1 / 99
見込み違い
しおりを挟む
「…鳴瀬さんは、転職経験ありますか?」
顔を上げると、そこには中途採用での研修が始まったばかりの男性社員:徳井が居た。
ゆず子はモップを動かす手を止めると、答えた。
「そりゃあ、あるけど。…何かあったの?」
この手のポジションの人間が、このニュアンスで訊いて来る事は、大概『この会社大丈夫?変な会社だったりしない?』とか『転職したばかりだけど、正直もう転職したい』的な相談だ。
だが徳井は思わぬ事を口にした。
「『失業保険』って、いつ貰えるんですか?」
「え、失業保険? それはハローワークで手続きしないと貰えないよ」
ゆず子の返答に、徳井は面食らった表情をした。
「ハローワーク、ですか?」
「そうだよ。しかも手続きして、認定されないと貰えないよ。…もしかして転職、初めてなの?」
「はい」
ゆず子は簡単に説明した。
「えーとね、まず『雇用保険』に加入できる要件を満たして、加入して一定年数職場で働く。
そこを辞めると『離職証明書』が貰えるから、それを持ってハローワークに行って、『失業保険』給付の手続きをする。
…前の職場では雇用保険入ってたの?」
「多分…」
(この子、大丈夫かな?)
「あ…、でもこの会社で内定してるよね。どっちにしろ、もう貰えないか…」
すると、徳井は顔を青ざめさせた。
「貰えないんですか?」
「だってもう、内定した時点で『失業』状態じゃないもんね。失業保険って、職に就きたいけど就けない人の為のだもの」
「マジか…。すみません、ありがとうございました…」
徳井はしょんぼりしつつ、場を後にした。
数日前、中途採用で徳井大智が営業部に入って来た。ごく普通の当たり障りのない、今時の若者といった感じだ。
「徳井くん、いま彼女居ないんだって」
嬉々としてゆず子に話しかけて来たのは、徳井と同じ部署の東武梨奈だった。
ゆず子は笑って返した。
「あら。狙ってるの?」
「えー、でも自分3つも年上なんですよ? 相手してくれると思えませんよ~」
といいつつ、徳井を意識しまくりなのは丸わかり。ゆず子は言った。
「そう? あたしは徳井くん、年上彼女が向いてるように見えるけど」
「やだぁ~! 鳴瀬さんたら!!」
(…あたしは別にあなたが合うよ、なんて言ってないぞ)
東武は飲み物を口にすると、続けた。
「自分、もう一生独身かもしれないから、貯金頑張ってるんですよ。だってそれしか出来ないし~」
東武は『今までにいい恋愛をした事が無い』と度々ゆず子に言っていた。
勢いで付き合い始め、『この人が運命の人かも』と思い2度目のデートで身体を許し、その後音信不通になる、を懲りずに何度も繰り返しているらしい。
「まあ、お金は無いよりある方がいいからね」
「ですよね! お陰でやっと300万貯まったとこなんですよ」
「こら! 誰が聞いてるか分からないから、外で言っちゃダメよ」
「大丈夫ですって!」
有名女子アナに似た可愛い風貌なのに、ちょっと残念な女子であった。
ゆず子の耳に噂が入って来たのは、翌週の事だ。
「…梨奈ちゃん、徳井くんとちょっと怪しいかも」
その話をして来たのは、東武と同期で営業部の柴山美沙だった。
「何で?」
「金曜に『これから用事ある』って定時上がりした。あの子、いつものパターンだと金曜にデートして日曜に2度目のデートして連絡途切れて、月曜に落ち込んでるけど、週明けから上機嫌なんだもの」
すごい観察力だな、と思いつつゆず子は東武の肩を持ってみた。
「たまたまじゃない? 『2度目でダメになる』が『3度目』へ繋がったとか」
「…今日ね、2人がコソコソ話してたんだけど、私が来た瞬間サッと離れたよ」
「あら」
柴山は笑った。
「ま、私の悪口言ってただけかもしれないけどね」
(うーん、悪口の可能性は低いかな)
翌日。東武が事務部から書類を手に出てきたところで、ゆず子に声を掛けて来た。
「私、ちょっと引っ越すんです」
住所変更の為の書類を、事務部から貰って来たという。
(わざわざ私に教えるの?外部の人間なのに)
「へえ、住んでる所、契約満了の時期なの?」
「うーん。えへへ、ちょっとね」
(結局、何も教えてくれないのか。言ってみたかっただけ?)
