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海獺 ※男性にとってデリケートな事柄の描写あり
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男子トイレを掃除中のゆず子は、鏡の前の取っ掛かり部分に、忘れ物がある事に気づいた。
(何だろう。小さい筒状ね)
手に取った長さ10センチ程の円筒形の細身の黒い容器には、デフォルメされた白いラッコの絵と白文字で『ラッコスプレー』と書かれていた。
(ああ、ヘアスプレーかデオドラントスプレーの類か。事務所に届けようっと)
ゆず子はそう判断し、回収した。
掃除終わりに事務室へ行き、ゆず子は件のスプレー缶を差し出した。
「お疲れ様です、あと失礼いたします。それから、男子トイレに忘れ物ありました」
対応したのは、経理の河北だった。
「はーい、忘れ物ですね。…なにこれ、ヘアスプレー?」
「デオドラントか髪用か。鏡の前にあったの」
「ふーん。見た事ないパッケージね。しかもこれしか書いてないんだ」
普通、スプレー缶ならば缶の表面に成分表やメーカーのロゴがあるものだが、その缶には見当たらない。
「…本当ね。何なんだろ、これ」
2人で首を傾げていると、廊下から勢いよく駆け込んだ人物が居た。
「すみません、鳴瀬さんは…? あ、居た!!」
やって来たのは、入社3年目営業課の満野泰志。満野は2人が眺める物を見て、息をのんだ。
「それ、俺が置き忘れたやつです。急いでいるんで、いいすか?」
満野は時間でも限られてるのか、大急ぎで缶をひっつかむと出て行った。
「…まあ、持ち主のとこに戻ってよかったわ」
ゆず子は深く考えず、その日の仕事を後にした。
それから半月後。廊下掃除をしていると、男子トイレから徳井が出て来るところであった。
「鳴瀬さん、これ見て」
「なーに?」
徳井の手にあったのは、漆黒の小さなスプレー缶。白いラッコの絵が描かれている。徳井はニヤニヤしていた。
「あら? これ…」
「これ知ってます? トイレに置き忘れてたんですよ、多分課長のやつ」
「ううん、これ満野くんのよ」
ゆず子が言うと、徳井は心底驚いた顔をした。
「え⁈ まさか」
「うん。この前も置き忘れてあってね。事務所に届けたら、取りに来たのよ」
ところが徳井は、急に表情が翳り腕組みを始めた。
「…いや、そんなこと。でもなぁ」
「え、ちょっと待って。どうしたの?」
「あ。いえいえ。俺、本人に届けておくんで」
徳井は多くを語らずに場を去って行った。
異変にゆず子が気づいたのは、それからすぐの事だった。
ゆず子が出向した際、たまたま満野に会ったので挨拶をしたが、明らかに聞こえない振りをされたのだ。
(あれ?いつも返す子なのに)
更に翌週、河北がこんな事を言って来た。
「ねえ、鳴瀬さん。満野くんとトラブったりした?」
「え、満野くんと? 無いわよ」
ゆず子が答えると、河北は周囲を窺いつつ小声で続けた。
「昨日ね、満野くんが課長に『鳴瀬さんが私物を勝手に触ったり有りもしない噂を立てた』って告げ口してたのよ。勿論、課長は『あの人がそんな事する訳ない、何か勘違いだろ?』って信じちゃなかったんだけど。思い当たるフシ、何かある?」
ゆず子は思案した後、口を開いた。
「先週ぐらいに、挨拶したら聞こえないフリされたわ。そもそも外回り営業の子だから、あまり社内で顔を合わす事も無いから、接点もねえ…」
「そうなんだ。じゃあ、何か勝手に被害妄想してるのかな」
河北はそう言い、仕事へ戻った。ゆず子は首を傾げた後、仕事を続行した。
ゆず子が既視感を覚えたのは、別の出向先へ行った時のこと。男子トイレを清掃中に、個室に忘れ物があるのを見つけた。
(黒くて、小さめのスプレー缶。そして白いラッコのイラスト…。同じ物見たぞ、別の現場で)
ゆず子が手に取り眺めると、やはり『ラッコスプレー』と白文字で書かれた以外は、何も書いてない。振ると中身がタプタプ動く感触があり、残量はありそうだ。
