ追加だ」
声と共に、師が姿を見せる。
リィは息を呑んだ。
今し方リィたちがやってきた方向。
そこには、なぜか師と並んでルュオインが立っていたのだ。
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