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メラビアン ※就業規則違反、依存症表現あり
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初対面の人と顔を合わせた際に、話す内容が7%、声やそのボリュームなど聴覚が38%、見た目など視覚が55%の割合で、相手にその影響を与えるという、どこぞの偉い人が提唱した理論がある。
面接やお見合いなどで、対話で一応相手の内面にも注意を払ったとしても、大体は外見に気を取られジャッジを下す傾向があるのは、仕方がないらしい。
では逆に、何故か第一印象で引っ掛かりを覚えた場合は、何かがあるのだろうか。
「天野夏帆です。よろしくお願いいたします」
自己紹介の後にお辞儀をしたのは、礼儀正しく控えめな感じの女だった。社員が、ゆず子と大喜田ふじよに説明をする。
「天野さんは、こちらの2人から手順を教わって下さい。鳴瀬さんと大喜田さんは、今月中は天野さんと一緒に、村嶋珈琲フーズと浅香屋食品の仕事に行って下さい」
新メンバーは、30代半ばの若い世代。大喜田はワクワクした表情だ。
「30代の人なんて久しぶり! よろしくね」
「ご指導よろしくお願いします」
天野は、はにかんだ笑みを見せたのだが、ゆず子は何故か妙に気にかかった。
(何だろう。何かこの人、気になるな…)
研修1箇所目は、ゆず子が業務の流れを教える。
外回り用の自転車の駐輪場所、出向先への入室手順(どこの入口から入るとか)、その出向先でのルールなど、教える事はいっぱいだ。
天野が必死でメモを取る傍ら、ゆず子は質問をした。
「天野さんは…、どちらにお住まいなの?」
「私ですか? Aです」
「へえ、隣の市なのね。遠くない?」
「確かに少し離れてます…。でも、少し離れた場所で働きたかったので」
天野は照れたように笑った。ゆず子は続けて質問した。
「ご家族と暮らしていらっしゃるの?」
「はい、夫と子供2人です」
「そうなんだ。お子さんおいくつなの?」
「6歳と4歳です。下の子、幼稚園に入ったので働こうと」
天野は、にっこりして言った。
「天野さん、来週から1人体制がスタートするわね」
研修最終日。ゆず子が言うと、天野は困った様に笑った。
「そうですねぇ。頼りになるお姉さん達が居ないと、何だかとても不安です」
「大丈夫よ、天野さんなら問題無いわ。それに、出向先も良い人達ばかりだし。連絡先教えるから、判らない事があったらいつでも聞いて」
「あ、お願いします。PINEでいいですか?」
「ええ、いいわよ」
天野のアイコンは、2歳くらいの幼児が赤ちゃんに頬ずりしている画像だった。ゆず子は思わず声を上げた。
「わぁ、可愛い~!! これ、天野さんのお子さん?」
天野は照れ笑いで答えた。
「あ、はい。少し前のなんですが、上のお兄ちゃんと下の妹です」
「賑やかそうでいいわね」
「はい」
天野は穏やかな笑みだった。
天野は、研修修了後も問題なく仕事に取り組めていたようだ。ネックとなっていた『子供の体調不良時の急な欠勤』も、皆無だった。
「旦那さんが、リモートワーク出来る職種らしいのよね。それに、天野さんは短時間契約の人だから、何とか出来るのかな」
報告書提出で会った大喜田は言った。ゆず子も口を開く。
「お子さん小さいからね。…あ、ねえねえ、天野さんのアイコン見た?」
ゆず子がスマホの画面を見せると、大喜田は目を細めて見た。
「天野さんのお子さん? あら可愛いこと。でも、お子さん幼稚園児じゃなかったっけ?」
「うん、少し前の画像って言ってたよ」
「ふーん。最新のを使わないのね」
「ベストショットなんじゃない? すっごく可愛いからね」
2人は道端で談議した。
ゆず子が妙な点に気づいたのは、天野の研修が終了してひと月程経った頃だ。
(何か。トイレ汚いな)
ここの担当はゆず子と天野の2人だけで、前回の清掃は天野がしたのだが、明らかに清掃が行き届いてない日があった。
天野の施した状態は許容範囲ではあるが、清掃員歴20年近いゆず子から見ればクレームが少々心配なレベルだ。
(何かあって急いでいたのかな…。お子さんの急な早退とか)
ゆず子らの勤める、鳥海クリンネスの業態は委託契約が主だ(滝童ショッピングセンターなど、一部時給制の場所もある)。
