鳴瀬ゆず子の社外秘備忘録 〜掃除のおばさんは見た~

羽瀬川璃紗

文字の大きさ
上 下
72 / 99

依怙贔屓 ※流産表現あり

しおりを挟む
 『ひいき』と『えこひいき』という2つの言葉がある。どちらも『気に入って特別扱いする』的な意味だと思っていたが、2つの言葉には、決定的な違いがあるという。


(あたしは『贔屓』が通称で『依怙贔屓』が正式名称、って使い分けだと勘違いしてたな)

 違いを知ったゆず子からすれば、あの人は完全に『依怙贔屓』の人間だろう。



「お疲れ様です」

 営業企画部。入社5年目の幸野陽花里ゆきの ひかりは、すれ違う時に朗らかな挨拶をゆず子にした。

「本当、幸野さんは掃除のおばちゃんにもちゃんと挨拶するもんな。親御さんがしっかりしているんだねぇ」

 部長の伏見亮太郎ふしみ りょうたろうが目を細めて褒めると、ゆず子も言った。

「そうですね。でもここの部署、門間さんも他の男性達も、ちゃんと挨拶してくれますよ」

 門間暮波もんま くれはは入社7年目、幸野の2つ先輩の女子社員だ。可愛らしくて華がある幸野に比べると地味だが、沈着冷静で齢の割に落ち着いたところがある。

 伏見はさも当然の様に答えた。

「いやいや、幸野さんのお陰だよ。彼女が挨拶するから、皆つられて挨拶するようになったんだよ」

(いやいや、挨拶は幸野さんが配属される前からだぞ)
 口には出さず、ゆず子は業務に戻る。



 伏見は、幸野を猛烈に依怙贔屓している。元々、ここの部署は男性が多めなので、伏見に限らず女子社員をもてはやす男性は内部にも外部にも居るが、伏見のは目に余るほどだ。

「門間さん、先週言ってたあの企画書なんですが…」

 話しかけたのは、幸野と同期の男性社員。

「あ、パイソンビルドの件なら、幸野さんに移ったよ」

「え? また幸野さんに?」

「うん。だからあたし、今その件ノータッチ」

「そうですか…」


 湯沸室では、今日も女性達が井戸端会議を繰り広げている。

「伏見部長、また門間さんにめんどくさいとこ、やらせるだけやらせてから幸野さんに渡して、幸野さんの手柄にしたみたいね」

「依怙贔屓にも程があるって~。門間ちゃん可哀想、文句言えばいいのに」

「噂では、門間さんより幸野さんの方が給料良いみたいだよ。門間さんの方がキャリアも実力もあるのに」

 周りはそう言って案じていたが、本人同士の関係は至って良好だった。

「この企画、途中から私がやる意味、あるんでしょうか? 発案者である門間先輩が、担当した方がいいと思うんですけど」

 幸野が言うと、門間は鼻で笑う。

「外野が言う事なんて気にしなさんな。あたしが入社した時も、最初に先輩が発案したやつを任されてたよ。これはれっきとした業務の分担で、立派な仕事!」

(門間さん、若いのに人が出来てるのね)
 ゆず子は感心した。実際、門間からは不平不満を聞いた事もなかったのだ。



「他部署も同じ部署の人も、『幸野さんへの依怙贔屓のために、伏見部長にいいように使われてるよ』って言って来るんですよ。心外だなあ、全く」

 トイレ掃除中、化粧直しに訪れた門間は、鏡越しにゆず子へそう言った。

「実情を知らないひとは、そう思うでしょうね」

「ははは。…そうそう、幸野さんて実は縁故採用なんですよ。お母様が伏見部長の元上司さんで。病気を機に退職されたみたいですけど、管理職のバリキャリママ社員だったそうです」

「へえ、そうなんだ」

「そう。だから、若干の贔屓目はあるかもしれないですね。でもね、彼女も彼女で結構大変なんですよ? 会社設立以来初の女性で管理職を務めた人の娘なもんだから、上層部も取引先も知ってて期待されてるし。陰で彼女を支える役目を誰かがしないと、潰れちゃいますよ」



(前もそういう職場あったけど、『女性が活躍してる職場』っていうのが一種のノルマと化してるのよね)

 本来の意味で、仕事を頑張り努力が認められた女性を称えるのではなく、『女性の活躍してる会社なので良い企業です』と宣伝するために、社内で色々と業務を申し合わせして『活躍モデル』を創り出す…。
 昨今、そんな企業が増えてはいないだろうか。

(まあ、分け隔てなく活躍してる企業なら、敢えて言わないわよね)



