鳴瀬ゆず子の社外秘備忘録 〜掃除のおばさんは見た~

羽瀬川璃紗

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異世界転移

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 河西誠子かさい せいこは、病休明けに久しぶりの出社をしていた。


 会社の健康診断で異常が見つかり精密検査、そこから入院治療となった。
 その経験は、これまで健康そのものであった河西にとって、衝撃的な事柄でもあった。


(本当、久しぶり過ぎて色々抜けてないかが心配だわ)

 歩きつつ、バッグの中身を確認する。

(名刺入れ、化粧ポーチ、財布、資料…。手帳もあるよね)

 河西は、そのまま誰かとぶつかった。

「キャッ!」

「わっ!! すみません!」

 河西は思わず尻餅をついた。

「大丈夫ですか? あらやだバッグの中身が…」

 相手は、作業着姿のおばさんだった。おばさんはバッグの中身を拾おうとしたが、河西は制した。

「大丈夫、自分で拾います」

「本当、すみません。立てますか?」

(立てるわよ…!)
 ところが、河西はうまく立てなかった。

「あ、あら?」

「手を」

 おばさんはどこにそんな力があるのか、しっかり河西の手を掴んで、立ち上がらせた。

「ふう、良かった」

(良くないわ。私ったら長期の入院で、こんなに体力が落ちてたのかしら…)

 愕然と立ち尽くす河西を尻目に、おばさんはテキパキと散らばったバッグの中身を拾い集めた。

「これで全部かな。…ところでお姉さん、どちらへ行かれる所だったんです?」

「私? 見ての通り出勤途中です。ご迷惑掛けましたね、それではこれで…」

 気まずいのでさっさと退散しようとした河西を、おばさんは引き留めた。

「あ、待って待って! ぶつかったお詫びに、珈琲でも御馳走させてもらえません?」

「いいえ、悪いので」

「何時まで出勤しないといけないの?」

(どこまで絡んでくるのかしら!煩わしい人!)
 ムッとした河西は言った。

「8時半です」

「あら。だったらまだ時間あるわよ」

 おばさんが見せてきた腕時計は7:36。河西は目を点にした。

「嘘…! やだ私、時計見間違えて家を出たんだ…」

 休みボケもいいとこじゃないか。河西は頭を抱えそうになった。

「まあまあ、これも何かの縁だし」

 おばさんは興味あり気にこちらを見ている。河西は言った。

「悪いけど、こんな朝早くから開いている喫茶店なんてないでしょ?」

「いいえー、それが最近出来たのよ。案内するわ!」

 おばさんは半ば強引に河西を連れて行った。


 ぼったくり店かと警戒した河西だったが、駅前通りに面したその店は清潔感があり、客も多く繁盛していた。

(へえ、休んでいる間にこんな店が出来たのね)

 セルフ方式の喫茶店兼キヨスクといった感じのその店は、近代的で勝手がよく分からない。
 けれどおばさんは、慣れた手つきで紙製コップをマシンにセットして、珈琲を注ぐ。目を丸くして見つめる河西に、おばさんは尋ねる。

「こういうお店、初めて?」

「え、ええ。すごいわね。こういうお店、今度の会議で提案したいわ」

「会議?」

 窓の外が良く見える席に座ると、河西はバッグから名刺を出した。

「これ、私の名刺。調理をオート化する機械を開発する会社なの」

 名刺を受け取ったおばさんは、ほうっと息をついて見つめた。河西は続けた。

「ここ、画期的な店舗よね。人の多い時間帯でもあの機械があれば、人件費をかけずに淹れたての珈琲を提供できるんだもの。他社に先を越されたわ、全く」

「…河西さん、あなたの会社知ってるわ。私も今日はそちらへ行く予定だったの」

「え」
(取引先にこんな年配の人を使ってるとこ、あったかしら。年齢が年齢だから、まさか顧問とか?)

 だがおばさんはとても重役には見えない、質素な身なりだ。でも関係者かもしれないなら、態度を改めるべきでは。
 河西は営業スマイルで話し始めた。

「申し訳ありません、素っ気ない態度で居てしまって。…実は私、ずっと入院していて、今日が復帰初日だったんです」

「あらあら、そうだったんですね。お身体はもう問題なく?」

「ええ、どうにか。久しぶりの職場だから、どうにも気を張ってしまいまして。おかげで時間は間違えるし、あなたにもぶつかってしまうし」

「分かりますよ。焦りますよね、休んでいた分、何とか取り返そうって」

「そうなんです。…部下がね、正念場なんですよ。昇進をかけた企画で頑張っていて」

 河西は珈琲を口にした。おばさんは微笑んで相槌を打つ。

「心配ですよね、相手がいい大人である事は知っていても」

「こんな事を言うと語弊があるかも知れませんが、とても素質のあるいい人間なんですよ。求めた結果以上の成果を上げる人間なの」

「素晴らしい部下をお持ちなんですね。こんなに仕事熱心な上司が上に居るんだもの」

「そんな、恥ずかしいです」

 2人はしばし話した後、店を後にして会社を目指した。



 通りを進んできた河西は辺りを見渡した。

「どうかしました?」

「いえ…。随分変わったと思って」

 道路は3車線となり、向かい側の建物も背の高い物が増えた。おばさんは言った。

「ええ、そうね。こないだまで大きな工事していたから」

 到着した会社は、変わらぬ佇まい。だが、河西は目を見開いた。

「え…? 守衛室は何処に行ったのかしら」

「守衛室?」

「ええ。入口傍に守衛の詰め所があって、そこで社員証を見せて入るのよ。休んでいる間に随分変わったのね」

 自動ドアまで進んできたが、内外にも人の姿は無い。それどころか、自動ドアも開いてくれない。

(もう。変更点はすぐ連絡が鉄則なのに、明田あきたったらどうしたのかしら?)