各出向先によって、清掃区画・清掃方法や使用道具と洗剤、留意点などが細かく契約書に記載されているが、かかる時間に関しては明記してない所が多い(1日に複数か所担当するのが普通なので、時間制約があると業務が回らなくなる)。
なので極端な話、契約の内容さえ満たせば、出向先1か所の業務時間が、30分でも3時間でもいいのである。
用事があるから、普段1時間かける業務を40分ぐらいで終わるよう仕上げたのか。まあ、ゆず子やベテラン従業員もよくやる方法ではあるが。
(入社してひと月して、天野さんの本性が出て来たのかな)
ゆず子は苦笑した。
別の出向場所。昼食中の若手社員:福田菜美と後輩:柄北柚羽は、ゆず子が何気なく天野の事を訊くと口を揃えて言った。
「天野さん、いつも爆速でやってるね」
「ですね。ちょっと…、心配になるって言うか」
「『心配』?」
ゆず子が聞き返すと、福田は腕組みして言いづらそうに口を開いた。
「えーっと。結構…、大雑把かな? ゴミ箱の中はキレイなのに、その周りに小さいゴミが落ちていたり」
柄北も口を開く。
「…ここだけの話、忘れてるのか省略してるのか、たまにモップ掛けしないでお帰りになること、ありますよ」
「あらま! それは良くないわね」
ゆず子は呆れた表情をした。
清掃員の全員が、綺麗好きな訳では無い。個人の裁量の割合が大きい仕事で、完成状態にばらつきが出るのは当然だが。
(うーん、でも決められた作業を省いちゃうのは、問題外よね…)
会社と出向先(この場合清掃場所)で交わされる委託契約書に則って、清掃員は清掃業務を行なうのが規則だ。勝手な省略は、契約不履行である。
上司にそれとなく相談してみるか、でもその前に天野へ『大急ぎ』の理由を聞いてみるか。その日の1か所目の業務を終わらせたゆず子が、考えつつ自転車で移動していると、あるモノを見つけた。
駅前のパチンコ屋の駐輪場に、鳥海クリンネスが所有している自転車(出向先へ移動する時に従業員が使うもの)が停まっていたのだ。
(防犯登録証といい、型と色といい、うちの会社のやつだわ。何でここに停めてあるんだろう)
だが、次の現場の時間も迫っていたので、ゆず子はそのまま通り過ぎた。
「ねえ、鳴瀬ちゃん。天野さんと最近会った?」
出向先でたまたま会った大喜田は、渋そうな表情で尋ねてきた。
「会ってない。何かあったの?」
「掃除、ちゃんとやってない時があるのよ」
「あー…、ちょっと雑だよね」
ところが、大喜田は首を振った。
「ちゃうちゃう、床掃いてゴミだけ捨てて終わりよ。佐野さんがたまたま見つけて、上に報告して注意したみたい」
「え、それ本当?」
「うん。本人は『幼稚園から早退の連絡を受けて、焦って手順を飛ばした』って言って謝ったみたいだけど、1回だけじゃないんだよね…」
大喜田が顔をしかめると、ゆず子も言った。
「あたしも、浅香屋の人から『いつも焦って掃除してる』とか『モップ掛けしてない時ある』って言われたの。急用で焦ってたなら、連絡先教えたんだし声かければいいのに」
「気を遣ってるのかね? 割にやることがぶっ飛んでるけど」
「まあ、改善されるといいわね」
ゆず子は息をついた。
「ねえねえ、鳴瀬さん。天野さんの事なんだけど…」
トイレ掃除中。話しかけてきた出向先の顔見知り:事務の河北富由美に、ゆず子は一瞬身構えた。
「天野さん、どうかした?」
「お子さん2人、A市の『サイバラ幼稚園』に通ってるって聞いたけど本当?」
苦情でなくホッとしたものの、ゆず子は首を振った。
「そこまでは知らないや。何で?」
「そうなんだ。いやあのね、お子さんのこと訊いたらそう言われたんだけど、統合して『ホタルこども園』になってて、『サイバラ幼稚園』は存在しないんだよ。だからあれ? って思って」
「そうなの? 詳しいわね」
「仲の良い店舗パートさんの子が、丁度『こども園』になる頃に在籍しててさ。『途中でルールが色々変わって大変なんだ~』って聞いたから、覚えてたの。ホームページ見たけど、やっぱり『サイバラ』は無い」
ゆず子は思わず手を止めて口を開いた。
「入園当時『サイバラ』だったから、ずっと『サイバラ』呼びしてるとか?」
「うーん。でもお子さん年長と年少でしょ? 統合が3年前だから、上の子が入園時には既に『ほたる』だよ。未満児クラスから通わせてたとしても、今となっては新名称になってからの方が長いし、呼び続けるかな?
