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私の一日は、いつもあの子の声から始まっていた。優しくて柔らかい、陽だまりのような声。それはこの世のどんな鳥よりも可愛らしく、鈴が転がるよりも愛おしかった。
しゅう、と紡がれるその一言は私の救いであり、ああ、私はまだ生きているのだと思わせてくれた。しかし今日は、いや、これからは。もうその声を聞くことができない。
「……私はこの日のために生きてきたのでしょうね」
布団で眠るおみは、まだ心地よい夢の中だろう。思い切り大の字になって気持ちよさそうに眠っている。そっと髪を撫でて、そして目を閉じた。
今日、長くて明日。私の命は潰えるだろう。こんな時代だ。いつ死んでもおかしくない。東京も京都も空襲で焼けた。私はあの山にいたから運良く生き延びただけ。そして、今まで生きてこられた。
「ありがとう、おみ。貴方のおかげで私は生きる意味を得ました」
大した霊力もなく、学校に行けるほどの余裕もなかった。私はただ無意味に生きて、そして死んでいくだけの人間だった。
しかしおみに出会い、私は「おみのために」生きることができた。おみを立派な龍神様に育て上げる。それが私の生きがいだった。だからここで死ぬことは怖くは無い。遅かれ早かれ人は死ぬ。それがただ、今だっただけ。
でも。
「泣いて欲しい、と。最後に願ってしまってごめんなさい。私は貴方の笑顔が大好きなのに。私のために泣いてくれたらどれほど幸せかと願ってしまった……私は本当に不出来な人間です」
「むにゃ……」
私は室生の人間だ。
おみに仕え、おみを育てる者。
しかしその一方で私は一人の人間でもあった。愛おしく、大切な人に泣いて欲しいと願ってしまうような。弱くてどうしようもない、ただの人間でもあるのだ。
「修三、そろそろ」
「はい、兄上」
室生の正装を身にまとった私の姿を見た長兄は、どうにも言い難い顔をした。私がこの服を着るのはこれが最初で最後だ。
その晴れ姿がこんな、こんな理由だなんて。きっと兄上も胸が痛むのだろう。
「兄上。今までありがとうございました」
「それはこちらの言葉だ」
「どうかおみを、よろしくお願いします」
「任された」
私が持っていくのはこの体だけ。あとは全てここに置いていく。思い出も、後悔も、未練も。何もかも置いてこの世を去る。
いや。それともう一つ。
「髪を一房、もらっていきます」
「おみ様のか」
「はい。禁忌であることは重々承知しております」
「……好きにしなさい。今の私は当主ではない、お前の兄だ」
ああ、もう。やっぱり貴方はどこまでも私に優しい。こんなこと他の人に気づかれたら大変なことになるのに。
霊力は、髪に宿る。おみはまだ幼いから鎖骨くらいまでしか長さがないのに、それを人為的に切るとかなり大きな影響が出るだろう。
霊力は減り、記憶もあやふやになる。もしかしたら霊力が溜まりにくい体になるかもしれない。
「ごめんなさい。おみ」
「んにゃ」
懐から短刀を取り出し、銀色の髪を少しだけ切り取る。瞬間、波が弾けるような音と眩しい光が飛び散った。
「次の方に迷惑をかけますね」
「その時は私が頭を下げよう」
「お願いします」
切り取った髪を小さな袋に入れ、懐に仕舞い込む。これで準備は整った。
まだ空は目覚めていない。日の出にはまだ遠いようだ。
外に出ると、すでに軍の車が停まっていた。海軍の白い軍服が遠くに見えた。正門を潜り、最後に長兄の方を振り返った。
「それでは。私が死んだら新しい結界を張れるようになるでしょう」
「お前の辞世の句……必ず受け継ごう」
「はい」
不思議と気持ちは凪いでいた。死を覚悟するとこうも穏やかな気持ちになるのだろうか。朝露で湿った草を踏み、歩き出す。
もう振り返らない。振り返ってはいけない。私はもう未練を断ち切った。あとは室生の人間として潔く死ぬだけ。
そう、覚悟を決めたのに。
「しゅーうー……!」
「おみ……!?」
遠くから、おみの声が聞こえてきた。まさか幻聴まで聞こえてくるとは。いや、でもまだ寝ているはず。それに髪を切ったからしばらく動けない。
だからこれは私の願望が聞かせる都合のいい幻聴だ。
「しゅうー! しゅう、しゅーうー!」
「……っ!」
小さな足音も、聞こえてきた。
ああ、駄目だ。私は何もかも置いてきたはずなのに。
「……っ、おみ、っ」
どうして涙が頬を伝うんだろう。
どうして足が震えるんだろう。
私は、まだ生きたいと、願ってしまうんだろう。
「おみ様、いけません!」
「やーあー……しゅうー……みえぇ……」
兄上が必死になって引き止める声が聞こえた。急がなければ。これ以上兄上に迷惑をかけてはいけない。
おみ。貴方はいつも私の救いでした。私の光でした。貴方のためなら私は何でも出来る。
空が泣き始めた。大粒の雨が降り注ぐ。あっという間に地面はぬかるみ、目の前は白くけぶった。
「泣く涙、雨と降らなむ、渡り川」
貴方の流した涙が、どうか雨になって。そうして三途の川の水を溢れさせておくれ。
