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横田七海2

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 横田七海は、憔悴しきった顔で車から降り立った。


 念願だった結婚(しかも相手は経営者)から約1年半。子宝にも恵まれ、築7年の庭付き一戸建てに暮らし、夫の仕事の手伝いも板についてきた頃、その忌まわしき出来事は訪れた。

 東日本大震災だ。

 夫:慎平が支配人を務める、7階建てのリゾートホテルは揺れによる液状化現象で土台が歪み、3階部分まで津波が浸水した。

 幸か不幸か、仕事中だった慎平と館内併設の保育園に居た1歳の息子:翔平も助かったが、ローンが残る自宅は津波で全壊し流出。

 ボロボロのホテルの屋上で救助を一昼夜待ち、身一つで義実家宅に避難する事となった。


「まさか、こんな事になるなんて…」

 義実家の玄関先。七海は翔平を抱いたまま泣き、慎平は呆然としていた。

 義母:禎子は2人にこう言い放った。

「命は助かったんだから、出来る事をやりなさい」

 その言い草に、七海は呆気に取られた。

(何その突き放した言い方?!深く傷ついている人に言う言葉なの?)


 その他にも驚くべき事はあった。

「…万結、美?!」

 慎平が戸惑う視線の先。廊下の奥に居たのは、慎平の前妻:万結美だった。
 万結美はバツの悪そうな顔をした後、お辞儀をして足早に場を去った。禎子は顔色も変えずに言った。

「あたしの大切な友達よ、うちに避難させてるの。文句言わないで頂戴ね」


 リビングに通されると、義父:享平きょうへいは慎平に尋ねた。

「どうなんだ? 修理出来そうか?」

「…業者自体も被災していて、目途が全くつかない。しかも、津波で流れてきた遺体が館内で見つかってしまった」

 大規模災害とは言え、建物内での遺体発見はホテルの評判に致命的だ。享平は頭を抱えた。

「まずいな…。しかも従業員に死亡者も出たか」


 客の捜索と館内の点検中に到達した津波で、命を落とした従業員2人の家族には、ここへ来る前にそれぞれの自宅に寄り謝罪した。
 ある遺族は泣き崩れ、別の遺族は『なぜ逃げろと指示しなかった!!』と掴みかかり罵倒した。

 何をされても言われても、どうする事も出来なかった。


 結婚してから、七海はホテル経営者の実情を知った。建設までにかかる年数、資金、銀行からの借入金、営業に係る契約、そして長年連れ添った前妻に支払った慰謝料…。

 そこで初めて、自分が『玉の輿婚』をした訳でない事に気づいた。ホテル経営者というのは、入って来る金銭以上に、責任が重いのだ。


 不意に翔平が泣き叫ぶ。

「どうしたの、ジイジとバアバの家だよ?」

 大地震ですっかり情緒不安定になった翔平は、泣きぐずりが止まらない。禎子が声を掛ける。

「あら! 翔ちゃんどうしたの? お腹空いてるのかなぁ? 玩具もあるよ」

 禎子は翔平を抱き上げ、リビングから連れ出した。七海もついて行こうとすると、廊下で禎子は告げた。

「…七海さん、あなた曲りなりでも副支配人でしょ? 支配人や会長と一緒に、今後の相談をして下さい。翔平の事はあたしに任せて戻りなさい」

 七海は顔を強張らせ、禎子の後ろ姿を見つめた。


 慎平と享平の長時間に及ぶ難しい話は、睡眠不足の七海の頭には入ってこない。お手洗いに立った七海は、トイレの前で座り込んだ。

 誰も優しい言葉をかけてくれない悲しみ、理不尽極まりない憤り。不眠不休の心身にとても堪えた。

(…何であたし、あの人と結婚しちゃったんだろう)

 色んな思いの砂嵐の中、浮かんできたのはその想いだった。
 いやいや、自分は望んで慎平と結婚した。その証拠に、慎平は七海の事も翔平も、とても大事にしてくれてるじゃないか。


