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あの子 ※医療ケア児の死、きょうだい児に関する表現あり
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シャルマン登美野のエントランスホールを掃除していると、背の高い男が入ってきた。
何気なくゆず子が目をやると、住民である益川慧臣だった。ゆず子は声を上げた。
「サトくん⁈ あら、しばらく見ない間に大きくなったわね!」
「久しぶりです」
「今日は午前授業?」
「はい。テストです」
「あらら、大変ね。お勉強頑張って!」
「はーい」
慧臣は照れ笑いでエレベーターに向かった。
(サトくんも中学生かあ。いつの間にか、こっちが見上げるくらいに背も高くなっちゃって)
ゆず子は後姿を見ながら、初めて会った頃に思いを馳せた。
ここへの出向が始まり、まだ数回ぐらいの頃。
花粉が付着したエントランスホールの入口扉とゆず子が格闘していると、集合ポストの真下で、座ってゲームをする少年が居るのに気づいた。
(ここの子かしら。そっか、いま春休みか)
小学校2,3年生くらいか、少年は鼻をすすりながら、一心不乱に携帯型ゲームを続けている。ゆず子は声をかけた。
「こんにちは」
少年はゆず子を一瞥した後、無言でゲーム画面にまた見入った。
「今日天気いいから、花粉すごいよね。ここの戸なんて、ちょっと拭いただけでこんなに黄色になっちゃった」
花粉で染まった雑巾を見せたが、少年はノーリアクション。ゆず子も話しかけるのを辞めた。
(警戒してるか、反抗期入りかけか、って感じね。そっとしておきましょう)
少年は、出向する度にエントランスホール付近に居た。見掛ける度、いつもゲームに勤しんでいた。
(『カギっ子』ってやつなのかしら。でも春休みの日中だし、友達と一緒に遊んだり出かけたりしててもいい時間帯よね)
ゆず子はまた話しかけてみた。
「いつもゲームしてるけど、ゲーム好きなの?」
すると、少年は途端に牙を剥いてきた。
「うるせえ! 清掃員ごときが話しかけてくんじゃねえ!!」
(あらあら)
ところが、ある人物が口を挟んできた。
「『清掃員ごとき』ねえ、あんたの父ちゃん母ちゃん、そんな風に物を言ってんの?」
マンションの最上階に住む、オーナーの津山だ。津山は続けた。
「この人はねえ、あたしの友達なんだよ。この人のおかげでマンションが綺麗になっているってのに、何て口の利き方なんだい?」
津山がギロリと見ると、居たたまれなくなったか、少年は踵を返しエレベーターに飛び乗った。ゆず子は言った。
「別にいいんですよ、子供の言う事だし」
「子供だからだよ。あのまま碌でもない大人になる前に教えないと」
思えば、ゆず子と津山が話すようになったきっかけは、それだったかもしれない。
次に行った時、少年の姿は何処にも無かった。
(気まずいから、家に居るのかしら)
飼い犬の散歩帰りだった津山は、こう言った。
「昨日から新学期だからね。今日この時間は居ないよ」
「あ、そういう時期か」
「あの子も色々あって、可哀想なんだ。不躾な子だけど、許してやってよ」
「色々、ですか?」
「うん。生まれつき重い病気の弟が居てね。入退院繰り返してて、母親は付きっきりでお世話。父親も忙しい仕事してるから、あまり構われてないみたいなんだ」
津山は郵便ポストの丁度その名前辺りを見つつ、話してくれた。
「そうだったんですね…」
ゆず子が少年と再会したのは、ゴールデンウイークの頃。
「こんにちは。サトオミくん」
急に名を呼ばれ、慧臣はギョッとした顔をした。ゆず子は言った。
「オーナーと友達だから、名前を教えて貰ったんだ。あたしの名前は、鳴瀬って言います。よろしくね!」
慧臣はジッと自分の足元を見下ろした。返答を待たず掃除の続きに取り掛かると、慧臣は独り言の様に呟いた。
「…本当に友達? だって、業者じゃん?」
「ん? 友達だよ。確かに、業者と依頼主の関係だけどね。ここでの仕事始まって、話すようになってから友達になったの。津山さん、イイ人だよね!」
慧臣は下を向いて、何かゴニョゴニョ言ってたが、振り絞る様な声を出した。
