鳴瀬ゆず子の社外秘備忘録 〜掃除のおばさんは見た~

羽瀬川璃紗

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定年間際

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 『職業に貴賤はない』とは言うが、真逆なのが世の常だ。この仕事をしていると、そういう目に遭う事もままある。


「次の休みに、年金事務所に行くの」

 20代の若い社員:錦城きんじょうにそう話したのは、出荷部門の町田まちだだ。錦城は尋ねた。

「え? 町田さん、まだ定年じゃないのに何で?」

「あのね、年金事務所に行って、65歳の定年を迎えた時に幾ら貰えるかを確認するのよ」


 町田は、この工場で2年前からパートタイマー(社会保険加入者)として働いているらしい。
 年金生活の夫と2人暮らし、その夫も大手企業で定年まで働いたので生活には困らないのだが、『暇つぶし&年金上乗せ』目的でここに勤めているそうだ。


 町田はチラッとゆず子を見て、錦城にこう言った。

「だってさぁ、65越えてからも生活の為に働くなんて可哀想じゃない? 現役世代の内に、ちゃんと年金とか貯金蓄えて、老後の為に備えておかなきゃ。
錦城くんも若い内から動いてないと…、ゴミ拾いの仕事する羽目になっちゃうよ?」

 こういうのには慣れているので、ゆず子は聞き流して仕事に徹するだけである。


「…あの人には困ったなあ」

 喫煙所で錦城はゆず子に零した。ゆず子は笑って答えた。

「あの人、面白い人だと私は思うよ。大人の割に好き嫌いハッキリしてるしね」


 『暇つぶし』目的の人間である。勤務態度もあまり真面目ではなく、他の従業員からの評判も今一つ。
 上も『来年の定年までの辛抱だから』と、持て余し気味らしい。


 錦城は質問する。

「年金事務所に聞きに行かないと、年金って貰えないものなんすか?」

「そんな訳ない。当てつけで言ってるんでしょ? だって今は通知書届くんだから、それ見れば払い込み実績とか、支給金額予想できるもん。行くだけ二度手間よ」

 ゆず子は、誤った知識を植え付けられそうになった若者に、口を添えた。


 別の日。

「ねえ、おばちゃん!」

 声の主は町田だった。年の変わらない相手をおばちゃん呼ばわりするのは、きっと挑発したいのだろう。

 ゆず子は穏やかに返した。

「はい、何の用ですか?」

「私、来年の定年に備えて、自宅のしまってあるものの整理してるのね。それで、着なくなった服とかバッグとか沢山出て来て。貰ってくれない?」

 町田はそう言うと、布製品がぎゅうぎゅう詰めにされている紙袋を指し示した。

「服とかバッグですか? 悪いから頂けないわ」

「そう言わずに‼ ほら、これなんてイタリア製なのよ? 現地行った時に買ったやつなんだし」

「あら、それじゃあ思い出の品ですよねぇ。尚更申し訳ないから」

 やんわりとゆず子が断るも、町田は説明をしつつ引き下がらない。

「あとねえ、このハンドバッグもうちの旦那が買ってくれたやつなんだけど、似たようなデザインのやつ他にもあってね。
ほらぁ、『A』って聞いた事あるでしょ? ブランド品なのよ。もしかしてこのブランド持ってた? まあ、有名だから仕方ないかぁ」

(器用だな。『私はこんな高級品を何の躊躇いもなくあなたにあげるのよ!』と自慢しつつ、夫婦仲や旅行先自慢も散りばめるなんて)

 ゆず子に口を挟ませる事無く、物品の説明と自慢を始める町田に気づいたのか、通りかかった男性社員が足を止める。

「どうしたの、町田さん」

「ああ、掃除のおばちゃんにねえ、要らなくなったブランドのバッグあげようと思って…」

 町田が物品の説明を中断した隙をついて、ゆず子は言った。

「申し訳ないんですけど、うちの会社の規則で『出向先の人から個人的に物品の授受をしてはいけない』ってあるんです。だからお気持ちだけで結構ですので」

「そんなん黙ってたらいいのよ。誰も判る訳ないんだから」

 町田は口を尖らせる。男性社員は苦笑した。

「いやいや、俺見てたから! 流石にここまで見といて知らんぷり出来ないよ」

「何でよ!」

 町田が男性社員に喚く。ゆず子は笑って場を後にする。

「じゃあ私、仕事がありますので…」


 ゆず子が社員食堂のゴミ箱から、ゴミを回収していると。

「本当、勿体無いわ! だって『A』よ? タダでブランド物貰えるチャンスだったのに」

 町田がゆず子を横目で見ながら、聞こえるようにパート仲間:三島みしまに愚痴っている。
 ゆず子は目線も送らず仕事に徹した。三島は口の前に人差し指を立てながら、なだめた。