(このサイズと置き忘れ場所から言って、整髪料か制汗剤なのは確かね。そう言えば昔、付けると女性にモテる的なCMが話題になった商品あったわね)
何気なく蓋を開け、匂いを確かめようとしたゆず子は、ある物に目が留まった。スプレーの噴出口に、すごく短く黒い繊維状の物体が、沢山付着していたのだ。
(うわ、きったない。腋毛?でもこんな細かい腋毛、あるかしら。セーターの毛玉取りで集まったカスみたい)
蓋を戻した時、何者かがトイレに入って来た。入社10年目中堅社員の綿貫禮が、静かに入って来た。
「あ、お疲れ様です。こっちの個室、掃除済んでるから使っていいわよ」
ところが、綿貫はゆず子の持っている物を見ると、顔を強張らせた。
「…すみません、それ」
「え? ああ、これ? 綿貫くんのなの? そこに置き忘れていたわよ」
ゆず子が手渡すと、綿貫はトイレの外を窺った後、中に入りこう言った。
「…あのう。これ、俺が置き忘れたって、誰にも言わないでくれませんか?」
ゆず子は目が点になったが、すぐに頷いた。
「え? ええ、分かりました」
「あのっ、本当に、お願いします!」
綿貫は切実な表情で、頭を深く下げた。ゆず子は戸惑うばかりだった。
(何で?どうしたの、一体)
半月後。ラッコスプレーの事を忘れかけた時に、ゆず子はたまたま会社近くのコンビニで綿貫に遭遇した。
「あら。お疲れ様です」
「あ、お疲れ様です。上がりですか?」
「ええ、一休みしたら次の場所に。お昼休み?」
「はい。午後から会議がありまして。眠気覚ましに珈琲を。…よければ、奢らせて下さいませんか?」
「え、何でまた?」
「…この前の、内緒にして頂いたので」
断ったが、綿貫が強引に珈琲をくれたので、ゆず子は取りあえずお言葉に甘える事にした。
特に誘われた訳ではないが、コンビニの軒下で2人並んで啜っていると、綿貫は口を開いた。
「…何かすみません」
「強引でドキドキしちゃったわ」
ゆず子が笑うと、綿貫は申し訳無さそうに切り出した。
「でも、見つけたのが鳴瀬さんで良かったです。これが佐野さんだったら、どうだか」
「ああ、彼女ゴシップ大好きだものね」
ゆず子もゴシップは好きだが、『必要に応じて口を閉ざす』を心がけている。ある程度信用を得ないと、ゴシップネタをもたらされないからだ。
ゆず子は明るく言った。
「…ここまでされると逆に気になっちゃうけど、私はもう忘れるつもりでいたのよ? だから別にお気遣い結構だったのに」
すると、綿貫は目を丸くした。
「鳴瀬さんは、アレが何かご存知無いんですか?」
「え? うん。分からない。制汗剤? 強力タイプとかの」
綿貫は珈琲を一口飲むと、静かに答えた。
「いえ。…ハゲを隠す、ヘアスプレーです」
それを聞き、ゆず子は一瞬目線を綿貫の頭部に移動させかけて、慌てて俯いた。
「え。…あら、そうなの」
ゆず子の表情を、嘘ではないと確信したらしい綿貫は、いつもの調子で話し始めた。
「出たばかりの最新式なんですよ。自然な色艶の繊維を、狙った地点に定着させ、隠蔽できる商品です。ネットでも話題なので、使う必要の無い人も知ってるんです。でも自然でしょ? 俺のこの辺」
綿貫はセンター分けにしてある前髪の上部から、頭頂にかけてを指し示した。
「大学4年から、急に進行しましてね。家系的なやつもあるけど、早過ぎるからかなり落ち込みました。そこから『スカスカ』をどう誤魔化すか、それに命を賭けてます」
「そうだったのね。…こんな話、私にして良かったの?」
綿貫は少し考えた後、ニッコリ笑って言った。
「家族以外にこの話をした事、無かったんですよ。でも何か、急に心が軽くなりました」
憑き物でも落ちたかの表情で、綿貫は一足先に場を後にした。
(『禿げ隠し』ねえ…。だからあんなに焦ってたのか)
ゆず子は考えつつ、本日の出向先へ向かった。到着し事務所へ顔を出そうとすると、部長が先に待っていた。
「おはようございます」
「あ、おはようございます。鳴瀬さん、実はちょっとお話したい事がありましてね」
(あ、これ良くない話の時のやつ)
