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マザー ※犯罪行為表現あり
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「鳴瀬さん。大西さんて、どんな方ですか?」
仕事中のゆず子に話しかけてきたのは、広報部4年目:中條鈴果。
「大西さん? 入って7年目のお姉さんよ」
大西みちこは、ゆず子と同じ鳥海クリンネスに所属する同僚だ。
年齢は、ゆず子より3個下の65歳。7年前に別の清掃会社から移り、今日に至る。ゆず子が答えると、中條は更に尋ねた。
「ご結婚はされてます?」
「うーん…。してたけど、旦那さん亡くされてて今はおひとりだったかしら。何で?」
大西は、毎週木曜と金曜がこの会社の受け持ちだ。中條は年単位で顔を見ていて知っているし、わざわざゆず子に尋ねる理由も無いのでは。
中條はふむふむ頷くと笑った。
「ああ、鳴瀬さんほど話さない方なので、どんな人だろうと思って」
「成程ね。でもあたし、あまり大西さんの事はよく知らないのよ。話さないから」
「え、仲悪いんですか?」
「ううん。単純にシフト、合わないからね。この仕事そういうの多いのよ」
「へえ…」
大学構内など、規模の大きい場所なら複数人で作業にあたるが、基本は直行直帰で単独作業だ。
会話チャンスも、年に1度の新年会や年に数回のこ複数人作業時や、研修などで顔を合わせた時ぐらい。
(下手すると同僚よりも、出向先の人とお喋りしてる気がするわ。一応、業務中の私語は厳禁だけどね)
中條はそのまま仕事へ戻り、会話もそれ以上発展はしなかった。
そして別日のこと。
「…碓田主任、彼女居るらしいよ」
「やっぱり? な~んだ、狙ってたのに」
女子トイレ。ゆず子がゴミをまとめていると、手洗い場で女性社員2名がメイク直しをしつつ、話しているのが聞こえた。
碓田准大は営業部8年目、社内で1,2位を誇るイケメン社員だ。
彼にときめく女性社員も少なくないのだが、碓田自身は『近い場所で彼女作ると、後々面倒だからここでは恋愛しません』を貫き、社内では職務に徹する若いのに分別のある男性だ。
(碓田くんに彼女ねえ、どのくらい付き合ってるか知らないけど、結婚も視野に入れてるのかしら)
独身イケメンの恋愛事情に興味の沸いたゆず子は、碓田自身と会った時に訊こうかと思っていたのだが。
「…お尋ねしたいんですけど、60代の方が30代の方を好きになるのって、あり得ると思いますか?」
世間話中に、こんな事を言ってきたのは中條だった。
「年の差恋愛ってこと?」
「ええ」
「人によるんじゃない? もしかして、身近にそういう人居るの?」
ゆず子の返答に、中條は一瞬身じろぎして口を開いた。
「大西さんの、『推し』が碓田主任なんですよ」
「あら」
中條は弁解の様に説明を始めた。
「あ、でも別に恋愛感情は無いと思うんですよ。息子を溺愛する母親、って感じなので。でも、それに見せかけた『マジ』ってあり得るのかな? って思って」
中條は碓田に好意を抱いてる。『落とす』ための情報収集と思ったゆず子は、にこやかに答えた。
「あー、確かに碓田くんカッコイイものね。恋愛感情は分からないけど、『推す』ことは充分あり得ると思うよ。おばちゃん達もイケメン好きだもの」
「そうですか」
「もし恋愛感情あるとしたら、中條さんだってわかるでしょ? メイク変わったり、ボディタッチも多くなったりして」
「まあ、確かに」
中條は表情を緩ませた。
(中條さんて、意外に幼い面があるのね。『彼女』が居るって知ってるのかしら)
知ったらショックを受けるだろうな、と思いつつ男子トイレへ清掃のために入ると、碓田がいた。
「あ、お疲れ様です。そっか、今日水曜か」
「お疲れ様。残念ね、大西さんじゃなくて」
