鳴瀬ゆず子の社外秘備忘録 〜掃除のおばさんは見た~

羽瀬川璃紗

文字の大きさ
上 下
10 / 99

有耶無耶

しおりを挟む
 真偽不明の話、というものが世の中には存在する。確認する必要があるものもあれば、勿論必要の無い事柄もある。

 疑惑や犯罪の場合は解明しないとならないが、噂話に関してはどうなのだろう。
 白黒つける必要の無い場合もあるだろう。大人としての礼儀や常識、ロマンやイメージを壊さないためにも。



 ゆず子がある人物の異変を感じ取ったのは、トイレ掃除の時だった。

(やたら最近、トイレでよく会うなあ。体調不良的なやつかな?)

 事務の軽部眞智恵かるべ まちえは、ゆず子の1回り下で干支が一緒だと聞いたから、今年56歳だろうか。
 笑顔が上品で、都会的な雰囲気のあるベテラン社員である。


 以前男子トイレで『頻尿』の為によく遭遇してたある男性は、健診で入院が必要な程の『前立腺肥大』が認められ、病休を取る事になった。

 たかがトイレ、されどトイレ。健康状態はそういうとこから分かる。
 大きな疾病を、会社にも家族にも秘密で治療している場合もある。話題にするにはセンシティブなので、注意が必要である。

(かと言って、完全無視も危ないんだよね)

 ゆず子の同僚が、トイレで倒れ急死した従業員に出くわした事もあった。未然に防げなくとも、把握は大事だと考えるのだ。

(まあ、年齢的に更年期の症状もあるかな?酷い人だと60手前まで続く事もあるし)


 軽部は瘦せ型だが病的な程ではない。持病の話も特に聞いた事も無く、趣味は散歩と食べ歩きと聞いていた。
 ただ、気になるのは、肌の色つやが同年代より良いこと。髪も前まで白髪染めで『ナチュラルブラウン』系にしていたが、最近は『ナチュラルブラック』系へ色を変えた。

 昨年よりも若返ったように見受けられるのだ。


(確かあの人、シングルマザーで独身だったから、もしかすると年下の彼氏でも出来たのかも。いいですね、恋というものは)

 そう思っていたゆず子に、こんな話が持ちかけられた。

「先週、駅前の婦人科で軽部さんを見かけたんですよね」

「へえ、健診かなんか?」

 ゆず子が何気なく返すと、軽部の部下であるはらは怪訝な顔をした。

「聞いた話では、少し前に総務部の愛ちゃんも同じ病院で軽部さんを見かけてて。
先週私がガン健診で行った時にも見たわけなんですけど、何度も通うなんて、病気か何かなのかなって思って」

「へえ、そうなんだ。でも私も覚えがあるんだけど、更年期のやつで通ってるかもしれないよ。診察や薬は婦人科だから」

「そうなんですね。あんまり軽部さん世代の人を見ないクリニックだったから、なんだろうと思っちゃった」

 原は笑って納得した。ゆず子はふと考える。

(婦人科系の病気かしら?)
「ちなみにどこの病院?」

「フローラレディースクリニックです」

 その名前にゆず子は聞き覚えがあった。先進的な不妊治療を行う病院である。

(確か同僚が仕事でたまに出入りしてたな。一応婦人科も掲げているけど、生殖医療が専門って聞いた)

 多分行けば婦人科系の不調も診て貰えると思うが、更年期症状での通院をするような場所とは聞いた事がない。


 特に深追いする事でもないかと思ったゆず子だったが、周囲は少々違っていた。

「軽部さんが、30代くらいの男の人とお茶しているの見た!」

 次に話を持ち掛けて来たのは、営業部の男性社員:さいだった。掃除をしながら、ゆず子は返事する。

「あら、いいじゃない。軽部さん独身でしょ? 恋愛は自由だもの」

「そうなんだけどさぁ、軽部さんの娘さん今年30歳だから、自分の子供くらいの年齢差がある男、選ぶってヤバくないすか?」

「息子って線は?」

「あの人、息子は居ないっすよ」

「娘さん、結婚は?」

「してるみたいだけど、2人とも遠くに住んでるらしいから、旦那だけこっちに来るって事無くないすか?
でなきゃ娘の旦那とデキてるとか! 『若い燕』って言うんでしょ?」