 ふと人の気配を感じ顔を上げると、そこには万結美が居た。
 万結美はサッと禎子の居る客間の方を見た後、静かに七海の元へ駆け寄った。

「…大丈夫? ちょっと待ってて」

 万結美は小声でそう言うと、禎子の元へ向かったようだ。

「お義母さん、七海さんもですが慎平さんも少し休ませては? 寒いなか外で寝ないでいたでしょうし、お医者さんも開いてませんし、2人とも体調崩したら元も子もありませんから…」

 万結美は禎子に掛け合い、慎平と七海の休養を願い出た。


 36時間ぶりの布団は、他人の家の物だがとても心地が良かった。

「ごめん」

 慎平は横になったまま、呟いた。返事をする気力の無い七海は、視線だけ横にやった。

「…もうどうしたらいいか、分からないんだ」

 こんなに自信を失った慎平を見たのは、初めてだった。



 次に目を覚ますと、万結美の姿は無かった。直接は聞かなかったが、自宅が大丈夫なので帰ったそうだ。
 七海が万結美と会ったのは、その時が最後だった。


 ホテルの被害状況を確認しに行った慎平と享平は、とても厳しい表情で帰ってきた。
 2人は一言も話してくれなかったが、それは当初の見通しが甘かった事を示唆していた。

(廃業、しないよね?修理すれば再開出来るよね?)

 慎平も七海に何も言わないままだった。


 そんな折。

 七海はある避難所へ出向いた。被災し家を失った従業員が身を寄せていたので、救援物資を持って行ったのだ。

「…羽井、さん?」

 声を掛けて来たのは、看護師時代の上司だった。

「良かった、無事だったのね。マークホワイト、あんな事になっちゃったでしょ? 心配してたのよ」

「富田師長も、こちらに避難していたんですか?」

「ううん、避難所の巡回診療」


 災害医療については知識として知っていたが、在職中に直面する事は幸運にも無かった。


「病棟や外来からも何人かあちこちに行ってる。県を越えてこっちに来た人も居るけど、それでも大わらわだよ~」

 臨時の詰め所まで話しつつ向かった七海は、ある人物を見て固まった。

「…将人?」

 そこには、看護学校時代の元恋人の南条将人なんじょうまさとの姿があったのだ。



「今まで、ずっと僻地医療?」

 休憩時間に合わせて、七海が話しかけると、将人は携帯に目を落としつつ頷いた。

「うん。瀬戸内の巡回医療船で」

「…そうなんだ」

「七海はもう、看護師辞めたんだ?」

「うん。結婚した」

 将人はこっちを見て、尋ねた。

「旦那さんは大丈夫か? 家族は?」

「無事だよ。息子も、旦那も」

 将人の表情の起伏の乏しさは、あの頃と変わらない。七海の結婚の事を聞いても、特に反応を示さなかった。

(ちょっとだけ、妬いて欲しかったな)

 七海は切り出した。

「こっち人手足りないよね? 手伝いたい時は、誰に訊けばいい?」



 帰宅した七海は、医療従事のボランティアをしたい旨を、横田家の面々に伝えた。

 禎子は眉根を寄せて尋ねる。

「気持ちはわかるけど、あなたは副支配人なのよ。マークホワイトの復旧再開の方はどうするの?」

 慎平は言った。

「結局、こっちは役場や業者とのやり取り次第だから…。いま、俺達がやれる事は限られてるし、いいと思う」

「ありがとうございます。…私、副支配人としては今一つですが、持っている技術で人助けをして、副支配人の名に恥じないように頑張ってきます」

 礼を言い頭を下げ部屋を後にすると、『これで休業中もマークホワイトを宣伝出来るかもね』などと禎子が言ってるのが聞こえてきた。

(どーぞどーぞ。勝手に言ってて下さい)