東武は笑いながら手を振って、営業部へ戻って行った。ゆず子は意図が良く分からなかった。
次にゆず子が出社した時のこと。営業部の朝礼の時間と被っていたのだが、部署内の空気が劇的に悪かった。
(これは…、何か重大なトラブルでもあったかな?)
これまで幾度か倒産の決まった会社に出入りした事もあったが、その時とはまた違う雰囲気だった。
廊下の掃除を始めると、事務部の古株社員:河北がゆず子に話しかけてきた。
「…営業部、やばかったでしょ?」
「うん、何かあったの?」
「昨日ね、東武ちゃんが営業部内用のメッセージツールを使って、『私、東武梨奈は徳井大智さんと交際しており、結婚を前提とした同棲をしています』って、発信したの」
「は? 何それ」
思わずゆず子は苦笑した。アイドルの熱愛発表か。河北は続けた。
「聞いて笑っちゃったわよ。何でよりによって会社用のを使うんだか。東武ちゃんの事を可愛がってる課長が、部長から『どういう社員教育をしている!』って絞られたらしくてね。
若い子の考える事って、よく分からないわぁ。って言っても、あの子も30だっけ。そんな若くない、いい大人なのにね」
「…実はさ、この前あの子から『引っ越すんだ』ってニコニコ顔で言われたのね。『契約満了?』って聞いても、曖昧で教えてくれなくて。
ああ、そういう事だったの」
「え、そうだったの? いつ?」
「先週かな?」
それを聞くと、河北は神妙な顔をして口を開いた。
「…て、言う事は、今週で研修に入って3週間目だから、出会って2週間で交際と同棲開始? 若い子って手が早いのね」
柴山の話も反芻させてみると…。
3週間前の月曜に徳井が配属され研修開始、その週の金曜日に初デート(東武が徳井を狙ってるとゆず子に匂わせる)。
2週間前の月曜に柴山に恋愛沙汰を嗅ぎつかれる、その翌々日の水曜日に引っ越しの為の手続き…。
(出会って10日かも…)
ゆず子はある疑問を口にした。
「それにしても、何で発表したの? ここって社内恋愛の報告義務でもあるの?」
「ある訳無い無い。あれでしょ、流行りの『承認欲求』ってやつじゃない?」
河北はそう言うと、自分の部署へ戻った。
翌日。トイレ掃除をしていると、顔色の悪い東武が入って来た。ゆず子は声を掛けた。
「大丈夫? こっちのトイレ、終わったから使っていいよ」
「…ありがとうございます」
東武は呟くように言った後、涙を流し始めた。
「すみません。誰も、優しい言葉かけてくれる人居ないもので…」
別段、優しい言葉は掛けたつもりはないが、弱っているからそう感じたのか。
「そうなの? 無理しないようにね」
当たり障りなくやり過ごそうとしたゆず子だったが、東武は堰を切ったように話し始めた。
「自分、どうしていつもこんななってしまうんですかね? こうなる為にした訳じゃないのに…!」
(わぁ、逃げ場無いよ。聞いてあげるしかないか…)
腹を決めてゆず子は尋ねた。
「どうしたの? 何か失敗でもしたの?」
「自分、徳井くんと付き合っているんです。それを同じ部署の人達に教えて、見守って欲しかっただけなんです。
それで、業務連絡用のメッセージツールを使ってしまったばかりに、課長が部長から厳重注意を受ける事になってしまって…」
東武は、昨日河北から聞いたままの話をした。ゆず子は頷いた。
「そうなの。付き合う事自体は悪い事ではないわね。伝えたいなら、個人のスマホのメッセージアプリを使えば良かったね」