「ほら、ブランド品興味ない人も居るし。ね?」

「でもさぁ!」

「もしかしたら案外、町田さんみたいに余裕があるけど、身体を動かしたい目的とかで仕事してるんじゃない?
近所にも居るよ、ゴミ拾いのボランティアしてる資産家の奥さん」

「えー、見えないよ? あのおばちゃん」

「あたしもねえ、最初会った時そういう雰囲気もなかったから信じられなかったんだけど、本当のお金持ちほど質素な身なりしてるものよ」

 町田はジト目でゆず子を見ていた。



 しばらくした頃。ゆず子が社員食堂でいつもの様に仕事をしていると、町田が話す声が聞こえてきた。

「最近ね、暗号通貨にハマってるの」

「暗号通貨? えー、やってるの?」

「簡単よ、ちょっとパソコンやスマホ出来れば誰でも出来るし。…そうそう、三島さんに特別教えてあげるわ」

 町田はそう言うと、自分のスマートフォンを取り出した。

「私のお勧めは『セルシス』。今ね、高騰してるのよ。ここね、グラフが先週の3倍になってるでしょ?
これってつまり、先週入れた10万円が今週には30万円に増えてるって事なの」

 三島は苦笑した。

「えー? 怖いからあたしはやらないかな。よく出来るね、町田さん」

 町田は胸を張って言い放つ。

「当たり前よ、定年迎えたら年金だけになるのよ? 投資して、老後の生活費稼いでおかなきゃ!
今の時代はねえ、身体で稼ぐんじゃなくお金に稼いで貰う時代なんだもの。老後2000万って言うけど、逆に2000万以上かからないって保障も無いじゃない?」

 町田は投資のノウハウを話し、社内の人間に投資を勧めていた。



「暗号通貨、ちょこっとだけ始めてみたんですけど、アレいいですよ」

 錦城は笑顔でゆず子に話してきた。

「へえ、買ってみたの?」

「株と違って安いしね。スマホ覗くのが楽しみで! 鳴瀬さんはしないんですか?」

「うーん、あたしの性格では無理かな?」

 ゆず子は笑って、喫煙所を後にした。



 ひと月後。ゆず子が出勤すると、事務所が何やら騒がしい。

「自宅も連絡つかないぞ?!」

「スマホも繋がらないんですけど、メッセージアプリは?」

「既読つきません」


(トラブルかな?)

 掃除を始めたゆず子の元へ、三島が駆け寄る。

「…鳴瀬さん、ちょっと」

 三島は廊下にゆず子を連れ出すと、困惑の表情で口を開いた。

「どえらい事が起きたよ」

「なに?」

「今朝のニュース見た? 暗号通貨の暴落」

 そう言えば見た様な。

「あー…、でもよく見てないんだけど」

「運営元の人が持ち逃げしたらしくて、総額の8割が無くなって消えた。…町田さんが熱心に勧めていた銘柄だよ」

 ゆず子は思わず事務所を振り返った。

「え? もしかして?」

「そう。町田さん、今日無断欠勤しててさ。町田さんに勧められて買っちゃった錦城くんとか、電話しても連絡つかないから大騒ぎなんだよ…!」


 暗号通貨『セルシス』は、価値を高めるため、幹部が違法な操作をしていたらしい。
 操作をしていた幹部は、値段を吊り上げて多額の通貨を売り、行方不明。その手口が明るみになり、価値は10000円が0.02円までに暴落した。


 連絡を絶った町田は、1度も会社に出社する事も連絡に応じる事も無いまま、翌月懲戒退職扱いとなった。
 町田の口車に乗り、同じ銘柄を買ってしまった従業員らの糾弾を恐れたのか。それとも…。



「何か、町田さんちの近くを通りかかったんだけど、家のある場所が更地になってて、売地になってたよ」

 喫煙室で、錦城はそう言った。ゆず子は疑問を口にした。

「町田さん、一体幾らつぎ込んでたんだろう?」

 30万という高い授業料を払った錦城は、煙草の煙を吐きつつ答えた。

「分かんない。暴落直前に『もうすぐ9桁になる』って言ってたんだけど、負債の補填が出来ないから、自宅を売りに出したんだろうね。投資って怖いわ」

「本来、投資ってじっくり勉強してから始めるものだから。全部が怖いわけじゃないよ」



 年金生活を快適にしようとしていた彼女は、欲目を出し過ぎて元からあるものも失ってしまったのか。

 喫煙所のカレンダーは、町田が定年退職を予定していた月になっていた。

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