鳴瀬ゆず子の社外秘備忘録 〜掃除のおばさんは見た~

羽瀬川璃紗

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「…鳴瀬なるせさんは、転職経験ありますか?」

 顔を上げると、そこには中途採用での研修が始まったばかりの男性社員:徳井とくいが居た。
 ゆず子はモップを動かす手を止めると、答えた。

「そりゃあ、あるけど。…何かあったの?」


 この手のポジションの人間が、このニュアンスで訊いて来る事は、大概『この会社大丈夫?変な会社だったりしない?』とか『転職したばかりだけど、正直もう転職したい』的な相談だ。

 だが徳井は思わぬ事を口にした。

「『失業保険』って、いつ貰えるんですか?」

「え、失業保険? それはハローワークで手続きしないと貰えないよ」

 ゆず子の返答に、徳井は面食らった表情をした。

「ハローワーク、ですか?」

「そうだよ。しかも手続きして、認定されないと貰えないよ。…もしかして転職、初めてなの?」

「はい」

 ゆず子は簡単に説明した。

「えーとね、まず『雇用保険』に加入できる要件を満たして、加入して一定年数職場で働く。
そこを辞めると『離職証明書』が貰えるから、それを持ってハローワークに行って、『失業保険』給付の手続きをする。
…前の職場では雇用保険入ってたの?」

「多分…」

(この子、大丈夫かな?)

「あ…、でもこの会社で内定してるよね。どっちにしろ、もう貰えないか…」

 すると、徳井は顔を青ざめさせた。

「貰えないんですか?」

「だってもう、内定した時点で『失業』状態じゃないもんね。失業保険って、職に就きたいけど就けない人の為のだもの」

「マジか…。すみません、ありがとうございました…」

 徳井はしょんぼりしつつ、場を後にした。


 数日前、中途採用で徳井大智とくい だいちが営業部に入って来た。ごく普通の当たり障りのない、今時の若者といった感じだ。



「徳井くん、いま彼女居ないんだって」

 嬉々としてゆず子に話しかけて来たのは、徳井と同じ部署の東武梨奈とうぶ りなだった。
 ゆず子は笑って返した。

「あら。狙ってるの?」

「えー、でも自分3つも年上なんですよ? 相手してくれると思えませんよ~」

 といいつつ、徳井を意識しまくりなのは丸わかり。ゆず子は言った。

「そう? あたしは徳井くん、年上彼女が向いてるように見えるけど」

「やだぁ~! 鳴瀬さんたら!!」

(…あたしは別にあなたが合うよ、なんて言ってないぞ)

 東武は飲み物を口にすると、続けた。

「自分、もう一生独身かもしれないから、貯金頑張ってるんですよ。だってそれしか出来ないし~」


 東武は『今までにいい恋愛をした事が無い』と度々ゆず子に言っていた。
 勢いで付き合い始め、『この人が運命の人かも』と思い2度目のデートで身体を許し、その後音信不通になる、を懲りずに何度も繰り返しているらしい。


「まあ、お金は無いよりある方がいいからね」

「ですよね! お陰でやっと300万貯まったとこなんですよ」

「こら! 誰が聞いてるか分からないから、外で言っちゃダメよ」

「大丈夫ですって!」

 有名女子アナに似た可愛い風貌なのに、ちょっと残念な女子であった。



 ゆず子の耳に噂が入って来たのは、翌週の事だ。

「…梨奈ちゃん、徳井くんとちょっと怪しいかも」

 その話をして来たのは、東武と同期で営業部の柴山美沙しばやま みさだった。

「何で?」

「金曜に『これから用事ある』って定時上がりした。あの子、いつものパターンだと金曜にデートして日曜に2度目のデートして連絡途切れて、月曜に落ち込んでるけど、週明けから上機嫌なんだもの」

 すごい観察力だな、と思いつつゆず子は東武の肩を持ってみた。

「たまたまじゃない? 『2度目でダメになる』が『3度目』へ繋がったとか」

「…今日ね、2人がコソコソ話してたんだけど、私が来た瞬間サッと離れたよ」

「あら」

 柴山は笑った。

「ま、私の悪口言ってただけかもしれないけどね」

(うーん、悪口の可能性は低いかな)



 翌日。東武が事務部から書類を手に出てきたところで、ゆず子に声を掛けて来た。

「私、ちょっと引っ越すんです」

 住所変更の為の書類を、事務部から貰って来たという。

(わざわざ私に教えるの?外部の人間なのに)

「へえ、住んでる所、契約満了の時期なの?」

「うーん。えへへ、ちょっとね」

(結局、何も教えてくれないのか。言ってみたかっただけ?)