「そうなんです。会社の物を浅はかな考えで使ってしまって…」
東武はボロボロと泣いていた。鼻をすすると続けた。
「…自分、柴山さんみたいに応援して欲しかったんです」
ゆず子はその言葉に首を傾げた。
「柴山さん? 何で」
「柴山さん、彼氏が居るんです。たまたま休日にデートしているのを課長が見かけて、それで『真面目そうないい彼氏だね』って言ってて。
…自分も、そういう風に言葉を掛けてもらいたかったんです」
(おいおい、何だそれ…)
ゆず子は呆れたが、口添えをした。
「そうだったんだね…。自分がしたかった事と、逆の結果になって辛かったわね。
社内恋愛って仕事の失敗も評判も相手に筒抜けになるし、あなたに何かあった時にも、相手の評判を下げてしまう事もあるのよ。
だからあなたがすべき事は、仕事にプライベートを持ち込まず真面目に頑張る事だよ」
至極普通の事を言っただけだが、東武は泣きはらした目で何度も頷いた。
「『仕事を頑張る』…。そうですね、ありがとうございます」
頭を下げると、東武はトイレを後にした。
それからは仕事に差し障りなく、東武と徳井の関係も良好に続いている様だった。
「柴山さん、あのゲームなんすけど、俺レベル15から先に行けなくなって…」
声がした方をふと見ると、休憩中の柴山に徳井が絡んでいた。
「えー? 自分で何とかコツを掴みなさい」
「そのコツを教えて下さいよ~」
外回りから帰ってきた東武が現れると、徳井は柴山からさり気なく離れた。
(あらら?)
掃除の為にゆず子がトイレに行くと、柴山が歯磨きをしていた。ゆず子は何気なく言った。
「懐かれてるわね」
柴山は顔を顰めると、首を振り口を漱いだ。
「い・や・だ」
「あら、そうなの?」
「…あいつね、うちの実家のこと聞いてから、すり寄って来てるの」
柴山の父親が、隣県でご当地スーパーを展開する経営者である事は、ゆず子も知っていた。
ゆず子は目を丸くした。
「何それ。逆タマでも狙ってるの?」
「えー、マジ勘弁。あんな男。
鳴瀬さん、東武ちゃんのやらかしの件、あったでしょ? あれの時、徳井どうしてたと思う?」
「うーん…、彼女を庇ったとか?」
「ううん、その逆。東武ちゃんの話では、『同じ部署の人に話す?秘密にする?』って聞いたら徳井が『皆に訊かれてその都度説明するの怠いから、メッセージツールで言っといて』って言ったんだって。
そんで騒ぎの時に課長が『お前が言えと言ったのは本当か?』って聞いたら、『俺は何も言ってない。彼女がした事にびっくりしてる』って答えたらしい」
ゆず子は仰天した。
「ええ?! 何なのそれ」
「最っ低でしょ? 他にも色々聞くんだよ。生活費ちゃんと出さないとか、彼女が風邪ひいてもパチンコ行っちゃうとか」
「あらあら…。心配になっちゃうね、それ」
「徳井の方から東武ちゃんを熱心に口説いたくせに、何なんだろうね!」
柴山は口を尖らせた。ゆず子にはある仮説が浮かんだ。
失業保険の手続きをよく知らず、未支給になったらしい徳井。給付をあてにしていたという事は、金に困っていたのか?
そして、徳井を意識していた東武。ゆず子に徳井への好意を匂わせたその日に、徳井は東武を口説いたのかもしれない。
あの時、口が滑った東武は貯金額まで明かしてた。あの会話。もし金に困っていた徳井が聞いていたとしたら…?