だから、聞き間違ったかと思って」
天野の研修終了後、ゆず子は全く彼女に会っていない。担当場所は一緒でも入れ違いのシフトで、開始と終了時間も違うからだ。
(顔を合わせなくなってから、妙な話をよく聞くわね)
話した感じも、立ち振る舞いや勤務態度も、同行していた研修中におかしな点は無かった。むしろゆず子からすれば、聞こえて来る話が信じられないくらいだ。
(人は見かけによらない、ってことかな)
「鳴瀬さん!」
退勤途中のゆず子を呼び止めたのは、20代の後輩:六角陽詩。六角は歩道脇で、ゆず子にこんな話をした。
「天野さん、いつも仕上がり雑で苦情あったから、大喜田さんが注意しようと出向先で待ち伏せたらしいんですね。たまたま天野さん、大喜田さんの居ない側から出ちゃって、追いかけたらそのまま駅前のパチンコ屋に行ったんです」
ゆず子の脳裏に、いつぞやの停めてあった自転車が浮かぶ。
「パチンコ屋?」
「そうです。天野さん、パチンコ屋の開店待ちの列に並んで、その後に台で打ってるの、ガッツリ見たそうで。…今、会社にも報告して、ちょっとした騒ぎになってます」
目を伏せたゆず子は、思わずこめかみを押さえた。
「天野さん?」
ゆず子が声を掛けると、鳥海クリンネスから出て来た私服姿の天野は、ビクッとしてこちらを見た。
「…鳴瀬、さん」
「久しぶりね、元気だった?」
「あの…」
天野は顔を伏せ、口ごもる。
「ごめんなさい。あんなに良くして頂いたのに…。ここを今日付で、辞める事になりました」
「そうなの? 寂しくなるわね」
ゆず子は残念そうな笑みを浮かべた。
「長い人生、色々あるわ。今はお子さん達についててあげればいいのよ」
天野はポツリと言った。
「…出来ません」
「え?」
「私、子供と一緒に暮らしてないんです。
…預貯金と生活費を使い込んで、子供も放置してパチンコに通い詰めて、夫に見限られました。子供は、夫と義理の両親が育てています」
天野は無表情で言った。
「離婚して実家に戻って何年も病院通いして、何とか社会復帰しようと、こちらに勤め始めました。しばらく大丈夫だったけど、ダメでした。母親失格以前に、人として問題があるんです」
「天野さん…」
天野は、ゆず子の方は一切見なかった。
「恩を仇で返す様な事をして、申し訳ありません。ご迷惑おかけしました…」
踵を返す天野の腕を、ゆず子は咄嗟に掴んだ。
「天野さん、『ゆっくり』でいいんだよ?」
天野はこちらを見ないが、振り払う事はしなかった。
「人生は長いの。失敗はするし、何回も繰り返すこともあるのよ。ゆっくりでも何回でもいいの。誰だって、前に進む権利はあるんだから」
ゆず子が手を離すと、天野はとぼとぼ歩いて行った。
「天野さん、パチンコ行くために仕事のショートカットをしてたんだね」
大喜田が抹茶ロールケーキを頬張ると、六角はチョコサンデーをスプーンでつついた。
「依存症や離婚の事実を隠すために、前に聞いた事ある幼稚園の名前を出した…。だから園名がおかしい訳ですね」
ゆず子は頬杖をついて、2種のアイスセットを眺めた。
「アイコンにしていたのは、まだ一緒に暮らしてた頃のお子さんの画像だったのかな? PINEのアカウントも、あの後すぐ削除されて、無くなっちゃってたな」
天野のその後は分からない。客観的に見れば就業規則違反をし、会社や所属する従業員の評価を下げるかもしれない行為をやった、『違反で解雇に至った劣悪な従業員』である。
そんな天野ではあるが、ゆず子はこれからも何度も、彼女のことを思い返して案じるのだろう。
彼女が先へ進める未来を、心の中で密かに願って。
面接やお見合いなどで、対話で一応相手の内面にも注意を払ったとしても、大体は外見に気を取られジャッジを下す傾向があるのは、仕方がないらしい。
では逆に、何故か第一印象で引っ掛かりを覚えた場合は、何かがあるのだろうか。
「天野夏帆です。よろしくお願いいたします」