「いえいえ。そんな事ないっすよ」
碓田は照れ笑い。ゆず子は言った。
「大西さんに推されてるんだって? 意外ね、ドライそうな人なのに」
「ええ。めっちゃ可愛がられてますよ、自分」
碓田は満更でもない表情で続けた。
「1人暮らしだって言ったら『ご飯ちゃんと作ってるの?彼女任せにしないで自分でも作りなさい』って言われたり、『新しい彼女出来たら教えなさい、お母ちゃんがあなたに相応しいかジャッジするから』なんて言われて。
社会人なってからの歴代の彼女、全部把握してるかも」
「へえー、大西さん『お母ちゃん』って言ってるのね」
あまり話した事の無い同僚の意外な一面を聞き、ゆず子は感心した。
『推し』という言葉は、良い言葉だ。『推し』という言葉が出て来る以前、『人間におけるお気に入り』を表す言葉は、『好き(何か生々しい)』・『お熱(一過性な感じ)』・『眼鏡にかなう(何か上から目線)』などか。
流行語全般に肯定的ではないが、一部には積極的に使いたい文言もある。
ゆず子がある質問を受けたのは、それより数か月後のことだ。
「鳴瀬さん。大西さん、ご病気かなんかですか?」
顔を上げると、そこに居たのは中條。ゆず子は言った。
「大西さん? ああ、異動になったよ。言われなかった?」
「言われなかったです。異動ですか…」
大西はここの担当を5,6年やっていた。辞令は先月出たので、世間話などで聞いているとばかり思っていたゆず子は、少々驚いた。
「てっきり、ご本人から聞いてると思ってたけど、言わなかったのね」
「そうですね、何の話も。碓田主任も『何かあったのか』って心配してるぐらいだったので」
「あー…、敢えて言わなかったのかしら」
異動は周期的なものなので、いつかはまた戻る可能性がある。『別れ』みたいな大袈裟なものではないが、慣れ親しんだ区画を離れるのは思う所があるだろう。
しばらくすると、中條から話を聞いたのか碓田がやって来た。
「鳴瀬さん、大西さん異動って聞いたんですが」
「ええ、異動よ。また戻って来るだろうから、大丈夫よ」
「良かったぁ、病気でもしたかと思った~」
碓田は安堵の表情を浮かべた。ゆず子は微笑んだ。
「本当、大西さんて愛されてるのね。一介の掃除のおばちゃんなのに、気にかけてくれる人が居るんだもの」
「ええ、俺の大事な『お母ちゃん』ですから。…そうそう、鳴瀬さん」
「なに?」
「大西さん、何か言ってませんでしたか?」
碓田は少々うつむき加減だった。
「特には…。何かしたの?」
碓田は口を開いた。
「実は2ヶ月くらい前から、大西さんから微妙に避けられてたんです。もしかして俺、何か気に障る事したのかなと思って」
鳥海クリンネスの場合、異動は従業員都合ではなく、委託先都合や社内の人員の変更によるものが多い。
(まあ、持病悪化や身内の介護で起こる事もあるけど、大西さん自らが願い出たとは思わなかったのよね。でも…)
ゆず子は会社の傍で一息つくと、大西が出て来るのを待った。今日は書類提出日だ。
社屋から出て来た女に、ゆず子はタイミングを見計らって後ろから声を掛けた。
「大西さん!」
大西は目を丸くして、こちらを振り向いた。
「ご無沙汰してます、鳴瀬です」
「あー…、ご無沙汰してます。随分久しぶりでしたね」
「そうですね、あまりご一緒になる事もありませんでしたから」
顔を合わせたのは、半年くらい前の臨時業務の時か。齢は近いが仕事以外の接点も無いので、2人は当たり障りのない態度で交わした。ゆず子は言った。
「春日クックテクノって、大西さん長かったですよね。大西さんの異動に、社員の皆さん驚いてらっしゃいましたよ。大勢の方に慕われてらっしゃったんですね」
「あら、そうだったんですか? 大袈裟にされたくないから、黙ってたんですけどね」
大西は頭を掻いた。
