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暫定の印 ※病気、流産の表現あり
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「こんにちは!」
エントランスホールの掃除をしていたゆず子は、住民の女性に挨拶すると、女は微笑んで会釈して通り過ぎた。
ここの担当になり数年が経つので、だいたいの住民の顔を把握していた。住民の方も、掃除で出入りしている人間、という風に認識しているだろう。
今日も、掃除終了後はお茶飲み会である。管理人室をノックすると、善市郎が顔を出した。
「おう、お疲れさん。…あの人、行ったか」
善市郎はエントランスホール側を見渡して、部屋の奥に引っ込んで行った。ゆず子は、首を傾げた。
「あの人って?」
「さっき、外に出ていった女の人」
「…ああ。何か用事なの?」
「用事って程じゃ無えんだけどさ…」
釈然としない態度だが、ノックが思考を途切れさせた。お茶飲み会の最後のメンバー:津山だ。
招き入れて、今日も他愛のない世間話が始まった。
「ちょっと気になる事あるんだけど、3階の我孫子さんの娘さんて、結婚してたっけか?」
善市郎がふと津山に尋ねた。
「我孫子さん? してないと思うよ、両親と娘さんの3人暮らしだよ。何で?」
「…そうなんだ。見間違いかな」
善市郎が腕組みをして考え込むと、ゆず子は言った。
「誰かとデートしてるのでも見たの?」
「何か、一昨年かな。我孫子さんの娘さんを見かけた時に、何て言ったっけ、『妊婦のマーク』付けているの見てさ」
ゆず子と津山はキョトンとした。
「『マタニティマーク』?」
「見間違いじゃなく?」
「何回か見たんだよ、鞄に付いてて。だから『結婚して妊娠した』って思って。ただ、ここに住んでるみたいだから、『入り婿か』って思ったんだけど、2か月後くらいに見かけたらマークが無くなってたんだ」
津山は首を傾げた。
「えー? でも我孫子さんのとこ、赤ちゃんは居ないよ」
「そうなんだよ。てっきり、マークのキーホルダーを引っ掛けて壊したとかで、付けんの辞めたんだと思ったけど、赤ん坊は見ねえし話も聞かねえし。勿論、お腹大きくなった姿も見なかったし。
だから、紛らわしいデザインのキーホルダーでも付けてたんだと思ってさ」
ゆず子は顎に手を当てて考えた。
「そういうマークに敢えて似せる商品、って言うのも無いよね? あるのかな?」
「いやいや、爺さんの見間違いでしょ?」
冷徹な言い草の津山をよそに、善市郎は続けた。
「ほんでよ。去年の初め頃にさ、また我孫子さんの娘さんがマーク付けててよ。鞄変えたら、そっちにも付け変えてよ。
で、あの時、ちょっと大きめの地震あったろ? 津山と分担して、『安否』を訊いてまわった時に、俺は我孫子さんのとこ行ったんだ。
娘さんが玄関先に出て来てさ、『うちは大丈夫』って言ったんだけど、ちょっとふっくらしてるお腹撫でてたんだわ」
「そうなの? どの位大きかった?」
「勿論、臨月って程じゃねえよ。少なくとも、冬用のジャンパー着てたら、脱がないと分からないって感じ?」
津山は腕組みして天を仰いだ。
「ええー…? でも現に生まれてないよ? 正月太りとか、便秘?」
「でよ。2月になったらまた付けんのやめてんだ。春になって薄着になったら、腹はふっくらしてない。流産だと思って、何も聞けねえで居たんだわ。…ほんで!」
「え、まだあるの?」
連続する不可解な話に、ゆず子は若干引き気味だ。津山も訝しんだ。
「秋になったらまた付いてんのよ。その後あまり見かけなくて、年明けに見たらまた付いてなくて。どう思う? おばちゃんの方々」
善市郎の話に、津山とゆず子は首を傾げた。
「つまり、短期間だけマタニティマークを付けているのを、これまでざっと…1,2,3回、見たってこと?」
津山が指折り言うと、善市郎は頷いた。
「そういうこった。事情が事情だから聞けねえし、そもそも既婚か未婚か分かんねえ」
ゆず子も口を開いた。
「既婚でも流産3回は…、何て言うか、かける言葉に困る感じだけど…。未婚で流産3回だとしたら、どういう状況なのかしら…? お相手は?」
津山は麩菓子をつまみつつ、険しい目をしていた。
「ホステスとか夜の仕事では無く、昼の仕事してるみたいだけどね。…まあ昼間でも、電話で呼ぶタイプの『夜』の仕事、あるっちゃあるよ」
善市郎が顔をしかめる。
「『客』との子? まさか」
津山は言った。
「借金で困ったOLが、バイトみたいにやってるケースもあるよ。地味な見なりは、『違う』っていう証拠にならないんだよ」
聞きながら、ゆず子はほうじ茶をすすった。
仮に結婚しているとしたら、夫不在で実家で暮らし続ける理由は何だろう。夫が海外赴任で、自分の仕事を辞めたくないから、敢えて残ったとかだろうか。
それとも、ゆず子や善市郎らが把握していないだけで、『週末婚』みたいに実は夫が出入りしているのだろうか。
ゆず子や善市郎は外部からこのマンションに通っているので、非番の日もあるし遅くとも夕方には退勤する。
生活時間によって、顔を合わせない住民も実際に居る。
逆に津山の推察通り、性サービス業従事者とする。同居する両親は知ってるのだろうか?