「はぁ? んな訳ねえじゃん」
慧臣はマンションの外へ駆けだして行った。
「鳴瀬さん、終わったら管理人室でお茶してってよ」
「えー、いいんですかぁ? こないだに続いて今日もなんて」
ゆず子の業務終了間際、すっかり距離の縮んだ津山が話しかけてくると、丁度慧臣が戻って来るところだった。津山は続けた。
「いいじゃん。ここでは、掃除後のお茶飲みまでが業務。これは依頼主様からの要請~。あら、サトくんいま帰り?」
幼いながらも、マンションオーナーの津山の事は分かっているので、慧臣は無言で頷いた。津山は言った。
「サトくんもおいでよ。貰ったクッキー、食べるの手伝って!」
「…何かあたしさぁ、バターとの相性が悪いんだよね。齢の所為か、沢山食べると胸焼けするっていうか」
クッキーを食べつつ津山の話を無言で慧臣は聞き、ゆず子は相槌を打った。
「齢もだけど、アレルギーもあるんじゃない? マーガリンは?」
「マーガリンは元から好きじゃないや。サトくんはアレルギーある?」
「…無い、です」
消え入りそうな小声で、慧臣は言った。津山は話を切り出した。
「弟くん、今は入院してるの?」
「…来週、退院する」
「そうなんだ。良かったね、ママ帰ってくるじゃん」
「良くない。帰って来てもお世話あるし」
口を尖らせた後、慧臣は怪訝な顔で尋ねた。
「…2人は本当に友達なの?」
津山とゆず子は一瞬呆気に取られた表情をしたが、笑顔で答えた。
「友達だよ」
「うん。友達だから、お茶に誘ったんだよ」
「友達って、絶対居ないといけない?」
慧臣は間髪入れずに問いかけた。ゆず子は答えた。
「『居ない』よりは、『居た』方がいいけどね」
(そう言えば、見かける度に1人でゲームしてたっけ。遊び友達、居ないのかな)
津山は、こう答えた。
「別に。居なくてもいいと思うよ」
慧臣は津山の言葉に、意外そうな表情をした。津山は続けた。
「友達は居なくてもいいんだよ。でも、『居ない』と『孤独』は別。『孤独』にならないように、他人を思いやる心は、最低限あった方がいい」
津山は茶を一口飲むと、話を続けた。
「大人になってもね、何かに困ることは沢山あるの。お医者さんにかからないと治せない病気もあるでしょ?
誰かに助けて欲しいとき、他人を思いやる心を持ってない人だと誰も助けてくれない。『あいつは嫌な奴だから』ってね。友達なんか居なくても、他人を思いやる心を持っていれば、誰かは助けてくれるものなんだよ」
思う所があるのか、慧臣は俯いてクッキーを見つめていた。
「…あ、今日来る日なんだ」
学校が夏休みに入ると、慧臣はゆず子の出向を待つようになった。ゆず子は笑顔で挨拶した。
「おはよう、サトくん。もう夏休みなんだね」
「うん」
慧臣はゆず子が作業する傍らで、色々と話しかけてきた。
「何処から来てんの?」
「駅の向こうよ。そこに会社がある」
「おばちゃん、社長なの?」
「まさか」
話す回数が増えるにつれて、段々と心を開くようになった。
「この前、弟の誕生日だった」
「何歳?」
「2歳」
「2歳かあ、可愛いわよね。一緒に遊んだりするの?」
「しない。寝てばっかりだし、吸引も必要だし」
ゆず子はその言葉に、津山が言っていた話を思い出した。
(『重い病気』って、言ってたっけ)
慧臣はゆず子に説明をしてくれた。
「弟は、本当なら11月に生まれる予定だったんだ。でも、心臓の病気のせいで早くなって、7月に生まれた」
「そうなのね」
8月。慧臣はルンルン気分でゆず子に言った。
「あのね。今度『ランド』に行く事になった」
「へえ、『ルータランド』? いいわねえ」
「カズオミが安定してるから、ばあちゃんじいちゃんに見て貰って、3人で行く」
慧臣は今まで見た事も無いくらい、明るい表情だったのだが。
次に会った時、慧臣はとても暗い顔をしていた。
「…カズオミが具合悪くなって、母さん行けなかった」
「そうだったの…」
「いつも母さん留守番だから、一緒に行けると思ったのに」
遊園地に行ったのに、慧臣は泣きそうな顔だった。
「サトくん…」
慧臣は腕で目の周りを拭った後、呟いた。
「…カズなんか、居なければよかったのに」