自己紹介の後にお辞儀をしたのは、礼儀正しく控えめな感じの女だった。社員が、ゆず子と大喜田ふじよに説明をする。
「天野さんは、こちらの2人から手順を教わって下さい。鳴瀬さんと大喜田さんは、今月中は天野さんと一緒に、村嶋珈琲フーズと浅香屋食品の仕事に行って下さい」
新メンバーは、30代半ばの若い世代。大喜田はワクワクした表情だ。
「30代の人なんて久しぶり! よろしくね」
「ご指導よろしくお願いします」
天野は、はにかんだ笑みを見せたのだが、ゆず子は何故か妙に気にかかった。
(何だろう。何かこの人、気になるな…)
研修1箇所目は、ゆず子が業務の流れを教える。
外回り用の自転車の駐輪場所、出向先への入室手順(どこの入口から入るとか)、その出向先でのルールなど、教える事はいっぱいだ。
天野が必死でメモを取る傍ら、ゆず子は質問をした。
「天野さんは…、どちらにお住まいなの?」
「私ですか? Aです」
「へえ、隣の市なのね。遠くない?」
「確かに少し離れてます…。でも、少し離れた場所で働きたかったので」
天野は照れたように笑った。ゆず子は続けて質問した。
「ご家族と暮らしていらっしゃるの?」
「はい、夫と子供2人です」
「そうなんだ。お子さんおいくつなの?」
「6歳と4歳です。下の子、幼稚園に入ったので働こうと」
天野は、にっこりして言った。
「天野さん、来週から1人体制がスタートするわね」
研修最終日。ゆず子が言うと、天野は困った様に笑った。
「そうですねぇ。頼りになるお姉さん達が居ないと、何だかとても不安です」
「大丈夫よ、天野さんなら問題無いわ。それに、出向先も良い人達ばかりだし。連絡先教えるから、判らない事があったらいつでも聞いて」
「あ、お願いします。PINEでいいですか?」
「ええ、いいわよ」
天野のアイコンは、2歳くらいの幼児が赤ちゃんに頬ずりしている画像だった。ゆず子は思わず声を上げた。
「わぁ、可愛い~!! これ、天野さんのお子さん?」
天野は照れ笑いで答えた。
「あ、はい。少し前のなんですが、上のお兄ちゃんと下の妹です」
「賑やかそうでいいわね」
「はい」
天野は穏やかな笑みだった。
天野は、研修修了後も問題なく仕事に取り組めていたようだ。ネックとなっていた『子供の体調不良時の急な欠勤』も、皆無だった。
「旦那さんが、リモートワーク出来る職種らしいのよね。それに、天野さんは短時間契約の人だから、何とか出来るのかな」
報告書提出で会った大喜田は言った。ゆず子も口を開く。
「お子さん小さいからね。…あ、ねえねえ、天野さんのアイコン見た?」
ゆず子がスマホの画面を見せると、大喜田は目を細めて見た。
「天野さんのお子さん? あら可愛いこと。でも、お子さん幼稚園児じゃなかったっけ?」
「うん、少し前の画像って言ってたよ」
「ふーん。最新のを使わないのね」
「ベストショットなんじゃない? すっごく可愛いからね」
2人は道端で談議した。
ゆず子が妙な点に気づいたのは、天野の研修が終了してひと月程経った頃だ。
(何か。トイレ汚いな)
ここの担当はゆず子と天野の2人だけで、前回の清掃は天野がしたのだが、明らかに清掃が行き届いてない日があった。
天野の施した状態は許容範囲ではあるが、清掃員歴20年近いゆず子から見ればクレームが少々心配なレベルだ。
(何かあって急いでいたのかな…。お子さんの急な早退とか)
ゆず子らの勤める、鳥海クリンネスの業態は委託契約が主だ(滝童ショッピングセンターなど、一部時給制の場所もある)。
各出向先によって、清掃区画・清掃方法や使用道具と洗剤、留意点などが細かく契約書に記載されているが、かかる時間に関しては明記してない所が多い(1日に複数か所担当するのが普通なので、時間制約があると業務が回らなくなる)。
なので極端な話、契約の内容さえ満たせば、出向先1か所の業務時間が、30分でも3時間でもいいのである。