自分に気のある女をその気にさせ、同棲に持ち込めば、生活費を折半させる理由が出来て、持ち金の節約が出来る。
あくまでも仮説だ。
それから半年後、柴山が寿退社する事になった。相手は交際していた件の彼氏だ。
「いやあ、『出来る人』から結婚しますね、世の中は」
外回りから戻ってきた徳井は、空席を見つめゆず子にそう言った。
「『出来る人』?」
「だって、柴山さんちゃんとお弁当作って持って来てるし、地味だけど仕事はちゃんとこなす人ですもん」
「あら、彼女さんだって出来る人じゃない」
「いやいや、ああ見えてズボラっすよ。部屋の掃除は週1だし、食事は総菜ばっかだし。
職場恋愛って辛いっすね。柴山さんの結婚で『次は徳井だからな』『早く決めてあげなよ』なんて、集中砲火受けてるんすよ?」
徳井は東武や上役が居ないのをいい事に、苦情をつらつら述べた。そっぽを向いて小声で徳井は呟いた。
「…『相手選び』間違えたなぁ、マジで」
顔を上げると、そこには中途採用での研修が始まったばかりの男性社員:徳井が居た。
ゆず子はモップを動かす手を止めると、答えた。
「そりゃあ、あるけど。…何かあったの?」
この手のポジションの人間が、このニュアンスで訊いて来る事は、大概『この会社大丈夫?変な会社だったりしない?』とか『転職したばかりだけど、正直もう転職したい』的な相談だ。
だが徳井は思わぬ事を口にした。
「『失業保険』って、いつ貰えるんですか?」
「え、失業保険? それはハローワークで手続きしないと貰えないよ」
ゆず子の返答に、徳井は面食らった表情をした。
「ハローワーク、ですか?」
「そうだよ。しかも手続きして、認定されないと貰えないよ。…もしかして転職、初めてなの?」
「はい」
ゆず子は簡単に説明した。
「えーとね、まず『雇用保険』に加入できる要件を満たして、加入して一定年数職場で働く。
そこを辞めると『離職証明書』が貰えるから、それを持ってハローワークに行って、『失業保険』給付の手続きをする。
…前の職場では雇用保険入ってたの?」
「多分…」
(この子、大丈夫かな?)
「あ…、でもこの会社で内定してるよね。どっちにしろ、もう貰えないか…」
すると、徳井は顔を青ざめさせた。
「貰えないんですか?」
「だってもう、内定した時点で『失業』状態じゃないもんね。失業保険って、職に就きたいけど就けない人の為のだもの」
「マジか…。すみません、ありがとうございました…」
徳井はしょんぼりしつつ、場を後にした。
数日前、中途採用で徳井大智が営業部に入って来た。ごく普通の当たり障りのない、今時の若者といった感じだ。
「徳井くん、いま彼女居ないんだって」
嬉々としてゆず子に話しかけて来たのは、徳井と同じ部署の東武梨奈だった。
ゆず子は笑って返した。
「あら。狙ってるの?」
「えー、でも自分3つも年上なんですよ? 相手してくれると思えませんよ~」
といいつつ、徳井を意識しまくりなのは丸わかり。ゆず子は言った。
「そう? あたしは徳井くん、年上彼女が向いてるように見えるけど」
「やだぁ~! 鳴瀬さんたら!!」
(…あたしは別にあなたが合うよ、なんて言ってないぞ)
東武は飲み物を口にすると、続けた。
「自分、もう一生独身かもしれないから、貯金頑張ってるんですよ。だってそれしか出来ないし~」
東武は『今までにいい恋愛をした事が無い』と度々ゆず子に言っていた。
勢いで付き合い始め、『この人が運命の人かも』と思い2度目のデートで身体を許し、その後音信不通になる、を懲りずに何度も繰り返しているらしい。
「まあ、お金は無いよりある方がいいからね」
「ですよね! お陰でやっと300万貯まったとこなんですよ」
「こら! 誰が聞いてるか分からないから、外で言っちゃダメよ」
「大丈夫ですって!」
有名女子アナに似た可愛い風貌なのに、ちょっと残念な女子であった。