2学期が始まり、慧臣とまた顔を合わせる事はなくなった。気にはなるが、所詮他人の家の子供である。
「サトくん? うん、ちゃんと学校に行ってると思うよ」
「そうなの?」
津山はかりんとうを食べつつ、教えてくれた。
「お父さん基本的に仕事で居ないし、お母さんとも顔を合わせないから、よく分かんないんだよね」
いつしか、街中にクリスマスソングが流れるようになった。ゆず子が業務中の時のこと。
(…?何だろう)
何処かで女の喚き声と、子供が叫ぶ声が聞こえた気がした。
(子供を𠮟っている声かしら)
ふと手を止めて耳を澄ませると、一番奥の部屋のドアが開いた。
「『ゆうどう』って何⁈ どうすればいいの?」
「とにかく、1階に行って!! 救急車の人に、どこの部屋か教えるの!」
出て来たのは、慧臣だ。立ち竦む姿に、ただ事じゃないと思い、ゆず子は声を上げる。
「サトくん!」
ドアまで近づいたゆず子が見たのは、玄関の上がり口で、小さな子供に心肺蘇生を施す女性。女性は心臓マッサージをしつつ、声を張り上げる。
「カズ! カズ!」
「…なるせ、さん」
慧臣の涙声に、ゆず子の身体が勝手に動く。
「救急車は呼んだのね? 誘導します!」
その日は、仕事にならなかった。救急車を誘導し、慧臣の母と弟を乗せ病院へ。
1人残された慧臣を管理人室で預かり、連絡を受けた祖母の到着後に引き渡しをした。
「亡くなったみたい」
正月休み明け、津山はゆず子にこっそりと教えてくれた。
「お母さんも精神的に参っちゃったみたいでね、実家で休んでるとか。サトくんも可哀想で見てらんないくらいよ」
弟の夭折後も、一家は暮らし続け、現在に至っている。
「サトくん、久しぶりに見たけど、大きくなったわね。見違えた」
ゆず子が言うと、津山も茶を飲みながら頷いた。
「そうね。親父じゃなくて母親に似たわね。今年の夏から塾に通い始めたみたいだよ」
「へえ、中一なのに?」
「進学校を受験するんだって、A高」
「A高? まさか医学部を受験するの?」
ゆず子が言うと、津山は笑った。
「医者じゃなくて、カウンセラー志望なんだって。『薬や手術をしなくても、人を救いたい』って言ってた」
皆で見守り続けた少年は、確実に大人へと成長している。辛い出来事を乗り越えた彼が、心に傷を負った誰かを救う未来を、ゆず子達は心から願っている。
何気なくゆず子が目をやると、住民である益川慧臣だった。ゆず子は声を上げた。
「サトくん⁈ あら、しばらく見ない間に大きくなったわね!」
「久しぶりです」
「今日は午前授業?」
「はい。テストです」
「あらら、大変ね。お勉強頑張って!」
「はーい」
慧臣は照れ笑いでエレベーターに向かった。
(サトくんも中学生かあ。いつの間にか、こっちが見上げるくらいに背も高くなっちゃって)
ゆず子は後姿を見ながら、初めて会った頃に思いを馳せた。
ここへの出向が始まり、まだ数回ぐらいの頃。
花粉が付着したエントランスホールの入口扉とゆず子が格闘していると、集合ポストの真下で、座ってゲームをする少年が居るのに気づいた。
(ここの子かしら。そっか、いま春休みか)
小学校2,3年生くらいか、少年は鼻をすすりながら、一心不乱に携帯型ゲームを続けている。ゆず子は声をかけた。
「こんにちは」
少年はゆず子を一瞥した後、無言でゲーム画面にまた見入った。
「今日天気いいから、花粉すごいよね。ここの戸なんて、ちょっと拭いただけでこんなに黄色になっちゃった」
花粉で染まった雑巾を見せたが、少年はノーリアクション。ゆず子も話しかけるのを辞めた。
(警戒してるか、反抗期入りかけか、って感じね。そっとしておきましょう)
少年は、出向する度にエントランスホール付近に居た。見掛ける度、いつもゲームに勤しんでいた。
(『カギっ子』ってやつなのかしら。でも春休みの日中だし、友達と一緒に遊んだり出かけたりしててもいい時間帯よね)
ゆず子はまた話しかけてみた。
「いつもゲームしてるけど、ゲーム好きなの?」
すると、少年は途端に牙を剥いてきた。
「うるせえ! 清掃員ごときが話しかけてくんじゃねえ!!」
(あらあら)
ところが、ある人物が口を挟んできた。