「はい、何でしょうか」
「先日、男子トイレの個室が詰まってしまいまして、業者さんに見て貰いましたら、雑巾が詰まっていたんですよ」
トイレ掃除に使用する物品は、基本的に出向先に備え付けられている物を使う。雑巾は使用するが、掃除用品置き場にある。ゆず子は慌てて頭を下げた。
「申し訳ございません。私、置き忘れてしまったのかも」
「あ、いえ、一応出入りしている人全員にお話ししてますので…。どうかお気を付けください」
(おかしいな)
掃除用品置き場を確認したゆず子だが、使用していた雑巾はそこにあった。
(トイレ用のある。置き忘れたやつが詰まったなら、これがある訳無いよね)
ゆず子は自分のスマホから、ここに出入りしている同僚にかけて尋ねたが、交換したり廃棄したりしてないというのだ。
首を傾げて置き場の戸を閉めたゆず子に、やって来た河北が話しかける。
「…例のトイレ詰まりの件?」
「うん。掃除でやらかしたと思ったけど、トイレ用のあるのよ。何の雑巾だったんだろう? 大喜田さんに聞いたけど、新しくしたりとかもしてないらしいんだよね」
河北は口を開く。
「何かね、詰まったタイミングも妙なのよ。清掃の皆さん午後2時くらいに終わるでしょ? そこから定時まで誰かしら使っただろうに、詰まったの朝一だったのよ」
「朝一ねえ…」
使用状況により時間差で詰まったり、詰まった場所にもよるが、雑巾なら水を吸い結構な質量になるだろう。
昼過ぎに置き忘れた物が、朝一にようやく影響するだろうか?河北は言った。
「あたしは、鳴瀬さんや大喜田さんじゃないと思うけどね。2人ともそういうミスしないでしょ?」
「ありがとう。まあ、気を付けてやるしかないわね」
釈然としない表情だったが、ゆず子はそう言い業務を開始した。
場所は変わってとある出向先。ある人物を見かけたゆず子は驚いた。
「お疲れ様です」
久々に会った綿貫が、坊主頭になっていた。ゆず子は言った。
「あらま、サッパリしちゃって。随分短くしたのね、でも似合うわよ」
「ありがとうございます。心境の変化ってやつですね。楽ですよ、朝も夜もお手入れ一瞬だし。もっと早くやっといても良かったぐらいです」
『隠す』事を辞めた綿貫は、とてもカッコ良く見えた。
別日、別の出向先。ゆず子が女子トイレを掃除していると東武が入って来た。
「お疲れ様です~」
「お疲れ様です。何かしばらくぶりね」
「ええ。満野くんが急に辞めたんで、取引先の引継ぎとかで超大変だったんです」
「あら、満野くん辞めたの?」
「あれ? 知らなかったんですか。じゃあ、あの話も?」
「何の話? 聞いてもいいかしら」
東武はニヤリとすると、少々小声で話を始めた。
「先月、台風の近づいてた日にたまたま取引先の偉い方がお見えになって、荷物持ったり傘さしたりを満野くんがやったんです。傘をさして大事なPCをタクシーまで運んでる途中で、いきなり突風が吹いて、何を思ったか満野くんはPC持ってた方の手を放して、咄嗟に自分の髪型が崩れるのを守っちゃったんです」
「えー、PCは?」
「水溜りにばっしゃーん。課長が『何してる!拾え!』って怒鳴って、PCを拾わせたら今度はカツラが飛ばされて…」
現場を見ていたらしい東武は、気の毒そうな顔で思い出し笑いをした。ゆず子は尋ねた。
「カツラ? 誰の?」
「満野くんのでした。彼、実は若ハゲだったんです。大事な先方のPCは破損して怒られるし、カツラがバレるし心が折れたのか、満野くん辞表出しちゃったんです」
「満野くん、災難ね…」
他人であるゆず子も、目を覆いたくなる失態だ。東武は言った。
「実は、私と徳井くん、少し前から疑っていたんですよ。徳井くんがトイレで『禿げ隠しスプレー』を見つけて、満野くんに『お前の?』って聞いたら『んな訳ないじゃないですか!』って、急にキレて、手渡したスプレーもそのままゴミ箱に突っ込んじゃって。『あの態度おかしいよね~』って言ってたんです。まさか、あんな事になっちゃうとは…」
「デリケートで切実な問題よね」
ゆず子も思わず同情した。