妊娠流産(中絶?)を繰り返しても従事し続ける娘を、何とも思わないのか。それとも、従事させ『搾取するのが当然』という親なのか。
そんなある時、ゆず子は疑惑の我孫子家の母娘を見かけた。
2人で外出し帰宅したのか、エレベーターを待っている。娘の鞄には、マタニティマーク。
(これか…)
マタニティマークは紛れもなく本物の様であった(ゆず子の頃は無かったので、よく分からないが)。
ゆず子は悩んだ挙句、思い切って話しかけた。
「…こんにちは。何か月なんですか?」
「こんにちは。5ヶ月です」
母娘は穏やかに微笑み、娘の方が返答した。
(答えた…!)
「そうなんですね。悪阻とか大丈夫なの?」
「はい、今回は何とか」
エレベーターが到着したので、母娘は短く答えると会釈して乗って行った。
(『今回』…?)
ゆず子は引っ掛かりをおぼえた。
「何かねえ、我孫子さんの娘さん3年前に結婚してて、ここらの近所に旦那さんと住んでるらしいよ」
我孫子家の母に直接会い、世間話したという津山が、真相を教えてくれた。
「『不育症』っていう、お腹で赤ちゃんが育たない体質らしくて、流産繰り返したから治療したり大変だったみたい。
出血する度に実家で静養したり、病院変えたり仕事を辞めたり、流産後に体調が不安定になってまた実家で休んだり…。
この3年は、実家にいる方が長いくらいだったんだって。今回は前に比べて順調らしいけど、不安は尽きないって言ってたよ」
真相は至ってシンプルだった。ああだこうだと邪推していたのが、恥ずかしいくらいだ。
ゆず子は言った。
「無事に生まれて欲しいわね」
「ほんとね」
翌年。我孫子家の母は誕生した初孫の写真を、ゆず子達に見せてくれたのだった。
エントランスホールの掃除をしていたゆず子は、住民の女性に挨拶すると、女は微笑んで会釈して通り過ぎた。
ここの担当になり数年が経つので、だいたいの住民の顔を把握していた。住民の方も、掃除で出入りしている人間、という風に認識しているだろう。
今日も、掃除終了後はお茶飲み会である。管理人室をノックすると、善市郎が顔を出した。
「おう、お疲れさん。…あの人、行ったか」
善市郎はエントランスホール側を見渡して、部屋の奥に引っ込んで行った。ゆず子は、首を傾げた。
「あの人って?」
「さっき、外に出ていった女の人」
「…ああ。何か用事なの?」
「用事って程じゃ無えんだけどさ…」
釈然としない態度だが、ノックが思考を途切れさせた。お茶飲み会の最後のメンバー:津山だ。
招き入れて、今日も他愛のない世間話が始まった。
「ちょっと気になる事あるんだけど、3階の我孫子さんの娘さんて、結婚してたっけか?」
善市郎がふと津山に尋ねた。
「我孫子さん? してないと思うよ、両親と娘さんの3人暮らしだよ。何で?」
「…そうなんだ。見間違いかな」
善市郎が腕組みをして考え込むと、ゆず子は言った。
「誰かとデートしてるのでも見たの?」
「何か、一昨年かな。我孫子さんの娘さんを見かけた時に、何て言ったっけ、『妊婦のマーク』付けているの見てさ」
ゆず子と津山はキョトンとした。
「『マタニティマーク』?」
「見間違いじゃなく?」
「何回か見たんだよ、鞄に付いてて。だから『結婚して妊娠した』って思って。ただ、ここに住んでるみたいだから、『入り婿か』って思ったんだけど、2か月後くらいに見かけたらマークが無くなってたんだ」
津山は首を傾げた。
「えー? でも我孫子さんのとこ、赤ちゃんは居ないよ」
「そうなんだよ。てっきり、マークのキーホルダーを引っ掛けて壊したとかで、付けんの辞めたんだと思ったけど、赤ん坊は見ねえし話も聞かねえし。勿論、お腹大きくなった姿も見なかったし。
だから、紛らわしいデザインのキーホルダーでも付けてたんだと思ってさ」
ゆず子は顎に手を当てて考えた。
「そういうマークに敢えて似せる商品、って言うのも無いよね? あるのかな?」
「いやいや、爺さんの見間違いでしょ?」
冷徹な言い草の津山をよそに、善市郎は続けた。
「ほんでよ。去年の初め頃にさ、また我孫子さんの娘さんがマーク付けててよ。鞄変えたら、そっちにも付け変えてよ。