ゆず子の耳に噂が入って来たのは、翌週の事だ。
「…梨奈ちゃん、徳井くんとちょっと怪しいかも」
その話をして来たのは、東武と同期で営業部の柴山美沙だった。
「何で?」
「金曜に『これから用事ある』って定時上がりした。あの子、いつものパターンだと金曜にデートして日曜に2度目のデートして連絡途切れて、月曜に落ち込んでるけど、週明けから上機嫌なんだもの」
すごい観察力だな、と思いつつゆず子は東武の肩を持ってみた。
「たまたまじゃない? 『2度目でダメになる』が『3度目』へ繋がったとか」
「…今日ね、2人がコソコソ話してたんだけど、私が来た瞬間サッと離れたよ」
「あら」
柴山は笑った。
「ま、私の悪口言ってただけかもしれないけどね」
(うーん、悪口の可能性は低いかな)
翌日。東武が事務部から書類を手に出てきたところで、ゆず子に声を掛けて来た。
「私、ちょっと引っ越すんです」
住所変更の為の書類を、事務部から貰って来たという。
(わざわざ私に教えるの?外部の人間なのに)
「へえ、住んでる所、契約満了の時期なの?」
「うーん。えへへ、ちょっとね」
(結局、何も教えてくれないのか。言ってみたかっただけ?)
東武は笑いながら手を振って、営業部へ戻って行った。ゆず子は意図が良く分からなかった。
次にゆず子が出社した時のこと。営業部の朝礼の時間と被っていたのだが、部署内の空気が劇的に悪かった。
(これは…、何か重大なトラブルでもあったかな?)
これまで幾度か倒産の決まった会社に出入りした事もあったが、その時とはまた違う雰囲気だった。
廊下の掃除を始めると、事務部の古株社員:河北がゆず子に話しかけてきた。
「…営業部、やばかったでしょ?」
「うん、何かあったの?」
「昨日ね、東武ちゃんが営業部内用のメッセージツールを使って、『私、東武梨奈は徳井大智さんと交際しており、結婚を前提とした同棲をしています』って、発信したの」
「は? 何それ」
思わずゆず子は苦笑した。アイドルの熱愛発表か。河北は続けた。
「聞いて笑っちゃったわよ。何でよりによって会社用のを使うんだか。東武ちゃんの事を可愛がってる課長が、部長から『どういう社員教育をしている!』って絞られたらしくてね。
若い子の考える事って、よく分からないわぁ。って言っても、あの子も30だっけ。そんな若くない、いい大人なのにね」
「…実はさ、この前あの子から『引っ越すんだ』ってニコニコ顔で言われたのね。『契約満了?』って聞いても、曖昧で教えてくれなくて。
ああ、そういう事だったの」
「え、そうだったの? いつ?」
「先週かな?」
それを聞くと、河北は神妙な顔をして口を開いた。
「…て、言う事は、今週で研修に入って3週間目だから、出会って2週間で交際と同棲開始? 若い子って手が早いのね」
柴山の話も反芻させてみると…。
3週間前の月曜に徳井が配属され研修開始、その週の金曜日に初デート(東武が徳井を狙ってるとゆず子に匂わせる)。
2週間前の月曜に柴山に恋愛沙汰を嗅ぎつかれる、その翌々日の水曜日に引っ越しの為の手続き…。
(出会って10日かも…)
ゆず子はある疑問を口にした。
「それにしても、何で発表したの? ここって社内恋愛の報告義務でもあるの?」
「ある訳無い無い。あれでしょ、流行りの『承認欲求』ってやつじゃない?」
河北はそう言うと、自分の部署へ戻った。
翌日。トイレ掃除をしていると、顔色の悪い東武が入って来た。ゆず子は声を掛けた。
「大丈夫? こっちのトイレ、終わったから使っていいよ」
「…ありがとうございます」
東武は呟くように言った後、涙を流し始めた。
「すみません。誰も、優しい言葉かけてくれる人居ないもので…」
別段、優しい言葉は掛けたつもりはないが、弱っているからそう感じたのか。
「そうなの? 無理しないようにね」