同じ悩み、同じ状況、隠し続ける選択をしたかしないかで、こんなにも人生が変わってしまうのか。
女子が考える以上に、男子のデリケートで切実な問題は、とても大きいのである。
(何だろう。小さい筒状ね)
手に取った長さ10センチ程の円筒形の細身の黒い容器には、デフォルメされた白いラッコの絵と白文字で『ラッコスプレー』と書かれていた。
(ああ、ヘアスプレーかデオドラントスプレーの類か。事務所に届けようっと)
ゆず子はそう判断し、回収した。
掃除終わりに事務室へ行き、ゆず子は件のスプレー缶を差し出した。
「お疲れ様です、あと失礼いたします。それから、男子トイレに忘れ物ありました」
対応したのは、経理の河北だった。
「はーい、忘れ物ですね。…なにこれ、ヘアスプレー?」
「デオドラントか髪用か。鏡の前にあったの」
「ふーん。見た事ないパッケージね。しかもこれしか書いてないんだ」
普通、スプレー缶ならば缶の表面に成分表やメーカーのロゴがあるものだが、その缶には見当たらない。
「…本当ね。何なんだろ、これ」
2人で首を傾げていると、廊下から勢いよく駆け込んだ人物が居た。
「すみません、鳴瀬さんは…? あ、居た!!」
やって来たのは、入社3年目営業課の満野泰志。満野は2人が眺める物を見て、息をのんだ。
「それ、俺が置き忘れたやつです。急いでいるんで、いいすか?」
満野は時間でも限られてるのか、大急ぎで缶をひっつかむと出て行った。
「…まあ、持ち主のとこに戻ってよかったわ」
ゆず子は深く考えず、その日の仕事を後にした。
それから半月後。廊下掃除をしていると、男子トイレから徳井が出て来るところであった。
「鳴瀬さん、これ見て」
「なーに?」
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「あら? これ…」
「これ知ってます? トイレに置き忘れてたんですよ、多分課長のやつ」
「ううん、これ満野くんのよ」
ゆず子が言うと、徳井は心底驚いた顔をした。
「え⁈ まさか」
「うん。この前も置き忘れてあってね。事務所に届けたら、取りに来たのよ」
ところが徳井は、急に表情が翳り腕組みを始めた。
「…いや、そんなこと。でもなぁ」
「え、ちょっと待って。どうしたの?」
「あ。いえいえ。俺、本人に届けておくんで」
徳井は多くを語らずに場を去って行った。
異変にゆず子が気づいたのは、それからすぐの事だった。
ゆず子が出向した際、たまたま満野に会ったので挨拶をしたが、明らかに聞こえない振りをされたのだ。
(あれ?いつも返す子なのに)
更に翌週、河北がこんな事を言って来た。
「ねえ、鳴瀬さん。満野くんとトラブったりした?」
「え、満野くんと? 無いわよ」
ゆず子が答えると、河北は周囲を窺いつつ小声で続けた。
「昨日ね、満野くんが課長に『鳴瀬さんが私物を勝手に触ったり有りもしない噂を立てた』って告げ口してたのよ。勿論、課長は『あの人がそんな事する訳ない、何か勘違いだろ?』って信じちゃなかったんだけど。思い当たるフシ、何かある?」
ゆず子は思案した後、口を開いた。
「先週ぐらいに、挨拶したら聞こえないフリされたわ。そもそも外回り営業の子だから、あまり社内で顔を合わす事も無いから、接点もねえ…」
「そうなんだ。じゃあ、何か勝手に被害妄想してるのかな」
河北はそう言い、仕事へ戻った。ゆず子は首を傾げた後、仕事を続行した。
ゆず子が既視感を覚えたのは、別の出向先へ行った時のこと。男子トイレを清掃中に、個室に忘れ物があるのを見つけた。
(黒くて、小さめのスプレー缶。そして白いラッコのイラスト…。同じ物見たぞ、別の現場で)
ゆず子が手に取り眺めると、やはり『ラッコスプレー』と白文字で書かれた以外は、何も書いてない。振ると中身がタプタプ動く感触があり、残量はありそうだ。
(このサイズと置き忘れ場所から言って、整髪料か制汗剤なのは確かね。そう言えば昔、付けると女性にモテる的なCMが話題になった商品あったわね)