「碓田くん、『俺、大西さんの気に障ることしたかも』なんて心配してたんです。『そんな事ないと思うよ』って、口添えはしたんですが」
「えー、すみません。こんな事なら、ちゃんと言っておけば良かった」
大西は苦笑い。ゆず子は尋ねた。
「でも…、『春日に今後戻らなくていい』って所長に申し出たって聞いたんですが、そうなんですか?」
ゆず子の言葉に、大西は急に真顔になる。ゆず子は続けた。
「あ、ごめんなさい。私も所長から今日『何か理由知ってる?』って訊かれたもので。別に聞き出さなくてもいいんじゃないですか? って答えたんです」
大西はそれを聞き、少々悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「…鳴瀬さん。私、あなたの事は良く知らないけど、春日の人や他の人から、噂は色々聞いてましたよ」
「え」
思わず歩みを止めたゆず子に、大西は笑いかける。
「『色々なお話を聞きだすのが得意』、『でも聞いたお話を他人にばらす訳ではない』…。まあ詰まる所、自己満ってやつですよね。噂通りのお方ですね」
「やだ。そういう風に聞いてらしたの?」
強張る笑顔のゆず子に、大西は言った。
「…碓田くんのお父さん、私の昔の知り合いなんですよ。碓田くんがまだ小さかった頃に、1度会ってて、時を越えて偶然の再会。だから碓田くんは、息子みたいなもんです。
碓田くんはその事を知らなくって、私も教えるつもりはなく、ずっと可愛がっていました」
「そうなんだ」
「でも、碓田くんは覚えていたんですよ、『私と知らずに、私と会ったこと』を。だから、ばれる前に距離を置いたんです。私があなたに話せるのは、ここまでです」
「はあ」
大西はとびきりの笑顔で言った。
「じゃあ鳴瀬さん、あの子のこれからをよろしくね」
歩いてゆく大西の後姿を見つつ、ゆず子は思わず腕組みした。
「そうそう。俺、この齢になって初めて知った話があってさ」
「何ですか?」
湯沸室。話していたのは碓田と中條だ。
「お盆に母方の祖父さんちに行った時に、『何歳の時の記憶があるか』みたいな話になってさ。俺、1歳か2歳の時のとある記憶で圧勝したんだけど、実際はガチのヤバいやつだった」
「えー、気になる」
中條は目を輝かせている。
「1歳か2歳の時に、知らない女の人に抱っこされて、しばらく歩いた記憶あるのね。母親とか、親戚のおばさんでもない知らない人で。でもすごく綺麗な女の人だった、それだけは何となく覚えてる。そういう記憶」
ゆず子は笑いつつ、話に加わった。
「さすが碓田くん。小さい頃からそういう分別のある子だったのね」
「いやいや、そんな。それでその話したら、祖父さんに『お前覚えてるのか?それ、誘拐されかけた時のやつだぞ?』って」
「え! 碓田さん誘拐に遭いかけたんですか? めっちゃ可愛くて?」
中條の言葉に、碓田は吹き出し気味に答えた。
「可愛いのはともかく。その誘拐犯ってのが、親父の浮気相手だったらしい」
「うっわ、コワッ!!」
「何かね、親父と母親が結婚する前からダラダラ続いてたらしく、完全に親父が悪いわけ。俺が生まれてから、母親と俺にも会いに来て、色々ゴタゴタがあったとか。どうやらその時の記憶だったみたい」
訊きながらゆず子は、『彼女』の笑顔を人知れず思い出していた。中條は恐る恐る碓田に尋ねた。
「それから、どうなったんですか?」
「さあ。手切れ金払ったのか完全に終わって、1回も姿も見せず、親父と母親も再構築した。だから俺、先人の失敗を教訓に『近い所で何回も彼女作ったり、不誠実な事はしない』ってしてる。過去の縁も今の縁も傷つけたくないわけ」
「偉い。碓田くん」
「えー、でもどこで『恋』するか分からないじゃありませんかぁ」
碓田の持論に、ゆず子は小さく拍手し、中條は口を尖らせた。ゆず子はゴミ袋を結ぶと、立ち上がった。
「まあね、何も起きないかもしれないけど、何かあるかもしれないから人生は面白いのよね」