当たり障りなくやり過ごそうとしたゆず子だったが、東武は堰を切ったように話し始めた。
「自分、どうしていつもこんななってしまうんですかね? こうなる為にした訳じゃないのに…!」
(わぁ、逃げ場無いよ。聞いてあげるしかないか…)
腹を決めてゆず子は尋ねた。
「どうしたの? 何か失敗でもしたの?」
「自分、徳井くんと付き合っているんです。それを同じ部署の人達に教えて、見守って欲しかっただけなんです。
それで、業務連絡用のメッセージツールを使ってしまったばかりに、課長が部長から厳重注意を受ける事になってしまって…」
東武は、昨日河北から聞いたままの話をした。ゆず子は頷いた。
「そうなの。付き合う事自体は悪い事ではないわね。伝えたいなら、個人のスマホのメッセージアプリを使えば良かったね」
「そうなんです。会社の物を浅はかな考えで使ってしまって…」
東武はボロボロと泣いていた。鼻をすすると続けた。
「…自分、柴山さんみたいに応援して欲しかったんです」
ゆず子はその言葉に首を傾げた。
「柴山さん? 何で」
「柴山さん、彼氏が居るんです。たまたま休日にデートしているのを課長が見かけて、それで『真面目そうないい彼氏だね』って言ってて。
…自分も、そういう風に言葉を掛けてもらいたかったんです」
(おいおい、何だそれ…)
ゆず子は呆れたが、口添えをした。
「そうだったんだね…。自分がしたかった事と、逆の結果になって辛かったわね。
社内恋愛って仕事の失敗も評判も相手に筒抜けになるし、あなたに何かあった時にも、相手の評判を下げてしまう事もあるのよ。
だからあなたがすべき事は、仕事にプライベートを持ち込まず真面目に頑張る事だよ」
至極普通の事を言っただけだが、東武は泣きはらした目で何度も頷いた。
「『仕事を頑張る』…。そうですね、ありがとうございます」
頭を下げると、東武はトイレを後にした。
それからは仕事に差し障りなく、東武と徳井の関係も良好に続いている様だった。
「柴山さん、あのゲームなんすけど、俺レベル15から先に行けなくなって…」
声がした方をふと見ると、休憩中の柴山に徳井が絡んでいた。
「えー? 自分で何とかコツを掴みなさい」
「そのコツを教えて下さいよ~」
外回りから帰ってきた東武が現れると、徳井は柴山からさり気なく離れた。
(あらら?)
掃除の為にゆず子がトイレに行くと、柴山が歯磨きをしていた。ゆず子は何気なく言った。
「懐かれてるわね」
柴山は顔を顰めると、首を振り口を漱いだ。
「い・や・だ」
「あら、そうなの?」
「…あいつね、うちの実家のこと聞いてから、すり寄って来てるの」
柴山の父親が、隣県でご当地スーパーを展開する経営者である事は、ゆず子も知っていた。
ゆず子は目を丸くした。
「何それ。逆タマでも狙ってるの?」
「えー、マジ勘弁。あんな男。
鳴瀬さん、東武ちゃんのやらかしの件、あったでしょ? あれの時、徳井どうしてたと思う?」
「うーん…、彼女を庇ったとか?」
「ううん、その逆。東武ちゃんの話では、『同じ部署の人に話す?秘密にする?』って聞いたら徳井が『皆に訊かれてその都度説明するの怠いから、メッセージツールで言っといて』って言ったんだって。
そんで騒ぎの時に課長が『お前が言えと言ったのは本当か?』って聞いたら、『俺は何も言ってない。彼女がした事にびっくりしてる』って答えたらしい」
ゆず子は仰天した。
「ええ?! 何なのそれ」
「最っ低でしょ? 他にも色々聞くんだよ。生活費ちゃんと出さないとか、彼女が風邪ひいてもパチンコ行っちゃうとか」
「あらあら…。心配になっちゃうね、それ」
「徳井の方から東武ちゃんを熱心に口説いたくせに、何なんだろうね!」
柴山は口を尖らせた。ゆず子にはある仮説が浮かんだ。
失業保険の手続きをよく知らず、未支給になったらしい徳井。給付をあてにしていたという事は、金に困っていたのか?