「総務課の河崎さんが、授かり婚したらしいですよ」

 ゆず子が出向したある時、伏見と幸野がそんな話をしていた。伏見はしかめ面をした。

「授かり婚ねえ…。言い方だけおめでたくした、ただの婚前妊娠じゃないか」

「あら。伏見部長は『順番重視』なんですね」

 ゆず子が言うと、伏見は頷いた。

「俺はああいうの嫌いだよ。先の事を考えず目先の欲だけで動いた結果、みたいだし」

「そうですか? でも、おめでたいですよね」

 幸野がそう口添えしたが、伏見は首を竦める。

「ハタチ前後の子がそうなるならともかく、河崎さん30にもなってこんななんて、恥ずかしくないのかねぇ。幸野さんはそういうこと、ならないようにね」

「まあ、なろうにも相手が居ないので」

 幸野は笑っていた。



 勿論、伏見世代でも『授かり婚』の夫婦は存在する。昭和時代に生まれ育った者の中には、婚前妊娠に眉をひそめる人間も多かったのだ。

(うーん、現代でも事情によっては完全に祝福して貰えないからね。こればかりは個人の考え方によるわよね)

 そんなおめでた話も、すっかり忘れた時の事だ。男子トイレを掃除していると、用を済ませた伏見がゆず子にこんな話をしてきた。

「…鳴瀬さんて、苦手な乗り物ってあります?」

「乗り物?」

「そう。船酔いするから、船は無理みたいに」

「うーん…。タクシーかしら? たまに前のお客さんのものか、運転手さんのものか、整髪料の匂いがキツイ車あるじゃない? そういうのちょっと苦手なんです」

「成程ね。でも、短距離だけとか、やむを得ずなら乗れます?」

「まあ、何が何でも無理…ではないかな」

 ゆず子が答えると、伏見は言った。

「実はね、来月神戸で大事な仕事をする事になりましてね。うちの会社から僕と田村と、幸野さんの3人が10日間出張する予定なんですよ」

「へえ、10日間も」

「ええ、2年前から携わっていた企画が実を結びましてね。距離があるから飛行機を使う予定なんですけど、幸野さんが『飛行機苦手だから無理』って渋っちゃって…」

「あらま、高所恐怖症とか?」

「多分ね。後は酔いやすいとか? でも彼女も関係してる仕事だから、除外する訳にも行かないんですよ。会社的には後学のためにも、田村や幸野さんを是非連れて行きたいし」

「そういう事ですか…。飛行機以外の交通手段とか?」

「いやぁ、現実的じゃないな。乗り換えと移動だけで丸一日かかっちゃうし。でも、苦手って言ってるのに無理矢理乗せたら…、それこそパワハラになっちゃいますよね?」

 伏見は『彼方立てれば此方が立たぬ』の如く、思い悩んでいるようだった。

「幸野さんだけ陸路にすると、会社としては難しい感じですか?」

「まあ、ね。俺が経理に上手く言えば何とかなるかもだけど。…完全に愚痴ですね、すみません」

 伏見は苦笑いで後にした。



 約半月後、湯沸室で女子社員がこんな話をしていた。

「門間さん、とうとう我慢が限界に来たんだね」

「ああ、神戸のグランドコンペ?」

「あの最終選考に残ったやつって、元々は門間さんが出した案なんでしょ? もし採用決まれば会社初の快挙だもん。そりゃあ行きたいよ」

 伏見と幸野らが行く予定の出張に、門間が行きたいと申し出て、ちょっとした騒ぎとなっているというのだ。

「幸野さんも流石に尻込みするって。だって、幸野さんが立役者みたいに仕立てられているけど、所詮『他人のなんちゃらで相撲取る』な訳でしょ。幸野さん行き渋りするの、当然じゃん」

「でもさ、伏見部長も公私混同だよね。絶対に幸野さんを連れて行くって固いみたいで、幸野さんには『社会人だろ、ごねるな』、門間さんには『次のチャンスきっとあるから、それでいいだろ』とかって説得してるんでしょ? 全部署に知れ渡ってんだよ、そのくだり」

 伏見の依怙贔屓の話は、湯沸室だけではなく、社内全体で噂になっていた。


(あら)

 女子トイレの掃除に入ったゆず子は、ある人物の姿を見て一瞬立ち竦んだ。手洗い場の前に、半泣きの幸野と、唇を嚙み締めた門間の姿があったからだ。

「…お疲れ様です」

 平静を装いゆず子が声を掛けると、2人はハッとして鏡へ顔を向け、鏡越しに声を上げた。

「「お疲れ様です」」

(…これは。『修羅場』だったのかしら)

 妙な空気のまま、2人はそそくさとトイレの外に出て行った。


(『活躍のための犠牲』か…。これが社会の現実よね)

 活躍を約束されたにも関わらず、周囲のプレッシャーに耐えられなくなり、一方は仕事を頑張ったにも関わらず、誉れを正当に祝われない。
 それとも、我慢の限界に達し、『今回ばかりは自分に戻せ』と迫ったのか。

(どっちも未来のある、若い女の子なのに)

 こういう時、外部のポジションのゆず子は、何とも言えない疎外感と遣る瀬無さに苛まれるのだ。



 そして迎えた出張。いつもより人数の少ない営業企画部には、いつものように仕事をこなす門間の姿があった。

(門間さん…)

 門間の姿を見たゆず子は、締め付けられるような気分だったが。


 翌週の営業企画部に、門間の姿は無かった。

(病休?それとも?)