誰かの秘密を聞き出し暴き、吹聴して歩くような、無粋な真似は絶対しない。鳴瀬ゆず子には、絶対的な流儀がある。
仕事中のゆず子に話しかけてきたのは、広報部4年目:中條鈴果。
「大西さん? 入って7年目のお姉さんよ」
大西みちこは、ゆず子と同じ鳥海クリンネスに所属する同僚だ。
年齢は、ゆず子より3個下の65歳。7年前に別の清掃会社から移り、今日に至る。ゆず子が答えると、中條は更に尋ねた。
「ご結婚はされてます?」
「うーん…。してたけど、旦那さん亡くされてて今はおひとりだったかしら。何で?」
大西は、毎週木曜と金曜がこの会社の受け持ちだ。中條は年単位で顔を見ていて知っているし、わざわざゆず子に尋ねる理由も無いのでは。
中條はふむふむ頷くと笑った。
「ああ、鳴瀬さんほど話さない方なので、どんな人だろうと思って」
「成程ね。でもあたし、あまり大西さんの事はよく知らないのよ。話さないから」
「え、仲悪いんですか?」
「ううん。単純にシフト、合わないからね。この仕事そういうの多いのよ」
「へえ…」
大学構内など、規模の大きい場所なら複数人で作業にあたるが、基本は直行直帰で単独作業だ。
会話チャンスも、年に1度の新年会や年に数回のこ複数人作業時や、研修などで顔を合わせた時ぐらい。
(下手すると同僚よりも、出向先の人とお喋りしてる気がするわ。一応、業務中の私語は厳禁だけどね)
中條はそのまま仕事へ戻り、会話もそれ以上発展はしなかった。
そして別日のこと。
「…碓田主任、彼女居るらしいよ」
「やっぱり? な~んだ、狙ってたのに」
女子トイレ。ゆず子がゴミをまとめていると、手洗い場で女性社員2名がメイク直しをしつつ、話しているのが聞こえた。
碓田准大は営業部8年目、社内で1,2位を誇るイケメン社員だ。
彼にときめく女性社員も少なくないのだが、碓田自身は『近い場所で彼女作ると、後々面倒だからここでは恋愛しません』を貫き、社内では職務に徹する若いのに分別のある男性だ。
(碓田くんに彼女ねえ、どのくらい付き合ってるか知らないけど、結婚も視野に入れてるのかしら)
独身イケメンの恋愛事情に興味の沸いたゆず子は、碓田自身と会った時に訊こうかと思っていたのだが。
「…お尋ねしたいんですけど、60代の方が30代の方を好きになるのって、あり得ると思いますか?」
世間話中に、こんな事を言ってきたのは中條だった。
「年の差恋愛ってこと?」
「ええ」
「人によるんじゃない? もしかして、身近にそういう人居るの?」
ゆず子の返答に、中條は一瞬身じろぎして口を開いた。
「大西さんの、『推し』が碓田主任なんですよ」
「あら」
中條は弁解の様に説明を始めた。
「あ、でも別に恋愛感情は無いと思うんですよ。息子を溺愛する母親、って感じなので。でも、それに見せかけた『マジ』ってあり得るのかな? って思って」
中條は碓田に好意を抱いてる。『落とす』ための情報収集と思ったゆず子は、にこやかに答えた。
「あー、確かに碓田くんカッコイイものね。恋愛感情は分からないけど、『推す』ことは充分あり得ると思うよ。おばちゃん達もイケメン好きだもの」
「そうですか」
「もし恋愛感情あるとしたら、中條さんだってわかるでしょ? メイク変わったり、ボディタッチも多くなったりして」
「まあ、確かに」
中條は表情を緩ませた。
(中條さんて、意外に幼い面があるのね。『彼女』が居るって知ってるのかしら)
知ったらショックを受けるだろうな、と思いつつ男子トイレへ清掃のために入ると、碓田がいた。
「あ、お疲れ様です。そっか、今日水曜か」
「お疲れ様。残念ね、大西さんじゃなくて」
「いえいえ。そんな事ないっすよ」
碓田は照れ笑い。ゆず子は言った。
「大西さんに推されてるんだって? 意外ね、ドライそうな人なのに」
