【泣き虫龍神様】水まさりなば

一花みえる

文字の大きさ
上 下
10 / 12

10

しおりを挟む
   私の一日は、いつもあの子の声から始まっていた。優しくて柔らかい、陽だまりのような声。それはこの世のどんな鳥よりも可愛らしく、鈴が転がるよりも愛おしかった。
    しゅう、と紡がれるその一言は私の救いであり、ああ、私はまだ生きているのだと思わせてくれた。しかし今日は、いや、これからは。もうその声を聞くことができない。
「……私はこの日のために生きてきたのでしょうね」
    布団で眠るおみは、まだ心地よい夢の中だろう。思い切り大の字になって気持ちよさそうに眠っている。そっと髪を撫でて、そして目を閉じた。
    今日、長くて明日。私の命は潰えるだろう。こんな時代だ。いつ死んでもおかしくない。東京も京都も空襲で焼けた。私はあの山にいたから運良く生き延びただけ。そして、今まで生きてこられた。
「ありがとう、おみ。貴方のおかげで私は生きる意味を得ました」
    大した霊力もなく、学校に行けるほどの余裕もなかった。私はただ無意味に生きて、そして死んでいくだけの人間だった。
    しかしおみに出会い、私は「おみのために」生きることができた。おみを立派な龍神様に育て上げる。それが私の生きがいだった。だからここで死ぬことは怖くは無い。遅かれ早かれ人は死ぬ。それがただ、今だっただけ。
    でも。
「泣いて欲しい、と。最後に願ってしまってごめんなさい。私は貴方の笑顔が大好きなのに。私のために泣いてくれたらどれほど幸せかと願ってしまった……私は本当に不出来な人間です」
「むにゃ……」
    私は室生の人間だ。
    おみに仕え、おみを育てる者。
    しかしその一方で私は一人の人間でもあった。愛おしく、大切な人に泣いて欲しいと願ってしまうような。弱くてどうしようもない、ただの人間でもあるのだ。
「修三、そろそろ」
「はい、兄上」
    室生の正装を身にまとった私の姿を見た長兄は、どうにも言い難い顔をした。私がこの服を着るのはこれが最初で最後だ。
    その晴れ姿がこんな、こんな理由だなんて。きっと兄上も胸が痛むのだろう。
「兄上。今までありがとうございました」
「それはこちらの言葉だ」
「どうかおみを、よろしくお願いします」
「任された」
    私が持っていくのはこの体だけ。あとは全てここに置いていく。思い出も、後悔も、未練も。何もかも置いてこの世を去る。
    いや。それともう一つ。
「髪を一房、もらっていきます」
「おみ様のか」
「はい。禁忌であることは重々承知しております」
「……好きにしなさい。今の私は当主ではない、お前の兄だ」
    ああ、もう。やっぱり貴方はどこまでも私に優しい。こんなこと他の人に気づかれたら大変なことになるのに。 
    霊力は、髪に宿る。おみはまだ幼いから鎖骨くらいまでしか長さがないのに、それを人為的に切るとかなり大きな影響が出るだろう。
   霊力は減り、記憶もあやふやになる。もしかしたら霊力が溜まりにくい体になるかもしれない。
「ごめんなさい。おみ」
「んにゃ」
    懐から短刀を取り出し、銀色の髪を少しだけ切り取る。瞬間、波が弾けるような音と眩しい光が飛び散った。
「次の方に迷惑をかけますね」
「その時は私が頭を下げよう」
「お願いします」
    切り取った髪を小さな袋に入れ、懐に仕舞い込む。これで準備は整った。
    まだ空は目覚めていない。日の出にはまだ遠いようだ。

    外に出ると、すでに軍の車が停まっていた。海軍の白い軍服が遠くに見えた。正門を潜り、最後に長兄の方を振り返った。
「それでは。私が死んだら新しい結界を張れるようになるでしょう」
「お前の辞世の句……必ず受け継ごう」
「はい」
    不思議と気持ちは凪いでいた。死を覚悟するとこうも穏やかな気持ちになるのだろうか。朝露で湿った草を踏み、歩き出す。
    もう振り返らない。振り返ってはいけない。私はもう未練を断ち切った。あとは室生の人間として潔く死ぬだけ。
    そう、覚悟を決めたのに。
「しゅーうー……!」
「おみ……!?」
    遠くから、おみの声が聞こえてきた。まさか幻聴まで聞こえてくるとは。いや、でもまだ寝ているはず。それに髪を切ったからしばらく動けない。
    だからこれは私の願望が聞かせる都合のいい幻聴だ。
「しゅうー!    しゅう、しゅーうー!」
「……っ!」
    小さな足音も、聞こえてきた。
    ああ、駄目だ。私は何もかも置いてきたはずなのに。
「……っ、おみ、っ」
    どうして涙が頬を伝うんだろう。
    どうして足が震えるんだろう。
    私は、まだ生きたいと、願ってしまうんだろう。
「おみ様、いけません!」
「やーあー……しゅうー……みえぇ……」
    兄上が必死になって引き止める声が聞こえた。急がなければ。これ以上兄上に迷惑をかけてはいけない。
    おみ。貴方はいつも私の救いでした。私の光でした。貴方のためなら私は何でも出来る。
    空が泣き始めた。大粒の雨が降り注ぐ。あっという間に地面はぬかるみ、目の前は白くけぶった。
「泣く涙、雨と降らなむ、渡り川」
    貴方の流した涙が、どうか雨になって。そうして三途の川の水を溢れさせておくれ。
「水まさりなば、帰りくるがに」
    私が帰ってこられるように。
「さようなら、ありがとう。おみ」
    大粒の雨が静かに私の頬を濡らしていった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