「水まさりなば、帰りくるがに」
私が帰ってこられるように。
「さようなら、ありがとう。おみ」
大粒の雨が静かに私の頬を濡らしていった。
しゅう、と紡がれるその一言は私の救いであり、ああ、私はまだ生きているのだと思わせてくれた。しかし今日は、いや、これからは。もうその声を聞くことができない。
「……私はこの日のために生きてきたのでしょうね」
布団で眠るおみは、まだ心地よい夢の中だろう。思い切り大の字になって気持ちよさそうに眠っている。そっと髪を撫でて、そして目を閉じた。
今日、長くて明日。私の命は潰えるだろう。こんな時代だ。いつ死んでもおかしくない。東京も京都も空襲で焼けた。私はあの山にいたから運良く生き延びただけ。そして、今まで生きてこられた。
「ありがとう、おみ。貴方のおかげで私は生きる意味を得ました」
大した霊力もなく、学校に行けるほどの余裕もなかった。私はただ無意味に生きて、そして死んでいくだけの人間だった。
しかしおみに出会い、私は「おみのために」生きることができた。おみを立派な龍神様に育て上げる。それが私の生きがいだった。だからここで死ぬことは怖くは無い。遅かれ早かれ人は死ぬ。それがただ、今だっただけ。
でも。
「泣いて欲しい、と。最後に願ってしまってごめんなさい。私は貴方の笑顔が大好きなのに。私のために泣いてくれたらどれほど幸せかと願ってしまった……私は本当に不出来な人間です」
「むにゃ……」
私は室生の人間だ。
おみに仕え、おみを育てる者。
しかしその一方で私は一人の人間でもあった。愛おしく、大切な人に泣いて欲しいと願ってしまうような。弱くてどうしようもない、ただの人間でもあるのだ。
「修三、そろそろ」
「はい、兄上」
室生の正装を身にまとった私の姿を見た長兄は、どうにも言い難い顔をした。私がこの服を着るのはこれが最初で最後だ。
その晴れ姿がこんな、こんな理由だなんて。きっと兄上も胸が痛むのだろう。
「兄上。今までありがとうございました」
「それはこちらの言葉だ」
「どうかおみを、よろしくお願いします」
「任された」
私が持っていくのはこの体だけ。あとは全てここに置いていく。思い出も、後悔も、未練も。何もかも置いてこの世を去る。
いや。それともう一つ。
「髪を一房、もらっていきます」
「おみ様のか」
「はい。禁忌であることは重々承知しております」
「……好きにしなさい。今の私は当主ではない、お前の兄だ」
ああ、もう。やっぱり貴方はどこまでも私に優しい。こんなこと他の人に気づかれたら大変なことになるのに。
霊力は、髪に宿る。おみはまだ幼いから鎖骨くらいまでしか長さがないのに、それを人為的に切るとかなり大きな影響が出るだろう。
霊力は減り、記憶もあやふやになる。もしかしたら霊力が溜まりにくい体になるかもしれない。
「ごめんなさい。おみ」
「んにゃ」
懐から短刀を取り出し、銀色の髪を少しだけ切り取る。瞬間、波が弾けるような音と眩しい光が飛び散った。
「次の方に迷惑をかけますね」
「その時は私が頭を下げよう」
「お願いします」
切り取った髪を小さな袋に入れ、懐に仕舞い込む。これで準備は整った。
まだ空は目覚めていない。日の出にはまだ遠いようだ。
外に出ると、すでに軍の車が停まっていた。海軍の白い軍服が遠くに見えた。正門を潜り、最後に長兄の方を振り返った。
「それでは。私が死んだら新しい結界を張れるようになるでしょう」
「お前の辞世の句……必ず受け継ごう」
「はい」
不思議と気持ちは凪いでいた。死を覚悟するとこうも穏やかな気持ちになるのだろうか。朝露で湿った草を踏み、歩き出す。
もう振り返らない。振り返ってはいけない。私はもう未練を断ち切った。あとは室生の人間として潔く死ぬだけ。
そう、覚悟を決めたのに。
「しゅーうー……!」
「おみ……!?」
遠くから、おみの声が聞こえてきた。まさか幻聴まで聞こえてくるとは。いや、でもまだ寝ているはず。それに髪を切ったからしばらく動けない。
だからこれは私の願望が聞かせる都合のいい幻聴だ。
「しゅうー! しゅう、しゅーうー!」
「……っ!」
小さな足音も、聞こえてきた。
ああ、駄目だ。私は何もかも置いてきたはずなのに。
「……っ、おみ、っ」
どうして涙が頬を伝うんだろう。
どうして足が震えるんだろう。
私は、まだ生きたいと、願ってしまうんだろう。
「おみ様、いけません!」
「やーあー……しゅうー……みえぇ……」
兄上が必死になって引き止める声が聞こえた。急がなければ。これ以上兄上に迷惑をかけてはいけない。
おみ。貴方はいつも私の救いでした。私の光でした。貴方のためなら私は何でも出来る。
空が泣き始めた。大粒の雨が降り注ぐ。あっという間に地面はぬかるみ、目の前は白くけぶった。
「泣く涙、雨と降らなむ、渡り川」
貴方の流した涙が、どうか雨になって。そうして三途の川の水を溢れさせておくれ。
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