用事があるから、普段1時間かける業務を40分ぐらいで終わるよう仕上げたのか。まあ、ゆず子やベテラン従業員もよくやる方法ではあるが。
(入社してひと月して、天野さんの本性が出て来たのかな)
ゆず子は苦笑した。
別の出向場所。昼食中の若手社員:福田菜美と後輩:柄北柚羽は、ゆず子が何気なく天野の事を訊くと口を揃えて言った。
「天野さん、いつも爆速でやってるね」
「ですね。ちょっと…、心配になるって言うか」
「『心配』?」
ゆず子が聞き返すと、福田は腕組みして言いづらそうに口を開いた。
「えーっと。結構…、大雑把かな? ゴミ箱の中はキレイなのに、その周りに小さいゴミが落ちていたり」
柄北も口を開く。
「…ここだけの話、忘れてるのか省略してるのか、たまにモップ掛けしないでお帰りになること、ありますよ」
「あらま! それは良くないわね」
ゆず子は呆れた表情をした。
清掃員の全員が、綺麗好きな訳では無い。個人の裁量の割合が大きい仕事で、完成状態にばらつきが出るのは当然だが。
(うーん、でも決められた作業を省いちゃうのは、問題外よね…)
会社と出向先(この場合清掃場所)で交わされる委託契約書に則って、清掃員は清掃業務を行なうのが規則だ。勝手な省略は、契約不履行である。
上司にそれとなく相談してみるか、でもその前に天野へ『大急ぎ』の理由を聞いてみるか。その日の1か所目の業務を終わらせたゆず子が、考えつつ自転車で移動していると、あるモノを見つけた。
駅前のパチンコ屋の駐輪場に、鳥海クリンネスが所有している自転車(出向先へ移動する時に従業員が使うもの)が停まっていたのだ。
(防犯登録証といい、型と色といい、うちの会社のやつだわ。何でここに停めてあるんだろう)
だが、次の現場の時間も迫っていたので、ゆず子はそのまま通り過ぎた。
「ねえ、鳴瀬ちゃん。天野さんと最近会った?」
出向先でたまたま会った大喜田は、渋そうな表情で尋ねてきた。
「会ってない。何かあったの?」
「掃除、ちゃんとやってない時があるのよ」
「あー…、ちょっと雑だよね」
ところが、大喜田は首を振った。
「ちゃうちゃう、床掃いてゴミだけ捨てて終わりよ。佐野さんがたまたま見つけて、上に報告して注意したみたい」
「え、それ本当?」
「うん。本人は『幼稚園から早退の連絡を受けて、焦って手順を飛ばした』って言って謝ったみたいだけど、1回だけじゃないんだよね…」
大喜田が顔をしかめると、ゆず子も言った。
「あたしも、浅香屋の人から『いつも焦って掃除してる』とか『モップ掛けしてない時ある』って言われたの。急用で焦ってたなら、連絡先教えたんだし声かければいいのに」
「気を遣ってるのかね? 割にやることがぶっ飛んでるけど」
「まあ、改善されるといいわね」
ゆず子は息をついた。
「ねえねえ、鳴瀬さん。天野さんの事なんだけど…」
トイレ掃除中。話しかけてきた出向先の顔見知り:事務の河北富由美に、ゆず子は一瞬身構えた。
「天野さん、どうかした?」
「お子さん2人、A市の『サイバラ幼稚園』に通ってるって聞いたけど本当?」
苦情でなくホッとしたものの、ゆず子は首を振った。
「そこまでは知らないや。何で?」
「そうなんだ。いやあのね、お子さんのこと訊いたらそう言われたんだけど、統合して『ホタルこども園』になってて、『サイバラ幼稚園』は存在しないんだよ。だからあれ? って思って」
「そうなの? 詳しいわね」
「仲の良い店舗パートさんの子が、丁度『こども園』になる頃に在籍しててさ。『途中でルールが色々変わって大変なんだ~』って聞いたから、覚えてたの。ホームページ見たけど、やっぱり『サイバラ』は無い」
ゆず子は思わず手を止めて口を開いた。
「入園当時『サイバラ』だったから、ずっと『サイバラ』呼びしてるとか?」
「うーん。でもお子さん年長と年少でしょ? 統合が3年前だから、上の子が入園時には既に『ほたる』だよ。未満児クラスから通わせてたとしても、今となっては新名称になってからの方が長いし、呼び続けるかな?