何気なく蓋を開け、匂いを確かめようとしたゆず子は、ある物に目が留まった。スプレーの噴出口に、すごく短く黒い繊維状の物体が、沢山付着していたのだ。
(うわ、きったない。腋毛?でもこんな細かい腋毛、あるかしら。セーターの毛玉取りで集まったカスみたい)
蓋を戻した時、何者かがトイレに入って来た。入社10年目中堅社員の綿貫禮が、静かに入って来た。
「あ、お疲れ様です。こっちの個室、掃除済んでるから使っていいわよ」
ところが、綿貫はゆず子の持っている物を見ると、顔を強張らせた。
「…すみません、それ」
「え? ああ、これ? 綿貫くんのなの? そこに置き忘れていたわよ」
ゆず子が手渡すと、綿貫はトイレの外を窺った後、中に入りこう言った。
「…あのう。これ、俺が置き忘れたって、誰にも言わないでくれませんか?」
ゆず子は目が点になったが、すぐに頷いた。
「え? ええ、分かりました」
「あのっ、本当に、お願いします!」
綿貫は切実な表情で、頭を深く下げた。ゆず子は戸惑うばかりだった。
(何で?どうしたの、一体)
半月後。ラッコスプレーの事を忘れかけた時に、ゆず子はたまたま会社近くのコンビニで綿貫に遭遇した。
「あら。お疲れ様です」
「あ、お疲れ様です。上がりですか?」
「ええ、一休みしたら次の場所に。お昼休み?」
「はい。午後から会議がありまして。眠気覚ましに珈琲を。…よければ、奢らせて下さいませんか?」
「え、何でまた?」
「…この前の、内緒にして頂いたので」
断ったが、綿貫が強引に珈琲をくれたので、ゆず子は取りあえずお言葉に甘える事にした。
特に誘われた訳ではないが、コンビニの軒下で2人並んで啜っていると、綿貫は口を開いた。
「…何かすみません」
「強引でドキドキしちゃったわ」
ゆず子が笑うと、綿貫は申し訳無さそうに切り出した。
「でも、見つけたのが鳴瀬さんで良かったです。これが佐野さんだったら、どうだか」
「ああ、彼女ゴシップ大好きだものね」
ゆず子もゴシップは好きだが、『必要に応じて口を閉ざす』を心がけている。ある程度信用を得ないと、ゴシップネタをもたらされないからだ。
ゆず子は明るく言った。
「…ここまでされると逆に気になっちゃうけど、私はもう忘れるつもりでいたのよ? だから別にお気遣い結構だったのに」
すると、綿貫は目を丸くした。
「鳴瀬さんは、アレが何かご存知無いんですか?」
「え? うん。分からない。制汗剤? 強力タイプとかの」
綿貫は珈琲を一口飲むと、静かに答えた。
「いえ。…ハゲを隠す、ヘアスプレーです」
それを聞き、ゆず子は一瞬目線を綿貫の頭部に移動させかけて、慌てて俯いた。
「え。…あら、そうなの」
ゆず子の表情を、嘘ではないと確信したらしい綿貫は、いつもの調子で話し始めた。
「出たばかりの最新式なんですよ。自然な色艶の繊維を、狙った地点に定着させ、隠蔽できる商品です。ネットでも話題なので、使う必要の無い人も知ってるんです。でも自然でしょ? 俺のこの辺」
綿貫はセンター分けにしてある前髪の上部から、頭頂にかけてを指し示した。
「大学4年から、急に進行しましてね。家系的なやつもあるけど、早過ぎるからかなり落ち込みました。そこから『スカスカ』をどう誤魔化すか、それに命を賭けてます」
「そうだったのね。…こんな話、私にして良かったの?」
綿貫は少し考えた後、ニッコリ笑って言った。
「家族以外にこの話をした事、無かったんですよ。でも何か、急に心が軽くなりました」
憑き物でも落ちたかの表情で、綿貫は一足先に場を後にした。
(『禿げ隠し』ねえ…。だからあんなに焦ってたのか)
ゆず子は考えつつ、本日の出向先へ向かった。到着し事務所へ顔を出そうとすると、部長が先に待っていた。
「おはようございます」
「あ、おはようございます。鳴瀬さん、実はちょっとお話したい事がありましてね」
(あ、これ良くない話の時のやつ)
「はい、何でしょうか」
「先日、男子トイレの個室が詰まってしまいまして、業者さんに見て貰いましたら、雑巾が詰まっていたんですよ」