「『清掃員ごとき』ねえ、あんたの父ちゃん母ちゃん、そんな風に物を言ってんの?」
マンションの最上階に住む、オーナーの津山だ。津山は続けた。
「この人はねえ、あたしの友達なんだよ。この人のおかげでマンションが綺麗になっているってのに、何て口の利き方なんだい?」
津山がギロリと見ると、居たたまれなくなったか、少年は踵を返しエレベーターに飛び乗った。ゆず子は言った。
「別にいいんですよ、子供の言う事だし」
「子供だからだよ。あのまま碌でもない大人になる前に教えないと」
思えば、ゆず子と津山が話すようになったきっかけは、それだったかもしれない。
次に行った時、少年の姿は何処にも無かった。
(気まずいから、家に居るのかしら)
飼い犬の散歩帰りだった津山は、こう言った。
「昨日から新学期だからね。今日この時間は居ないよ」
「あ、そういう時期か」
「あの子も色々あって、可哀想なんだ。不躾な子だけど、許してやってよ」
「色々、ですか?」
「うん。生まれつき重い病気の弟が居てね。入退院繰り返してて、母親は付きっきりでお世話。父親も忙しい仕事してるから、あまり構われてないみたいなんだ」
津山は郵便ポストの丁度その名前辺りを見つつ、話してくれた。
「そうだったんですね…」
ゆず子が少年と再会したのは、ゴールデンウイークの頃。
「こんにちは。サトオミくん」
急に名を呼ばれ、慧臣はギョッとした顔をした。ゆず子は言った。
「オーナーと友達だから、名前を教えて貰ったんだ。あたしの名前は、鳴瀬って言います。よろしくね!」
慧臣はジッと自分の足元を見下ろした。返答を待たず掃除の続きに取り掛かると、慧臣は独り言の様に呟いた。
「…本当に友達? だって、業者じゃん?」
「ん? 友達だよ。確かに、業者と依頼主の関係だけどね。ここでの仕事始まって、話すようになってから友達になったの。津山さん、イイ人だよね!」
慧臣は下を向いて、何かゴニョゴニョ言ってたが、振り絞る様な声を出した。
「はぁ? んな訳ねえじゃん」
慧臣はマンションの外へ駆けだして行った。
「鳴瀬さん、終わったら管理人室でお茶してってよ」
「えー、いいんですかぁ? こないだに続いて今日もなんて」
ゆず子の業務終了間際、すっかり距離の縮んだ津山が話しかけてくると、丁度慧臣が戻って来るところだった。津山は続けた。
「いいじゃん。ここでは、掃除後のお茶飲みまでが業務。これは依頼主様からの要請~。あら、サトくんいま帰り?」
幼いながらも、マンションオーナーの津山の事は分かっているので、慧臣は無言で頷いた。津山は言った。
「サトくんもおいでよ。貰ったクッキー、食べるの手伝って!」
「…何かあたしさぁ、バターとの相性が悪いんだよね。齢の所為か、沢山食べると胸焼けするっていうか」
クッキーを食べつつ津山の話を無言で慧臣は聞き、ゆず子は相槌を打った。
「齢もだけど、アレルギーもあるんじゃない? マーガリンは?」
「マーガリンは元から好きじゃないや。サトくんはアレルギーある?」
「…無い、です」
消え入りそうな小声で、慧臣は言った。津山は話を切り出した。
「弟くん、今は入院してるの?」
「…来週、退院する」
「そうなんだ。良かったね、ママ帰ってくるじゃん」
「良くない。帰って来てもお世話あるし」
口を尖らせた後、慧臣は怪訝な顔で尋ねた。
「…2人は本当に友達なの?」
津山とゆず子は一瞬呆気に取られた表情をしたが、笑顔で答えた。
「友達だよ」
「うん。友達だから、お茶に誘ったんだよ」
「友達って、絶対居ないといけない?」
慧臣は間髪入れずに問いかけた。ゆず子は答えた。
「『居ない』よりは、『居た』方がいいけどね」
(そう言えば、見かける度に1人でゲームしてたっけ。遊び友達、居ないのかな)
津山は、こう答えた。
「別に。居なくてもいいと思うよ」
慧臣は津山の言葉に、意外そうな表情をした。津山は続けた。
「友達は居なくてもいいんだよ。でも、『居ない』と『孤独』は別。『孤独』にならないように、他人を思いやる心は、最低限あった方がいい」
津山は茶を一口飲むと、話を続けた。
「大人になってもね、何かに困ることは沢山あるの。お医者さんにかからないと治せない病気もあるでしょ?