 そして、七海には『夫の事業の宣伝をしつつボランティア活動』が出来る大義名分が出来たのだった。


 翌日から、七海は朝の9時から夕方まで、将人らと共に市内の避難所を巡回診療する手伝いをする事になった。

 息子に付き添えない寂しさはあったが、義両親の家にずっと居るよりは数倍マシだった。


「…復職はしないんだ?」

 薬剤の個数確認をしていると、将人は呟いた。

「しないつもりだけど、もし夫が廃業した時は…、どうだろう」

 血圧計のアルコール消毒をしつつ七海が答えると、将人は息をついた。

「そっか。再就職先、今なら斡旋できるぞ」

 将人は淡々としていたが、明るく言った。


 ボランティアに従事している間は、辛い現実から目を背ける事が出来た。逆に、帰宅が苦痛な程だった。
 出来る事なら、帰らずにずっと将人の傍に居たかった。

 将人への信頼と懐かしさは、淡い恋心に変わりつつあったのだ。


 一方、慎平は無口になった。各種手続きや従業員の元へ行く時以外は、家でぼーっとしている回数が増えた。

(ショックなのは分かるけど、息子の世話をするなり実家の家事でもすればいいのに!)

 七海が慎平に腹を立てる回数も増えて行った。


 震災からひと月が経とうとしていた頃、縁あって空き家に仮住まい出来る事になった。
 仮設住宅の建設もようやく始まったばかりだったので、世の中的にもかなり早い避難生活の終わりだった。

 被災前の自宅よりも小さいが、慣れない義実家での同居を終わらせる事が出来て、七海はホッとした。


「話って?」

 避難所からの帰宅前、将人を七海は呼び出した。

「仮住まいが決まったの。義理の両親宅から引っ越すから、息子を見てて貰えなくなる。だから、ここに来れなくなる」

「それは仕方ない。息子小さいんだし、家庭を優先しなきゃ」

「うん。あまり役に立てなくて…」

「とんでもない。いっぱい助けてもらったよ」

 この半月近く、七海はずっとある事を考えていた。『もし、将人と結婚してたらどうなっていただろう』。
 とても口には出せない。

 将人は口を開いた。

「…俺、保健師の資格も取ろうと思ってたんだ」

 その言葉に、七海は目を見開いた。将人は続けた。

「僻地医療って色んなものを求められるだろ? 看護師の他に、保健師の資格も持てば、より役に立つかもしれない。
個人病院の看護師でもいいけど、保健師になって病院以外でも働けたら、結婚後のお金の心配も要らないかもしれない。
…そんな風にも思っていた。昔の話だけれども」

 七海の胸が締め付けられた。

(どういう事?!)

「いつか迎えに行こうと思ってたのかな。我ながらおこがましい」

 将人は苦笑した。少しの間を置いて、言葉を続けた。

「七海と新しい家族が無事で良かったよ。ボランティア活動もいいけど、大事にする時間も持ってくれ」

 七海の目から、大粒の涙が零れた。思わず抱き着くと、将人は優しくポンポンと背中をさすると、身体を離した。
 男女のそれではなく、親が子にするみたいな動作だった。

「こんな世の中だけど、頑張れよ」

 将人は言うと、振り向きもせずに詰め所に戻って行った。


(私は、大事な事を見誤っていたのだろうか?)

 自転車で帰宅する七海の胸中は、そんな想いでいっぱいだった。別れた時、将人は『待ってて欲しい』とは言ってなかった。

 むしろ、こんな非常時に共通の大変な体験をしたからこそ、将人が『昔は結婚を考えるほど好きだった気がする』と錯覚したのではないか。

(…もし、独身のままだったら、元サヤ有り得たのかな)

 考えるだけ不毛だが、現在の『負債を抱え廃業するかもしれないホテル支配人の妻』である現状と比べたら、『僻地医療に従事する看護師の妻』である方が遥かに未来がある。

(結婚、しなければ良かったかもしれない)

 帰宅すると、慎平は腑抜けの様に座って携帯を弄っていた。

 ああ、このおっさんが夫でなければな…。


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