 東武は笑いながら手を振って、営業部へ戻って行った。ゆず子は意図が良く分からなかった。



 次にゆず子が出社した時のこと。営業部の朝礼の時間と被っていたのだが、部署内の空気が劇的に悪かった。

(これは…、何か重大なトラブルでもあったかな?)

 これまで幾度か倒産の決まった会社に出入りした事もあったが、その時とはまた違う雰囲気だった。

 廊下の掃除を始めると、事務部の古株社員:河北かわきたがゆず子に話しかけてきた。

「…営業部、やばかったでしょ?」

「うん、何かあったの?」

「昨日ね、東武ちゃんが営業部内用のメッセージツールを使って、『私、東武梨奈は徳井大智さんと交際しており、結婚を前提とした同棲をしています』って、発信したの」

「は? 何それ」

 思わずゆず子は苦笑した。アイドルの熱愛発表か。河北は続けた。

「聞いて笑っちゃったわよ。何でよりによって会社用のを使うんだか。東武ちゃんの事を可愛がってる課長が、部長から『どういう社員教育をしている!』って絞られたらしくてね。
若い子の考える事って、よく分からないわぁ。って言っても、あの子も30だっけ。そんな若くない、いい大人なのにね」

「…実はさ、この前あの子から『引っ越すんだ』ってニコニコ顔で言われたのね。『契約満了?』って聞いても、曖昧で教えてくれなくて。
ああ、そういう事だったの」

「え、そうだったの? いつ?」

「先週かな?」

 それを聞くと、河北は神妙な顔をして口を開いた。

「…て、言う事は、今週で研修に入って3週間目だから、出会って2週間で交際と同棲開始? 若い子って手が早いのね」


 柴山の話も反芻させてみると…。

 3週間前の月曜に徳井が配属され研修開始、その週の金曜日に初デート(東武が徳井を狙ってるとゆず子に匂わせる)。
 2週間前の月曜に柴山に恋愛沙汰を嗅ぎつかれる、その翌々日の水曜日に引っ越しの為の手続き…。


(出会って10日かも…)

 ゆず子はある疑問を口にした。

「それにしても、何で発表したの? ここって社内恋愛の報告義務でもあるの?」

「ある訳無い無い。あれでしょ、流行りの『承認欲求』ってやつじゃない?」

 河北はそう言うと、自分の部署へ戻った。



 翌日。トイレ掃除をしていると、顔色の悪い東武が入って来た。ゆず子は声を掛けた。

「大丈夫? こっちのトイレ、終わったから使っていいよ」

「…ありがとうございます」

 東武は呟くように言った後、涙を流し始めた。

「すみません。誰も、優しい言葉かけてくれる人居ないもので…」

 別段、優しい言葉は掛けたつもりはないが、弱っているからそう感じたのか。

「そうなの? 無理しないようにね」

 当たり障りなくやり過ごそうとしたゆず子だったが、東武は堰を切ったように話し始めた。

「自分、どうしていつもこんななってしまうんですかね? こうなる為にした訳じゃないのに…!」


(わぁ、逃げ場無いよ。聞いてあげるしかないか…)

 腹を決めてゆず子は尋ねた。

「どうしたの? 何か失敗でもしたの?」

「自分、徳井くんと付き合っているんです。それを同じ部署の人達に教えて、見守って欲しかっただけなんです。
それで、業務連絡用のメッセージツールを使ってしまったばかりに、課長が部長から厳重注意を受ける事になってしまって…」

 東武は、昨日河北から聞いたままの話をした。ゆず子は頷いた。

「そうなの。付き合う事自体は悪い事ではないわね。伝えたいなら、個人のスマホのメッセージアプリを使えば良かったね」

「そうなんです。会社の物を浅はかな考えで使ってしまって…」

 東武はボロボロと泣いていた。鼻をすすると続けた。

「…自分、柴山さんみたいに応援して欲しかったんです」

 ゆず子はその言葉に首を傾げた。

「柴山さん? 何で」

「柴山さん、彼氏が居るんです。たまたま休日にデートしているのを課長が見かけて、それで『真面目そうないい彼氏だね』って言ってて。
…自分も、そういう風に言葉を掛けてもらいたかったんです」