誰かに助けて欲しいとき、他人を思いやる心を持ってない人だと誰も助けてくれない。『あいつは嫌な奴だから』ってね。友達なんか居なくても、他人を思いやる心を持っていれば、誰かは助けてくれるものなんだよ」
思う所があるのか、慧臣は俯いてクッキーを見つめていた。
「…あ、今日来る日なんだ」
学校が夏休みに入ると、慧臣はゆず子の出向を待つようになった。ゆず子は笑顔で挨拶した。
「おはよう、サトくん。もう夏休みなんだね」
「うん」
慧臣はゆず子が作業する傍らで、色々と話しかけてきた。
「何処から来てんの?」
「駅の向こうよ。そこに会社がある」
「おばちゃん、社長なの?」
「まさか」
話す回数が増えるにつれて、段々と心を開くようになった。
「この前、弟の誕生日だった」
「何歳?」
「2歳」
「2歳かあ、可愛いわよね。一緒に遊んだりするの?」
「しない。寝てばっかりだし、吸引も必要だし」
ゆず子はその言葉に、津山が言っていた話を思い出した。
(『重い病気』って、言ってたっけ)
慧臣はゆず子に説明をしてくれた。
「弟は、本当なら11月に生まれる予定だったんだ。でも、心臓の病気のせいで早くなって、7月に生まれた」
「そうなのね」
8月。慧臣はルンルン気分でゆず子に言った。
「あのね。今度『ランド』に行く事になった」
「へえ、『ルータランド』? いいわねえ」
「カズオミが安定してるから、ばあちゃんじいちゃんに見て貰って、3人で行く」
慧臣は今まで見た事も無いくらい、明るい表情だったのだが。
次に会った時、慧臣はとても暗い顔をしていた。
「…カズオミが具合悪くなって、母さん行けなかった」
「そうだったの…」
「いつも母さん留守番だから、一緒に行けると思ったのに」
遊園地に行ったのに、慧臣は泣きそうな顔だった。
「サトくん…」
慧臣は腕で目の周りを拭った後、呟いた。
「…カズなんか、居なければよかったのに」
2学期が始まり、慧臣とまた顔を合わせる事はなくなった。気にはなるが、所詮他人の家の子供である。
「サトくん? うん、ちゃんと学校に行ってると思うよ」
「そうなの?」
津山はかりんとうを食べつつ、教えてくれた。
「お父さん基本的に仕事で居ないし、お母さんとも顔を合わせないから、よく分かんないんだよね」
いつしか、街中にクリスマスソングが流れるようになった。ゆず子が業務中の時のこと。
(…?何だろう)
何処かで女の喚き声と、子供が叫ぶ声が聞こえた気がした。
(子供を𠮟っている声かしら)
ふと手を止めて耳を澄ませると、一番奥の部屋のドアが開いた。
「『ゆうどう』って何⁈ どうすればいいの?」
「とにかく、1階に行って!! 救急車の人に、どこの部屋か教えるの!」
出て来たのは、慧臣だ。立ち竦む姿に、ただ事じゃないと思い、ゆず子は声を上げる。
「サトくん!」
ドアまで近づいたゆず子が見たのは、玄関の上がり口で、小さな子供に心肺蘇生を施す女性。女性は心臓マッサージをしつつ、声を張り上げる。
「カズ! カズ!」
「…なるせ、さん」
慧臣の涙声に、ゆず子の身体が勝手に動く。
「救急車は呼んだのね? 誘導します!」
その日は、仕事にならなかった。救急車を誘導し、慧臣の母と弟を乗せ病院へ。
1人残された慧臣を管理人室で預かり、連絡を受けた祖母の到着後に引き渡しをした。
「亡くなったみたい」
正月休み明け、津山はゆず子にこっそりと教えてくれた。
「お母さんも精神的に参っちゃったみたいでね、実家で休んでるとか。サトくんも可哀想で見てらんないくらいよ」
弟の夭折後も、一家は暮らし続け、現在に至っている。
「サトくん、久しぶりに見たけど、大きくなったわね。見違えた」
ゆず子が言うと、津山も茶を飲みながら頷いた。
「そうね。親父じゃなくて母親に似たわね。今年の夏から塾に通い始めたみたいだよ」
「へえ、中一なのに?」
「進学校を受験するんだって、A高」
「A高? まさか医学部を受験するの?」
ゆず子が言うと、津山は笑った。
「医者じゃなくて、カウンセラー志望なんだって。『薬や手術をしなくても、人を救いたい』って言ってた」
皆で見守り続けた少年は、確実に大人へと成長している。辛い出来事を乗り越えた彼が、心に傷を負った誰かを救う未来を、ゆず子達は心から願っている。
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