5年も苦しんだのだから、もうスッキリ幸せになってもいいですよね?

gacchi
恋愛
13歳の学園入学時から5年、第一王子と婚約しているミレーヌは王子妃教育に疲れていた。好きでもない王子のために苦労する意味ってあるんでしょうか。 そんなミレーヌに王子は新しい恋人を連れて 「婚約解消してくれる?優しいミレーヌなら許してくれるよね?」 もう私、こんな婚約者忘れてスッキリ幸せになってもいいですよね? 3/5 1章完結しました。おまけの後、2章になります。 4/4 完結しました。奨励賞受賞ありがとうございました。 1章が書籍になりました。

【完結】失いかけた君にもう一度

暮田呉子
恋愛
偶然、振り払った手が婚約者の頬に当たってしまった。 叩くつもりはなかった。 しかし、謝ろうとした矢先、彼女は全てを捨てていなくなってしまった──。

狐メイドは 絆されない

一花八華
キャラ文芸
たまもさん(9歳)は、狐メイドです。傾国の美女で悪女だった記憶があります。現在、魔術師のセイの元に身を寄せています。ただ…セイは、元安倍晴明という陰陽師で、たまもさんの宿敵で…。 美悪女を目指す、たまもさんとたまもさんを溺愛するセイのほのぼの日常ショートストーリーです。狐メイドは、宿敵なんかに絆されない☆ 完結に設定にしていますが、たまに更新します。 ※表紙は、mさんに塗っていただきました。柔らかな色彩!ありがとうございます!

結婚30年、契約満了したので離婚しませんか?

おもちのかたまり
恋愛
恋愛・小説 11位になりました! 皆様ありがとうございます。 「私、旦那様とお付き合いも甘いやり取りもしたことが無いから…ごめんなさい、ちょっと他人事なのかも。もちろん、貴方達の事は心から愛しているし、命より大事よ。」 眉根を下げて笑う母様に、一発じゃあ足りないなこれは。と確信した。幸い僕も姉さん達も祝福持ちだ。父様のような力極振りではないけれど、三対一なら勝ち目はある。 「じゃあ母様は、父様が嫌で離婚するわけではないんですか?」 ケーキを幸せそうに頬張っている母様は、僕の言葉にきょとん。と目を見開いて。…もしかすると、母様にとって父様は、関心を向ける程の相手ではないのかもしれない。嫌な予感に、今日一番の寒気がする。 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇ 20年前に攻略対象だった父親と、悪役令嬢の取り巻きだった母親の現在のお話。 ハッピーエンド・バットエンド・メリーバットエンド・女性軽視・女性蔑視 上記に当てはまりますので、苦手な方、ご不快に感じる方はお気を付けください。

極悪家庭教師の溺愛レッスン~悪魔な彼はお隣さん~

恵喜 どうこ
恋愛
「高校合格のお礼をくれない?」 そう言っておねだりしてきたのはお隣の家庭教師のお兄ちゃん。 私よりも10歳上のお兄ちゃんはずっと憧れの人だったんだけど、好きだという告白もないままに男女の関係に発展してしまった私は苦しくて、どうしようもなくて、彼の一挙手一投足にただ振り回されてしまっていた。 葵は私のことを本当はどう思ってるの? 私は葵のことをどう思ってるの? 意地悪なカテキョに翻弄されっぱなし。 こうなったら確かめなくちゃ! 葵の気持ちも、自分の気持ちも! だけど甘い誘惑が多すぎて―― ちょっぴりスパイスをきかせた大人の男と女子高生のラブストーリーです。

後宮の棘

香月みまり
キャラ文芸
蔑ろにされ婚期をのがした25歳皇女がついに輿入り!相手は敵国の禁軍将軍。冷めた姫vs堅物男のチグハグな夫婦は帝国内の騒乱に巻き込まれていく。 ☆完結しました☆ スピンオフ「孤児が皇后陛下と呼ばれるまで」の進捗と合わせて番外編を不定期に公開していきます。 第13回ファンタジー大賞特別賞受賞! ありがとうございました!!

セレナの居場所 ~下賜された側妃~

緑谷めい
恋愛
 後宮が廃され、国王エドガルドの側妃だったセレナは、ルーベン・アルファーロ侯爵に下賜された。自らの新たな居場所を作ろうと努力するセレナだったが、夫ルーベンの幼馴染だという伯爵家令嬢クラーラが頻繁に屋敷を訪れることに違和感を覚える。

私は心を捨てました 〜「お前なんかどうでもいい」と言ったあなた、どうして今更なのですか?〜

月橋りら
恋愛
私に婚約の打診をしてきたのは、ルイス・フォン・ラグリー侯爵子息。 だが、彼には幼い頃から大切に想う少女がいたーー。 「お前なんかどうでもいい」 そうあなたが言ったから。 私は心を捨てたのに。 あなたはいきなり許しを乞うてきた。 そして優しくしてくるようになった。 ーー私が想いを捨てた後で。 どうして今更なのですかーー。 *この小説はカクヨム様、エブリスタ様でも連載しております。

処理中です...