で、あの時、ちょっと大きめの地震あったろ? 津山と分担して、『安否』を訊いてまわった時に、俺は我孫子さんのとこ行ったんだ。
娘さんが玄関先に出て来てさ、『うちは大丈夫』って言ったんだけど、ちょっとふっくらしてるお腹撫でてたんだわ」
「そうなの? どの位大きかった?」
「勿論、臨月って程じゃねえよ。少なくとも、冬用のジャンパー着てたら、脱がないと分からないって感じ?」
津山は腕組みして天を仰いだ。
「ええー…? でも現に生まれてないよ? 正月太りとか、便秘?」
「でよ。2月になったらまた付けんのやめてんだ。春になって薄着になったら、腹はふっくらしてない。流産だと思って、何も聞けねえで居たんだわ。…ほんで!」
「え、まだあるの?」
連続する不可解な話に、ゆず子は若干引き気味だ。津山も訝しんだ。
「秋になったらまた付いてんのよ。その後あまり見かけなくて、年明けに見たらまた付いてなくて。どう思う? おばちゃんの方々」
善市郎の話に、津山とゆず子は首を傾げた。
「つまり、短期間だけマタニティマークを付けているのを、これまでざっと…1,2,3回、見たってこと?」
津山が指折り言うと、善市郎は頷いた。
「そういうこった。事情が事情だから聞けねえし、そもそも既婚か未婚か分かんねえ」
ゆず子も口を開いた。
「既婚でも流産3回は…、何て言うか、かける言葉に困る感じだけど…。未婚で流産3回だとしたら、どういう状況なのかしら…? お相手は?」
津山は麩菓子をつまみつつ、険しい目をしていた。
「ホステスとか夜の仕事では無く、昼の仕事してるみたいだけどね。…まあ昼間でも、電話で呼ぶタイプの『夜』の仕事、あるっちゃあるよ」
善市郎が顔をしかめる。
「『客』との子? まさか」
津山は言った。
「借金で困ったOLが、バイトみたいにやってるケースもあるよ。地味な見なりは、『違う』っていう証拠にならないんだよ」
聞きながら、ゆず子はほうじ茶をすすった。
仮に結婚しているとしたら、夫不在で実家で暮らし続ける理由は何だろう。夫が海外赴任で、自分の仕事を辞めたくないから、敢えて残ったとかだろうか。
それとも、ゆず子や善市郎らが把握していないだけで、『週末婚』みたいに実は夫が出入りしているのだろうか。
ゆず子や善市郎は外部からこのマンションに通っているので、非番の日もあるし遅くとも夕方には退勤する。
生活時間によって、顔を合わせない住民も実際に居る。
逆に津山の推察通り、性サービス業従事者とする。同居する両親は知ってるのだろうか?
妊娠流産(中絶?)を繰り返しても従事し続ける娘を、何とも思わないのか。それとも、従事させ『搾取するのが当然』という親なのか。
そんなある時、ゆず子は疑惑の我孫子家の母娘を見かけた。
2人で外出し帰宅したのか、エレベーターを待っている。娘の鞄には、マタニティマーク。
(これか…)
マタニティマークは紛れもなく本物の様であった(ゆず子の頃は無かったので、よく分からないが)。
ゆず子は悩んだ挙句、思い切って話しかけた。
「…こんにちは。何か月なんですか?」
「こんにちは。5ヶ月です」
母娘は穏やかに微笑み、娘の方が返答した。
(答えた…!)
「そうなんですね。悪阻とか大丈夫なの?」
「はい、今回は何とか」
エレベーターが到着したので、母娘は短く答えると会釈して乗って行った。
(『今回』…?)
ゆず子は引っ掛かりをおぼえた。
「何かねえ、我孫子さんの娘さん3年前に結婚してて、ここらの近所に旦那さんと住んでるらしいよ」
我孫子家の母に直接会い、世間話したという津山が、真相を教えてくれた。
「『不育症』っていう、お腹で赤ちゃんが育たない体質らしくて、流産繰り返したから治療したり大変だったみたい。
出血する度に実家で静養したり、病院変えたり仕事を辞めたり、流産後に体調が不安定になってまた実家で休んだり…。
この3年は、実家にいる方が長いくらいだったんだって。今回は前に比べて順調らしいけど、不安は尽きないって言ってたよ」
真相は至ってシンプルだった。ああだこうだと邪推していたのが、恥ずかしいくらいだ。
ゆず子は言った。
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