 出来のいい部下でも、所詮は人間。ミスはつきものだ。
 部下への叱責は後にして、取りあえず会社内に入ろうと考えた河西が辺りを見渡すと、インターホンが見えた。

「河西さん、私が…」

「いいえ、ここの社員だもの。それぐらい自分でやるわ」

 駆け寄るおばさんを制し、河西はインターホンを鳴らす。

≪はい、中央管理室です≫

(守衛室の通称まで変わったのか)
 戸惑いながらも毅然として河西は言った。

「おはようございます。カスガ調理機械、総合部の河西です。入口を開けてもらえませんか」

≪…すみません。もう1度お願いします≫

 聞こえてないのか?河西は先程よりも大声でもう1度言った。

「カスガ調理機械、総合部、の河西です」

 インターホンの向こうの相手が、黙りこくる。

≪…すみません、『カスガ調理機械』ですか?≫

(何回聞き直すのよ!)
 ムッとした河西の横から、おばさんが声を上げる。

「鳥海クリンネスの鳴瀬です。こちらのビルに御用の方がいらっしゃってますので、ご対応お願いできますでしょうか?」

≪あ、はい。今向かいます≫

 インターホンの向こうの相手は、おばさんの声を聞くと、すんなり会話を終わらせた。河西は怪訝な顔をした。

「何あれ。一体どういう事かしら」

 程なく、おばさんや河西よりも大分若い警備員の男が外にやって来た。

「おはようございます。ご用事の方は?」

「私です。久しぶりに出勤したら、勝手が変わっていてね。入れないのよ、どうなってるの?」

「申し訳ありませんが、身分証などは?」

 河西はバッグから社員証を取り出して見せた。

「これよ」

 警備員は目を細めて首を傾げた。

「…こちらの会社は、当ビルにございませんが」

 河西は愕然とした。

「どういう事⁈ 移転でもしたの?」

 一連の騒ぎを見てたらしい、男性社員:碓田うすたがゆず子の元へやって来た。

「おはようございます。何かあったんですか?」

「ええ、ちょっとね。…部長さん、出勤されたかしら?」

 やり取りを聞いていた河西は、毅然とした態度で言い放った。

「部長は私よ。名刺にも書いてあったの、お忘れになったのかしら?」

 警備員は碓田にも社員証を見せる。

「…会社名が違いましてね」

「あ、これ…」

 何か言いかけた碓田を尻目に、河西は畳み掛ける。

「取りあえず、総合部の明田を呼んでちょうだい。それもこれも、病休中に重要な連絡を怠った明田に非があるんだから。
この時間だしもう出社してるでしょ? ヒラは誰よりも早く出勤するものだし」

「…明田は退社しましたよ、河西部長」

 静かな声に河西が振り返ると、そこには薄い頭髪で初老の知らない男が居た。碓田が声を上げる。

「小林社長、おはようございます」

 碓田の態度に、河西は怪訝な表情のまま、小林を見つめる。

「小林? 小林って、あの営業成績3期連続最低の小林? あんた、社長してるの?」

 小林は穏やかな笑みを変える事無く、河西に告げる。

「そうです、営業成績3期連続最低の小林です。久しぶりですね、河西部長。お互い、齢を取りましたな」

 河西はその時、確かに見た。

 正面入り口のガラスに映っていたのは、肩パットの入ったカッチリしたスーツに、紺のハイヒールを履いた在りし日の自分では無かった。
 灰色スエットの上下に、左右違うスリッパを履いた老女が、そこに映って居たのだ。




「鳴瀬さん」

 ゆず子を呼んだのは小林だった。

「ご迷惑お掛けしました。河西さんは施設の方が迎えに来て、いま帰ったとこです。…脱走したんだそうです」

「いえいえ、ご迷惑だなんて。そうだったんですね。左右違う履物だったので、もしやと思ったんですが…」

 小林は、窓の外を見つつ言った。

「それにしても、よく昔の社名知ってましたね」

「前に部長さんから『片付けしてたら昔の名刺が出た』って、見せていただいた事がありまして。たまたま覚えてたんです」

 小林は笑って言った。

「僕ね。入社当時落ちこぼれだったんですよ。営業成績は最悪、開発アイデアも浮かばない。出来る事は実直に目の前の事をこなすこと、だけ。
河西さんからは、かなりしごかれましたよ。ははは」

 ゆず子は黙って聞いていた。

「河西さんが可愛がってた明田は、僕と同期でね。優秀な奴でしたよ。朝は誰より早く出社して終電まで、常に野心を持って仕事を猛烈にこなす。典型的な『猛烈社員』でした」

 小林は腕組みして、当時を回想しているようだ。

「『出来る』から、見返りも多く求める奴だったんですよ。不景気で給料が据え置きになると、会社のお金を横領して充てるようになって、バレて懲戒。
その頃、河西さんは定年だったから、明田の事は知らなかったんでしょう。その後、何でか実直だけが取り柄だった僕が就任いたしました」


 小林は会社が過去1番の窮地にあった時に、色んな改革を行い黒字回復へ導いたという話を、ゆず子は部長から聞いていた。


 小林は笑った。

「僕は出来ない奴だったから、出来ない奴の気持ちは人一倍分かるつもりで、皆に接してます。そういう意味では、『出来ない奴』の烙印を押した河西さんに感謝してますよ」

 小林はそう言うと、ゆず子の元から去った。


 ゆず子は気づいていた。小林が河西に接した時、見た事も無いくらい冷たい目をしていたことを。

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