 ふと見た社員の予定一覧ホワイトボード。『門間』の欄には、『神戸』の文字が書いてあった。

(出張、行ったんだ)

 そして『幸野』の欄にも、『神戸』の文字。田村と伏見も『神戸』と書いてあった。

(結局4人で行くことになったのかしら)

 ゆず子が思いがけない話を聞いたのは、それから半月後のことだった。



「伏見部長の降格、幸野さんの流産が関係してたみたい」

 湯沸室の女子社員の言葉に、ゆず子は思わず掃除の手が止まった。

「流産⁈ ずっと休んでるのって、それだったんだ。え、でも未婚っしょ?」

「そうだよ、未婚。でも何か、元カレと再会して『元サヤ』ってやつ? 復活したとこだったらしい」

「えー、ちょっと待って。あたしは出張中に体調崩して、急遽門間さんが神戸に向かって、コンペ成功させたって聞いたけど、流産いつ?」

「…出張中。渋ったの、妊娠が分かったからだったんだろうね」

「流産って、本当なの? あたしは出張直前に門間さんが、『あの子、妊娠してるので、出張外してあげてください』って言って、伏見部長が『嘘までついてそんなに行きたいか!!』って、怒鳴ったって聞いたよ?」

「それも本当。結局、飛行機で行って、滞在二日目の夜に大出血で搬送されたんだって。何で妊娠のこと、言わなかったんだろうね? 仕事なんかより大事じゃん」

 噂話をしていた3人は、暗い表情をしていた。



 ゆず子が門間と顔を合わせたのは、それから更に半月後の事だった。女子トイレで会った門間は、いつもと変わらぬ様子だった。

「お疲れ様です。久しぶりですね」

「お疲れ様です。…色々大変だったようね」

 体調の戻らない幸野は病休中、伏見は1つ下の役職へ降格、コンペで成功をおさめた門間は昇進し役職に就いた。門間は目線を落とし、控えめな笑みを浮かべた。

「ええ、ポジションが変わったので、挨拶回りとかで多忙でした。このひと月は、会社に居る時間がほとんどなかったですね」

 門間は化粧ポーチのファスナーを弄りつつ、話を続けた。

「そうそう、幸野さん先日結婚したんですよ」

「あらま」

「5年くらい、つかず離れずだったらしいけど、これを機に身を固めるって決めたんですって。来週から出勤するそうです」

「そうなのね」

ゆず子が返すと、門間は独り言のように言った。

「…彼女ね、ずっと悩んでいたんだそうです。『本当の事を言ったら、社会人として幻滅される』って」

 思わずゆず子が目をやると、門間は笑った。

「『言語化』って大事ですよね。いい事も悪い事も、多少の不平不満も。…口にしないのが社会人の美徳って思ってたけど、そうじゃないって事を今回思い知りました」


 予期せぬ妊娠に口を閉ざした幸野、不平不満があったのに口を閉ざしていた門間。
 不幸な出来事は、言葉足らずのせいで勘違いされ起こってしまったのか、依怙贔屓のために冷静な判断を欠いたせいで起こったものなのか。


 ゆず子が言いきれる事はただ1つ。『贔屓の引き倒し』は、現実に存在する。何でも度を超すと、誰の為にもならないものなのだ。

しおりを挟む
感想 94

あなたにおすすめの小説

ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます

沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

『食管法廃止と米の行方一倉庫管理者の証言』

小川敦人
経済・企業
エッセイ『食管法廃止と米の行方――倉庫管理者の証言』は、1995年に廃止された食糧管理法(食管法)を背景に、日本の食料政策とその影響について倉庫管理者の視点から描いた作品です。主人公の野村隆志は、1977年から政府米の品質管理に携わり、食管法のもとで米の一元管理が行われていた時代を経験してきました。戦後の食糧難を知る世代として、米の価値を重んじ、厳格な倉庫管理のもとで働いていました。 しかし、1980年代後半から米の過剰生産や市場原理の導入を背景に、食管法の廃止が議論されるようになります。1993年の「タイ米騒動」を経て、1995年に食管法が正式に廃止されると、政府の関与が縮小され、米市場は自由化の道を歩み始めます。野村の職場である倉庫業界も大きな変化を余儀なくされ、彼は市場原理が支配する新たな時代への不安を抱えながらも、変化に適応していきます。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

男と女の初夜

緑谷めい
恋愛
 キクナー王国との戦にあっさり敗れたコヅクーエ王国。  終戦条約の約款により、コヅクーエ王国の王女クリスティーヌは、"高圧的で粗暴"という評判のキクナー王国の国王フェリクスに嫁ぐこととなった。  しかし、クリスティーヌもまた”傲慢で我が儘”と噂される王女であった――

壁乳

リリーブルー
BL
俺は後輩に「壁乳」に行こうと誘われた。 (作者の挿絵付きです。)

処理中です...