「あー…、斎くんは小説家になれそうね」

(何か意地でも『面白い』方向に持っていきたいみたいね)


 じわじわと噂は広がっていった。斎が缶コーヒー片手に、熱弁をする。

「女性ホルモンの薬ってあるんでしょ? 若い彼氏の為に、せっせとそれを飲んで若返ろうとしてるとか」

「女性ホルモンの薬って言うけど、飲んでも若返らないよ?」

 やれやれ、とゆず子は口を添えた。斎は原に言った。

「ネットでさ、『もう1度女に戻りたいから』って病院に来る人居るって記事読んだんすよ。
そこの病院のホームページにあった『先進的生殖医療』って、そういう治療してるんじゃないの?」

「斎先輩、ネットにある事信じすぎですよ。それが通用するなら、みんなしてますって」



 そんな中、軽部が会社を休む事になった。『体調不良及び、医師から絶対安静の指示が出された』との事で、詳しい病名や病状は伏せられていた。

「斎先輩が変な噂立てたから、軽部さん言うに言えなくなったんじゃないかって思うんです」

 原は心配そうにしていた。

「確かに、憶測で物を言われたらいい気分では無いでしょうね」


 ゆず子の経験上、社内の関係者に病状や病名を言わないケースは2通り。
 1つは、『余命宣告レベルの重い病気』である場合。周囲に余計な気を遣わせたり、精神的な不安を与えたくないなどを考慮してだ。

 もう1つのケースは『重い病気でないが本人が隠したがってる』場合だ。
 鬱病など精神や心の問題、痔、極秘出産(私生児)、中には大酒飲みが肝硬変を発症し、『日頃の行い』と言われたくない為に伏せた例も見た事がある。


(見た感じ、軽部さんは元気そうだったんだけどな。或いは噂の所為で鬱病になったとか?)

 鬱病で休養の指示が出ても、絶対安静=起き上がるなの指示は出ないだろう。原は周囲を窺うと、小声でゆず子に言った。

「軽部さんの娘さん夫婦がこっちに引っ越してきて、一緒に住んでるそうなんです。
それで、軽部さんを偶然見かけたパートのおばちゃんの話だと、お腹が膨らんで見えたって…」

(腹水…⁉)

 思わずゆず子は愕然とした。平静を装い、ゆず子は問うた。

「…太った訳じゃなく?」

「はい。お腹だけって。…腹水って、ガン的なやつでの症状の1つですよね?」

 原は軽部によく懐いていた。泣きそうな原に、ゆず子はゆっくり話した。

「落ち着いて、決まった訳じゃない。治療を受けてるのは確実だし、休むのも治療に集中する必要があるから、お医者さんが指示を出したんだと思うよ。
それに軽部さんにも考えがあって、今回みたいにした訳なんだろうから、何があったか教えてもらうその時まで、しっかり軽部さんの代わりに仕事をしないと。ね?」

「…はい」

 原は目に涙を溜めていた。



 約半年後。ゆず子は急病で休んだ同僚の代わりに、ある現場へ行くのを命じられた。

(えーと。ああ、いつぞやの婦人科かぁ)

 場所は、フローラレディースクリニックだった。白壁で乙女チックな外装の病院の、院内ではなく敷地内の花壇や植木周りの除草作業だった。

「中は専門の清掃業者が居るんだって」

「ほうほう。汚れ作業はしないって事?」

 別の同僚と軽口を叩きつつ、作業を開始した。

(そう言えば、60近くで出入りしてるから噂になってた人、居たな。どうしてるだろう)