「ええ。めっちゃ可愛がられてますよ、自分」
碓田は満更でもない表情で続けた。
「1人暮らしだって言ったら『ご飯ちゃんと作ってるの?彼女任せにしないで自分でも作りなさい』って言われたり、『新しい彼女出来たら教えなさい、お母ちゃんがあなたに相応しいかジャッジするから』なんて言われて。
社会人なってからの歴代の彼女、全部把握してるかも」
「へえー、大西さん『お母ちゃん』って言ってるのね」
あまり話した事の無い同僚の意外な一面を聞き、ゆず子は感心した。
『推し』という言葉は、良い言葉だ。『推し』という言葉が出て来る以前、『人間におけるお気に入り』を表す言葉は、『好き(何か生々しい)』・『お熱(一過性な感じ)』・『眼鏡にかなう(何か上から目線)』などか。
流行語全般に肯定的ではないが、一部には積極的に使いたい文言もある。
ゆず子がある質問を受けたのは、それより数か月後のことだ。
「鳴瀬さん。大西さん、ご病気かなんかですか?」
顔を上げると、そこに居たのは中條。ゆず子は言った。
「大西さん? ああ、異動になったよ。言われなかった?」
「言われなかったです。異動ですか…」
大西はここの担当を5,6年やっていた。辞令は先月出たので、世間話などで聞いているとばかり思っていたゆず子は、少々驚いた。
「てっきり、ご本人から聞いてると思ってたけど、言わなかったのね」
「そうですね、何の話も。碓田主任も『何かあったのか』って心配してるぐらいだったので」
「あー…、敢えて言わなかったのかしら」
異動は周期的なものなので、いつかはまた戻る可能性がある。『別れ』みたいな大袈裟なものではないが、慣れ親しんだ区画を離れるのは思う所があるだろう。
しばらくすると、中條から話を聞いたのか碓田がやって来た。
「鳴瀬さん、大西さん異動って聞いたんですが」
「ええ、異動よ。また戻って来るだろうから、大丈夫よ」
「良かったぁ、病気でもしたかと思った~」
碓田は安堵の表情を浮かべた。ゆず子は微笑んだ。
「本当、大西さんて愛されてるのね。一介の掃除のおばちゃんなのに、気にかけてくれる人が居るんだもの」
「ええ、俺の大事な『お母ちゃん』ですから。…そうそう、鳴瀬さん」
「なに?」
「大西さん、何か言ってませんでしたか?」
碓田は少々うつむき加減だった。
「特には…。何かしたの?」
碓田は口を開いた。
「実は2ヶ月くらい前から、大西さんから微妙に避けられてたんです。もしかして俺、何か気に障る事したのかなと思って」
鳥海クリンネスの場合、異動は従業員都合ではなく、委託先都合や社内の人員の変更によるものが多い。
(まあ、持病悪化や身内の介護で起こる事もあるけど、大西さん自らが願い出たとは思わなかったのよね。でも…)
ゆず子は会社の傍で一息つくと、大西が出て来るのを待った。今日は書類提出日だ。
社屋から出て来た女に、ゆず子はタイミングを見計らって後ろから声を掛けた。
「大西さん!」
大西は目を丸くして、こちらを振り向いた。
「ご無沙汰してます、鳴瀬です」
「あー…、ご無沙汰してます。随分久しぶりでしたね」
「そうですね、あまりご一緒になる事もありませんでしたから」
顔を合わせたのは、半年くらい前の臨時業務の時か。齢は近いが仕事以外の接点も無いので、2人は当たり障りのない態度で交わした。ゆず子は言った。
「春日クックテクノって、大西さん長かったですよね。大西さんの異動に、社員の皆さん驚いてらっしゃいましたよ。大勢の方に慕われてらっしゃったんですね」
「あら、そうだったんですか? 大袈裟にされたくないから、黙ってたんですけどね」
大西は頭を掻いた。
「碓田くん、『俺、大西さんの気に障ることしたかも』なんて心配してたんです。『そんな事ないと思うよ』って、口添えはしたんですが」
「えー、すみません。こんな事なら、ちゃんと言っておけば良かった」