だから、聞き間違ったかと思って」
天野の研修終了後、ゆず子は全く彼女に会っていない。担当場所は一緒でも入れ違いのシフトで、開始と終了時間も違うからだ。
(顔を合わせなくなってから、妙な話をよく聞くわね)
話した感じも、立ち振る舞いや勤務態度も、同行していた研修中におかしな点は無かった。むしろゆず子からすれば、聞こえて来る話が信じられないくらいだ。
(人は見かけによらない、ってことかな)
「鳴瀬さん!」
退勤途中のゆず子を呼び止めたのは、20代の後輩:六角陽詩。六角は歩道脇で、ゆず子にこんな話をした。
「天野さん、いつも仕上がり雑で苦情あったから、大喜田さんが注意しようと出向先で待ち伏せたらしいんですね。たまたま天野さん、大喜田さんの居ない側から出ちゃって、追いかけたらそのまま駅前のパチンコ屋に行ったんです」
ゆず子の脳裏に、いつぞやの停めてあった自転車が浮かぶ。
「パチンコ屋?」
「そうです。天野さん、パチンコ屋の開店待ちの列に並んで、その後に台で打ってるの、ガッツリ見たそうで。…今、会社にも報告して、ちょっとした騒ぎになってます」
目を伏せたゆず子は、思わずこめかみを押さえた。
「天野さん?」
ゆず子が声を掛けると、鳥海クリンネスから出て来た私服姿の天野は、ビクッとしてこちらを見た。
「…鳴瀬、さん」
「久しぶりね、元気だった?」
「あの…」
天野は顔を伏せ、口ごもる。
「ごめんなさい。あんなに良くして頂いたのに…。ここを今日付で、辞める事になりました」
「そうなの? 寂しくなるわね」
ゆず子は残念そうな笑みを浮かべた。
「長い人生、色々あるわ。今はお子さん達についててあげればいいのよ」
天野はポツリと言った。
「…出来ません」
「え?」
「私、子供と一緒に暮らしてないんです。
…預貯金と生活費を使い込んで、子供も放置してパチンコに通い詰めて、夫に見限られました。子供は、夫と義理の両親が育てています」
天野は無表情で言った。
「離婚して実家に戻って何年も病院通いして、何とか社会復帰しようと、こちらに勤め始めました。しばらく大丈夫だったけど、ダメでした。母親失格以前に、人として問題があるんです」
「天野さん…」
天野は、ゆず子の方は一切見なかった。
「恩を仇で返す様な事をして、申し訳ありません。ご迷惑おかけしました…」
踵を返す天野の腕を、ゆず子は咄嗟に掴んだ。
「天野さん、『ゆっくり』でいいんだよ?」
天野はこちらを見ないが、振り払う事はしなかった。
「人生は長いの。失敗はするし、何回も繰り返すこともあるのよ。ゆっくりでも何回でもいいの。誰だって、前に進む権利はあるんだから」
ゆず子が手を離すと、天野はとぼとぼ歩いて行った。
「天野さん、パチンコ行くために仕事のショートカットをしてたんだね」
大喜田が抹茶ロールケーキを頬張ると、六角はチョコサンデーをスプーンでつついた。
「依存症や離婚の事実を隠すために、前に聞いた事ある幼稚園の名前を出した…。だから園名がおかしい訳ですね」
ゆず子は頬杖をついて、2種のアイスセットを眺めた。
「アイコンにしていたのは、まだ一緒に暮らしてた頃のお子さんの画像だったのかな? PINEのアカウントも、あの後すぐ削除されて、無くなっちゃってたな」
天野のその後は分からない。客観的に見れば就業規則違反をし、会社や所属する従業員の評価を下げるかもしれない行為をやった、『違反で解雇に至った劣悪な従業員』である。
そんな天野ではあるが、ゆず子はこれからも何度も、彼女のことを思い返して案じるのだろう。
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