 ここ2ヶ月は別の場所へ配属されていたので、近況は知らない。
 除草作業が終わり、刈り取った草をゴミ袋に入れていたゆず子は、病院から出てきた患者に釘付けになった。

 軽部だったのだ。

「…こんにちは」

 軽部もゆず子に驚き、少し間があれど挨拶をしてくれた。ゆず子も慌てて挨拶を返す。

「こんにちは。暫くでしたね」

 軽部はゆったりとしたワンピースの上に、カーディガンを羽織っていたが、その腹部は、膨らんでいる様に感じた。

(いや、これは癌患者の腹水と言うより…。妊婦に見える)

 必死で笑顔を作るゆず子に、軽部は言った。

「会社、あれから辞めたんです」

「あら、そうだったんですね…」

「いろいろと今後の事、思う事がありましてね」

 にこやかに話す軽部は、顔色も良くとても病人には見えない。

(いや、この人56だぞ?妊娠するなんて事、無い齢だよ?)

「そうなんですね。長い人生、色々ありますよね」

 無難にゆず子が返すと、軽部は言った。

「娘が居るんですけど、子供が出来ない身体だったんです。…そういう身体に産んでしまって。悔やんでたんですよ」

 軽部は俯いていたが、表情は暗くなかった。

「なのでその代わり、私が出来る事は何でもしてあげようって思って。だから会社を辞めようと決めたんです」

(どういう意味なんだろう)

 目の前で聞いてる筈なのに、ゆず子は理解が追い付かなかった。車が向こうからやって来た。

「あ、娘が迎えに来たので、失礼します」

 軽部は会釈すると、場を去った。軽部と会ったのは、それが最後だった。
 何かした訳じゃないのに、冷や汗をかいたのはそれが初めてだった。


 軽部は会社を辞めた後に引っ越したそうで、会社関係者でも近況を知る者は居ないらしい。
 風の噂では、孫が誕生したらしいとも聞いたが、素直にその話をゆず子は信じられずに居た。


 真相全てを知る事が、正義とは言えない。この件でゆず子が身にしみた事であった。

しおりを挟む
感想 94

あなたにおすすめの小説

ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます

沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!

BL団地妻-恥じらい新妻、絶頂淫具の罠-

おととななな
BL
タイトル通りです。 楽しんでいただけたら幸いです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

『食管法廃止と米の行方一倉庫管理者の証言』

小川敦人
経済・企業
エッセイ『食管法廃止と米の行方――倉庫管理者の証言』は、1995年に廃止された食糧管理法(食管法)を背景に、日本の食料政策とその影響について倉庫管理者の視点から描いた作品です。主人公の野村隆志は、1977年から政府米の品質管理に携わり、食管法のもとで米の一元管理が行われていた時代を経験してきました。戦後の食糧難を知る世代として、米の価値を重んじ、厳格な倉庫管理のもとで働いていました。 しかし、1980年代後半から米の過剰生産や市場原理の導入を背景に、食管法の廃止が議論されるようになります。1993年の「タイ米騒動」を経て、1995年に食管法が正式に廃止されると、政府の関与が縮小され、米市場は自由化の道を歩み始めます。野村の職場である倉庫業界も大きな変化を余儀なくされ、彼は市場原理が支配する新たな時代への不安を抱えながらも、変化に適応していきます。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

男と女の初夜

緑谷めい
恋愛
 キクナー王国との戦にあっさり敗れたコヅクーエ王国。  終戦条約の約款により、コヅクーエ王国の王女クリスティーヌは、"高圧的で粗暴"という評判のキクナー王国の国王フェリクスに嫁ぐこととなった。  しかし、クリスティーヌもまた”傲慢で我が儘”と噂される王女であった――

壁乳

リリーブルー
BL
俺は後輩に「壁乳」に行こうと誘われた。 (作者の挿絵付きです。)

処理中です...