(おいおい、何だそれ…)

 ゆず子は呆れたが、口添えをした。

「そうだったんだね…。自分がしたかった事と、逆の結果になって辛かったわね。
社内恋愛って仕事の失敗も評判も相手に筒抜けになるし、あなたに何かあった時にも、相手の評判を下げてしまう事もあるのよ。
だからあなたがすべき事は、仕事にプライベートを持ち込まず真面目に頑張る事だよ」

 至極普通の事を言っただけだが、東武は泣きはらした目で何度も頷いた。

「『仕事を頑張る』…。そうですね、ありがとうございます」

 頭を下げると、東武はトイレを後にした。


 それからは仕事に差し障りなく、東武と徳井の関係も良好に続いている様だった。



「柴山さん、あのゲームなんすけど、俺レベル15から先に行けなくなって…」

 声がした方をふと見ると、休憩中の柴山に徳井が絡んでいた。

「えー? 自分で何とかコツを掴みなさい」

「そのコツを教えて下さいよ~」

 外回りから帰ってきた東武が現れると、徳井は柴山からさり気なく離れた。

(あらら?)


 掃除の為にゆず子がトイレに行くと、柴山が歯磨きをしていた。ゆず子は何気なく言った。

「懐かれてるわね」

 柴山は顔を顰めると、首を振り口を漱いだ。

「い・や・だ」

「あら、そうなの?」

「…あいつね、うちの実家のこと聞いてから、すり寄って来てるの」


 柴山の父親が、隣県でご当地スーパーを展開する経営者である事は、ゆず子も知っていた。

 ゆず子は目を丸くした。

「何それ。逆タマでも狙ってるの?」

「えー、マジ勘弁。あんな男。
鳴瀬さん、東武ちゃんのやらかしの件、あったでしょ? あれの時、徳井どうしてたと思う?」

「うーん…、彼女を庇ったとか?」

「ううん、その逆。東武ちゃんの話では、『同じ部署の人に話す?秘密にする?』って聞いたら徳井が『皆に訊かれてその都度説明するの怠いから、メッセージツールで言っといて』って言ったんだって。
そんで騒ぎの時に課長が『お前が言えと言ったのは本当か?』って聞いたら、『俺は何も言ってない。彼女がした事にびっくりしてる』って答えたらしい」

 ゆず子は仰天した。

「ええ?! 何なのそれ」

「最っ低でしょ? 他にも色々聞くんだよ。生活費ちゃんと出さないとか、彼女が風邪ひいてもパチンコ行っちゃうとか」

「あらあら…。心配になっちゃうね、それ」

「徳井の方から東武ちゃんを熱心に口説いたくせに、何なんだろうね!」

 柴山は口を尖らせた。ゆず子にはある仮説が浮かんだ。


 失業保険の手続きをよく知らず、未支給になったらしい徳井。給付をあてにしていたという事は、金に困っていたのか?

 そして、徳井を意識していた東武。ゆず子に徳井への好意を匂わせたその日に、徳井は東武を口説いたのかもしれない。

 あの時、口が滑った東武は貯金額まで明かしてた。あの会話。もし金に困っていた徳井が聞いていたとしたら…?

 自分に気のある女をその気にさせ、同棲に持ち込めば、生活費を折半させる理由が出来て、持ち金の節約が出来る。

 あくまでも仮説だ。



 それから半年後、柴山が寿退社する事になった。相手は交際していた件の彼氏だ。


「いやあ、『出来る人』から結婚しますね、世の中は」

 外回りから戻ってきた徳井は、空席を見つめゆず子にそう言った。

「『出来る人』?」

「だって、柴山さんちゃんとお弁当作って持って来てるし、地味だけど仕事はちゃんとこなす人ですもん」

「あら、彼女さんだって出来る人じゃない」

「いやいや、ああ見えてズボラっすよ。部屋の掃除は週1だし、食事は総菜ばっかだし。
職場恋愛って辛いっすね。柴山さんの結婚で『次は徳井だからな』『早く決めてあげなよ』なんて、集中砲火受けてるんすよ?」

 徳井は東武や上役が居ないのをいい事に、苦情をつらつら述べた。そっぽを向いて小声で徳井は呟いた。

「…『相手選び』間違えたなぁ、マジで」

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