そして、徳井を意識していた東武。ゆず子に徳井への好意を匂わせたその日に、徳井は東武を口説いたのかもしれない。
あの時、口が滑った東武は貯金額まで明かしてた。あの会話。もし金に困っていた徳井が聞いていたとしたら…?
自分に気のある女をその気にさせ、同棲に持ち込めば、生活費を折半させる理由が出来て、持ち金の節約が出来る。
あくまでも仮説だ。
それから半年後、柴山が寿退社する事になった。相手は交際していた件の彼氏だ。
「いやあ、『出来る人』から結婚しますね、世の中は」
外回りから戻ってきた徳井は、空席を見つめゆず子にそう言った。
「『出来る人』?」
「だって、柴山さんちゃんとお弁当作って持って来てるし、地味だけど仕事はちゃんとこなす人ですもん」
「あら、彼女さんだって出来る人じゃない」
「いやいや、ああ見えてズボラっすよ。部屋の掃除は週1だし、食事は総菜ばっかだし。
職場恋愛って辛いっすね。柴山さんの結婚で『次は徳井だからな』『早く決めてあげなよ』なんて、集中砲火受けてるんすよ?」
徳井は東武や上役が居ないのをいい事に、苦情をつらつら述べた。そっぽを向いて小声で徳井は呟いた。
「…『相手選び』間違えたなぁ、マジで」
0
お気に入りに追加
11
あなたにおすすめの小説
ヤンデレエリートの執愛婚で懐妊させられます
沖田弥子
恋愛
職場の後輩に恋人を略奪された澪。終業後に堪えきれず泣いていたところを、営業部のエリート社員、天王寺明夜に見つかってしまう。彼に優しく慰められながら居酒屋で事の顛末を話していたが、なぜか明夜と一夜を過ごすことに――!? 明夜は傷心した自分を慰めてくれただけだ、と考える澪だったが、翌朝「責任をとってほしい」と明夜に迫られ、婚姻届にサインしてしまった。突如始まった新婚生活。明夜は澪の心と身体を幸せで満たしてくれていたが、徐々に明夜のヤンデレな一面が見えてきて――執着強めな旦那様との極上溺愛ラブストーリー!


サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

『食管法廃止と米の行方一倉庫管理者の証言』
小川敦人
経済・企業
エッセイ『食管法廃止と米の行方――倉庫管理者の証言』は、1995年に廃止された食糧管理法(食管法)を背景に、日本の食料政策とその影響について倉庫管理者の視点から描いた作品です。主人公の野村隆志は、1977年から政府米の品質管理に携わり、食管法のもとで米の一元管理が行われていた時代を経験してきました。戦後の食糧難を知る世代として、米の価値を重んじ、厳格な倉庫管理のもとで働いていました。
しかし、1980年代後半から米の過剰生産や市場原理の導入を背景に、食管法の廃止が議論されるようになります。1993年の「タイ米騒動」を経て、1995年に食管法が正式に廃止されると、政府の関与が縮小され、米市場は自由化の道を歩み始めます。野村の職場である倉庫業界も大きな変化を余儀なくされ、彼は市場原理が支配する新たな時代への不安を抱えながらも、変化に適応していきます。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。

男と女の初夜
緑谷めい
恋愛
キクナー王国との戦にあっさり敗れたコヅクーエ王国。
終戦条約の約款により、コヅクーエ王国の王女クリスティーヌは、"高圧的で粗暴"という評判のキクナー王国の国王フェリクスに嫁ぐこととなった。
しかし、クリスティーヌもまた”傲慢で我が儘”と噂される王女であった――
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる