鳴瀬ゆず子の社外秘備忘録 〜掃除のおばさんは見た~

羽瀬川璃紗

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先行投資 ※大怪我の後遺症、及びそれによる金銭苦的表現あり

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 いつだったか、『老後2000万円問題』という話が持ち上がった。
 老後の30年間で約2000万円が不足するという、どこぞの機関で試算した話なのだが、いつからか『定年を迎えた時点で2000万円の預貯金が無いと危ない』みたいにすり替わり、昨今の投資などの誘い文句に使われている。

(老後の資金不足ねえ…。まあ、働き口もセーフティーネットも、探せば幾らでもあるんだけれど)

 御年68歳、シニアでありながら現役労働者であるゆず子は考える。
 最近は清掃業だけでなく、色々な職場でシニアの従業員(再雇用含む)を見かけるようになった。
 ゆず子が若い頃は、老人が働いていると『金銭苦?』という偏見を抱いたものだが、いざ自分がその業界に入ると『暇つぶし』『小遣い稼ぎ』『ボケ予防』『運動』など、様々な目的を持った元気な先輩方が居て、自分の視野の狭さを痛感したものだ。

(預貯金は、あればあるほどいいわよ。でも『投資』は、ねえ…)

 ゆず子はふと、ある建物を見上げた。

(あれはまだ、世の中がスマホでなくケータイだった頃だから、何年前だったかな…)



「武蔵川先輩、ケータイ買い換えたんですか? しかも最新⁈」

 目を丸くする後輩に、ピカピカな漆黒の機種を見せつけたのは、製造部:武蔵川洸貴むさしかわ こうき
 武蔵川は得意げな笑みを浮かべた。

「こないだの休みに、迎えに行った。いいだろ?」

「これ、めっちゃ高いじゃないですか。よく買えましたね」

「自分の稼いだ金、自分のためだけに使いたいじゃん? 言わば自己投資だよ」

「いいなあ、俺も新しい機種欲しいけど、嫁に『んな金無えわ』って言われて…」

 ジト目をする後輩に、武蔵川は苦笑する。

「可愛い嫁と子供居るんだから、ケータイよりそっち優先だろ?」

「わかってますけど~」



 武蔵川は、結婚願望が無い事を公言している。

「確かに、姉貴のとこの甥と姪は可愛いし、よく遊んだり玩具買ってあげたりしますよ。でも自分の子が欲しいかって言ったら、そこまで至らないって言うか」

「ふーん。今はそうでも『運命を感じる出会い』があったら、考え方変わるもんよ?」

「無い無い無い! 俺の友達デキ婚してる奴多いけど、可哀想っすよ。働いて貰った金は全て家計に使われて、仕事休みは全て家族サービスで使われちゃうし。
飲むと愚痴られますもん。『俺、何のために生きてるんだろう?』って」

 周りの既婚者に『結婚生活の愚痴』を吹き込まれたからか、武蔵川は結婚にメリットを感じないため、独身主義者を自称している。



 休憩中のパートタイマーの主婦2人が、武蔵川の話をしていた。

「こないだ、武蔵川くんが女の人と滝童SCたきどうショッピングセンターのステーキ屋さんに入るの見たよ。割と可愛い彼女だった」

「へー、『俺は結婚しない』って言ってたけど、やっぱ彼女居るんだね」

「でも彼女出来ても、長続きしないみたいよ。独身主義だし、『なんちゃって1人暮らし』だから」

 その言葉に、思わずゆず子も視線を送った。片方のパートタイマーは尋ねた。

「『なんちゃって』って、どういう事?」

「あの人、1丁目のアパートに住んでるけど、そこお父さんが経営してるらしくて。身内だから家賃は払ってないんだって」

「えー、羨ましい特権ね~」

「しかも、食事は毎回お母さんの作った物を食べに、歩いて数分の実家に通ってて。更に掃除もゴミ出しもやってもらってる、名ばかりの1人暮らし」

「うわ、ほぼ実家暮らしじゃん、それ」

 パートタイマーは眉をひそめて言った。

「自分の稼いだお金は自分だけで使いたいって言ってるけど、毎月全額使い切ってる様な使い方みたいなんだよね。たまに携帯使用料、滞納して電話止まる事もあるらしいし」



 自分の陰口を知ってか知らずか、武蔵川はこんな話をゆず子にしてきた事もあった。

「俺の独身主義を『イコール将来設計の出来ない人』って思ってる人多くて、何かムカつく」

「あー。武蔵川くん、お金の遣い方が豪快だもんね」

「俺、この仕事してるのは、夜勤や休日出勤で手当てついて、相場より少し高い給料だから働いてるんですよ。確かに、多少使い過ぎる事はあるけど、借金なんてした事も無いし。
『あいつあんなに金遣って…』なんて羨ましがる暇あるなら、もっと働けばいいのに」

 武蔵川は口を尖らせて言った。ゆず子は感心して言った。

「若いのにちゃんと考えてるのね。すごいわ」

「でしょ? 社会保険もこの仕事さえ辞めなければ、加入しているから安泰だし。あと、定年後は親父のアパート経営、継げば収入確保出来るしね」

 ゆず子は尋ねた。

「お父さん、それを見越してのアパート経営なの?」

「ええ、まあ。じいちゃんが生前使ってた農地を活用したんですよ。良いっすよ、不労収入」

 武蔵川は二カッと笑った。

「貯金はしてるの?」

「いやあ、最近までやってなくて。今年の4月から、積み立てで強制的に月1万円持ってかれるやつ、オフクロに言われて始めました」

(いま8月だから、まだ4万前後ねえ…)
 思いつつも、宵越の金を持たない彼からすれば、良い心掛けか。ふんふん頷くゆず子に、武蔵川は言った。

「あと俺がやってるお金の対策としてはねえ、甥と姪なんですよ」

「甥と姪?」

「ええ。誕生日とかクリスマスとか、欠かさず玩具あげてるし、遊びに来た時はお小遣いもいっぱいあげてるんです。俺に何かあった時、面倒見て欲しいから」

(『恩』を売っている、と?)
 それを聞いたゆず子は、何とも言えない表情になった。



 翌年、武蔵川を不幸が襲った。暮らしていたアパートが火災で半焼、建て替えが必要となり、契約していた住民を全員退去させる事になったのだ。

「武蔵川くんとこのアパートって、電気工事の手抜きで問題になった△工務店だったんでしょ? 原因それじゃない?」

「聞いた話では電気系統の工事、他社もやってて因果関係が証明出来ないから、賠償厳しいとか。しかし何でまた、あんなとこに頼んで建てちゃったかねえ? 当時から『あそこはヤバい』って有名だったのに」

「武蔵川の父さん、『将来の収入確保に』とか『アパート経営は儲かる』って、口車に乗せられて碌に考えないままやっちゃったんだろうね。アパート経営って、建設資金を家賃収入で返済するから、黒字になるまで10年以上かかるのが常識なのに」



 武蔵川の父は、負債を抱えるのを覚悟で再建の道を選んだ。武蔵川自身は火災前と変わらず振舞ってはいたが、ゆず子に愚痴を言ってきた。

「親父が『家にもっと金を入れろ』ってうるさいんですよ~。入った火災保険使っても、はみ出た負債しょったのは自分のせいなのに、何で俺が親を食わせなきゃなんないんだか」

「でも実家で暮らしてるんでしょ? 仕方ないわよ」

「冗談じゃないっすよ、親の負債で子に報いって! 俺、絶対アパート相続しねえ」

 武蔵川は交際中の彼女の家に転がり込んで、実家を避けた生活を始めた。ゆず子もその後に配置転換となり、後任には同僚である佐野が配置された。



「そう言えば鳴瀬さん、○○ロジスティックスって前まで行ってたよね?」

 それから2年後。新年会で同じテーブルになった時、佐野はゆず子に話しかけてきた。

「ええ、そうよ。何かあった?」

「武蔵川って言う、男の子分かる? 去年、会社辞めちゃったのよ」

「武蔵川くんが? 新卒からやってたけど、転職?」

「それがさ、酔って駅前のビルの階段から落ちて、頭に大怪我したのよ。なかなか意識が戻らなくて少し危なかったの」

「ええ⁈ そんな事が?」

「2ヶ月入院してね、リハビリもしてたみたいなんだけど、記憶障害と歩くのが難しいらしくて。仕事、続けられそうもないから、退職したんだ」

 在りし日の元気な姿を思い出し、ゆず子は視線を落とした。

「…まだ若いのにね」

「本当、そうだよね。親御さん大変だよ。未婚で世話してくれる嫁も居ないから、親が看ないといけないし。宵越の金を持たない主義で本人に碌な蓄えもないから、食べさせるのも親の年金でしょ? 経済的にも日常的にも大変だよねぇ」

「武蔵川くんのお父さん、アパート経営してたよね?」

「あー、あまり人が入ってないって聞いたよ。『新築だからって家賃吊り上げすぎ!』って、おばちゃん達が言ってた」

(さてはお金の回収に目が眩んだのかしら…)
 考えるゆず子に、佐野は話を続ける。

「もし将来、親御さんが居なくなったら、彼どうなるんだろうね。そういう施設に入るのかな…」

「可愛がってる甥っ子と姪っ子居るって聞いてたけど、その子達が面倒を?」

 ところが佐野はこんな事を言った。

「それは無いかも。一昨年かな、彼のお姉さんが事故死してね。旦那さんである義理のお兄さん、仕事で家を空けるの多いから、実家のある広島に引っ越しちゃったんだ。
元々義兄さんとお父さんの仲は良くなくて、お姉さんの葬儀でも一悶着あったから、それ以来甥と姪には会ってないって武蔵川くん言ってたんだよね。
…って言うか、『会わせない』ようにしてるのかも」

 それを聞き、ゆず子はポツリと呟いた。

「…甥っ子姪っ子達は、どう思ってるんだろうね?」

「さあね。本当に懐いてたんなら、向こうから自主的に来るでしょうよ」


 ここまで不幸が重なるのも珍しいものだが、きっとゆず子達の知らないところで、『トリガー』となる出来事も色々あったのだろう。


 彼は今も、少ない手持ちをやりくりして、甥と姪にプレゼントを買い、贈っているのだろうか。『いつか自分の面倒を見てくれるように』と。
 成長していく甥と姪は、そのプレゼントの意味にいつか気づくのだろうか。気付いたその時、これまで通りに受け取るのか。彼の真意を汲んで、望みを叶えてあげようとするのだろうか。


 ゆず子の通勤ルート上には、武蔵川の父が経営するアパートが今日もひっそりと建っている。
 眺める度、武蔵川の屈託の無い笑みを思い出し、ゆず子は何とも言えない気分になるのだった。

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