トイレ掃除に使用する物品は、基本的に出向先に備え付けられている物を使う。雑巾は使用するが、掃除用品置き場にある。ゆず子は慌てて頭を下げた。
「申し訳ございません。私、置き忘れてしまったのかも」
「あ、いえ、一応出入りしている人全員にお話ししてますので…。どうかお気を付けください」
(おかしいな)
掃除用品置き場を確認したゆず子だが、使用していた雑巾はそこにあった。
(トイレ用のある。置き忘れたやつが詰まったなら、これがある訳無いよね)
ゆず子は自分のスマホから、ここに出入りしている同僚にかけて尋ねたが、交換したり廃棄したりしてないというのだ。
首を傾げて置き場の戸を閉めたゆず子に、やって来た河北が話しかける。
「…例のトイレ詰まりの件?」
「うん。掃除でやらかしたと思ったけど、トイレ用のあるのよ。何の雑巾だったんだろう? 大喜田さんに聞いたけど、新しくしたりとかもしてないらしいんだよね」
河北は口を開く。
「何かね、詰まったタイミングも妙なのよ。清掃の皆さん午後2時くらいに終わるでしょ? そこから定時まで誰かしら使っただろうに、詰まったの朝一だったのよ」
「朝一ねえ…」
使用状況により時間差で詰まったり、詰まった場所にもよるが、雑巾なら水を吸い結構な質量になるだろう。
昼過ぎに置き忘れた物が、朝一にようやく影響するだろうか?河北は言った。
「あたしは、鳴瀬さんや大喜田さんじゃないと思うけどね。2人ともそういうミスしないでしょ?」
「ありがとう。まあ、気を付けてやるしかないわね」
釈然としない表情だったが、ゆず子はそう言い業務を開始した。
場所は変わってとある出向先。ある人物を見かけたゆず子は驚いた。
「お疲れ様です」
久々に会った綿貫が、坊主頭になっていた。ゆず子は言った。
「あらま、サッパリしちゃって。随分短くしたのね、でも似合うわよ」
「ありがとうございます。心境の変化ってやつですね。楽ですよ、朝も夜もお手入れ一瞬だし。もっと早くやっといても良かったぐらいです」
『隠す』事を辞めた綿貫は、とてもカッコ良く見えた。
別日、別の出向先。ゆず子が女子トイレを掃除していると東武が入って来た。
「お疲れ様です~」
「お疲れ様です。何かしばらくぶりね」
「ええ。満野くんが急に辞めたんで、取引先の引継ぎとかで超大変だったんです」
「あら、満野くん辞めたの?」
「あれ? 知らなかったんですか。じゃあ、あの話も?」
「何の話? 聞いてもいいかしら」
東武はニヤリとすると、少々小声で話を始めた。
「先月、台風の近づいてた日にたまたま取引先の偉い方がお見えになって、荷物持ったり傘さしたりを満野くんがやったんです。傘をさして大事なPCをタクシーまで運んでる途中で、いきなり突風が吹いて、何を思ったか満野くんはPC持ってた方の手を放して、咄嗟に自分の髪型が崩れるのを守っちゃったんです」
「えー、PCは?」
「水溜りにばっしゃーん。課長が『何してる!拾え!』って怒鳴って、PCを拾わせたら今度はカツラが飛ばされて…」
現場を見ていたらしい東武は、気の毒そうな顔で思い出し笑いをした。ゆず子は尋ねた。
「カツラ? 誰の?」
「満野くんのでした。彼、実は若ハゲだったんです。大事な先方のPCは破損して怒られるし、カツラがバレるし心が折れたのか、満野くん辞表出しちゃったんです」
「満野くん、災難ね…」
他人であるゆず子も、目を覆いたくなる失態だ。東武は言った。
「実は、私と徳井くん、少し前から疑っていたんですよ。徳井くんがトイレで『禿げ隠しスプレー』を見つけて、満野くんに『お前の?』って聞いたら『んな訳ないじゃないですか!』って、急にキレて、手渡したスプレーもそのままゴミ箱に突っ込んじゃって。『あの態度おかしいよね~』って言ってたんです。まさか、あんな事になっちゃうとは…」
「デリケートで切実な問題よね」
ゆず子も思わず同情した。
同じ悩み、同じ状況、隠し続ける選択をしたかしないかで、こんなにも人生が変わってしまうのか。
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