大西は苦笑い。ゆず子は尋ねた。
「でも…、『春日に今後戻らなくていい』って所長に申し出たって聞いたんですが、そうなんですか?」
ゆず子の言葉に、大西は急に真顔になる。ゆず子は続けた。
「あ、ごめんなさい。私も所長から今日『何か理由知ってる?』って訊かれたもので。別に聞き出さなくてもいいんじゃないですか? って答えたんです」
大西はそれを聞き、少々悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「…鳴瀬さん。私、あなたの事は良く知らないけど、春日の人や他の人から、噂は色々聞いてましたよ」
「え」
思わず歩みを止めたゆず子に、大西は笑いかける。
「『色々なお話を聞きだすのが得意』、『でも聞いたお話を他人にばらす訳ではない』…。まあ詰まる所、自己満ってやつですよね。噂通りのお方ですね」
「やだ。そういう風に聞いてらしたの?」
強張る笑顔のゆず子に、大西は言った。
「…碓田くんのお父さん、私の昔の知り合いなんですよ。碓田くんがまだ小さかった頃に、1度会ってて、時を越えて偶然の再会。だから碓田くんは、息子みたいなもんです。
碓田くんはその事を知らなくって、私も教えるつもりはなく、ずっと可愛がっていました」
「そうなんだ」
「でも、碓田くんは覚えていたんですよ、『私と知らずに、私と会ったこと』を。だから、ばれる前に距離を置いたんです。私があなたに話せるのは、ここまでです」
「はあ」
大西はとびきりの笑顔で言った。
「じゃあ鳴瀬さん、あの子のこれからをよろしくね」
歩いてゆく大西の後姿を見つつ、ゆず子は思わず腕組みした。
「そうそう。俺、この齢になって初めて知った話があってさ」
「何ですか?」
湯沸室。話していたのは碓田と中條だ。
「お盆に母方の祖父さんちに行った時に、『何歳の時の記憶があるか』みたいな話になってさ。俺、1歳か2歳の時のとある記憶で圧勝したんだけど、実際はガチのヤバいやつだった」
「えー、気になる」
中條は目を輝かせている。
「1歳か2歳の時に、知らない女の人に抱っこされて、しばらく歩いた記憶あるのね。母親とか、親戚のおばさんでもない知らない人で。でもすごく綺麗な女の人だった、それだけは何となく覚えてる。そういう記憶」
ゆず子は笑いつつ、話に加わった。
「さすが碓田くん。小さい頃からそういう分別のある子だったのね」
「いやいや、そんな。それでその話したら、祖父さんに『お前覚えてるのか?それ、誘拐されかけた時のやつだぞ?』って」
「え! 碓田さん誘拐に遭いかけたんですか? めっちゃ可愛くて?」
中條の言葉に、碓田は吹き出し気味に答えた。
「可愛いのはともかく。その誘拐犯ってのが、親父の浮気相手だったらしい」
「うっわ、コワッ!!」
「何かね、親父と母親が結婚する前からダラダラ続いてたらしく、完全に親父が悪いわけ。俺が生まれてから、母親と俺にも会いに来て、色々ゴタゴタがあったとか。どうやらその時の記憶だったみたい」
訊きながらゆず子は、『彼女』の笑顔を人知れず思い出していた。中條は恐る恐る碓田に尋ねた。
「それから、どうなったんですか?」
「さあ。手切れ金払ったのか完全に終わって、1回も姿も見せず、親父と母親も再構築した。だから俺、先人の失敗を教訓に『近い所で何回も彼女作ったり、不誠実な事はしない』ってしてる。過去の縁も今の縁も傷つけたくないわけ」
「偉い。碓田くん」
「えー、でもどこで『恋』するか分からないじゃありませんかぁ」
碓田の持論に、ゆず子は小さく拍手し、中條は口を尖らせた。ゆず子はゴミ袋を結ぶと、立ち上がった。
「まあね、何も起きないかもしれないけど、何かあるかもしれないから人生は面白いのよね」
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