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1巻
1-1
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八月 青葉雨
夏の空は、どこまでも深く青い。
草の香り、土の匂い。季節の花々はまるで命そのもののように煌めいている。
その全てがあるこの場所は、静かで穏やかだった。
ここは『お山』と呼ばれる山にある、一棟の建物の庭。
なんとなく手入れをした門代わりの生垣に囲まれて、俺――室生涼太は水の入ったバケツに雑巾を突っ込んだ。
雲一つない真昼の日差しは暑い。ジリジリと肌が焼ける感覚を首の後ろに感じていた。
バケツの水面に映る自分の姿は、いつも通り癖っ毛の黒髪。先代から引き継いだ家宝の首飾りをつけ、紺色の浴衣を着ている。どうしてこんな暑い日に濃い色の浴衣を選んでしまったんだろう。熱を吸収してますます暑く感じる気がする。
典型的な日本家屋である我が家は、古本屋をやっている。うっすらと滲んだ汗を拭いながら「室生書房」と書かれた木板の看板を布で拭き上げる。
実際はネット書店なので、ここに足を運ぶ人は存在しないが、出入り口は綺麗にしておくに越したことはない。だからと言ってどうして俺はこんな日照りの中で作業をしているんだろう。
それには、俺の使命が関係している。一人で動ける時間じゃないとここまで自由に動けないのだ。
その使命とは――
「ああ、降るかな。これは」
急にズキズキと痛み出したこめかみを押さえ、俺は遠くの空を見つめる。それまで雲一つなかった青空に、いつの間にか灰色の雨雲が現れていた。重たい色に呼応するように俺の頭もぐっと締めつけられていく。
この痛みには幼い頃からずっと悩まされていた。どんな薬を飲んでも治らないし、病院に行っても軽くなることはない。両親は雨が降っても雷が鳴っても平然としているのに。なぜか俺だけ、雨が降るたび頭痛に苦しんできた。
だから今更、こんなことで悩んだりはしない。どうしようもないのだから。
しかし今から数分後に訪れる『嵐』のことを考えると別の意味で頭が痛くなる。
「さっきまで寝てたのに……どうしたんだ、急に」
急いで看板を抱え、家の中に入る。玄関の引き戸を閉める直前に、大粒の雨が地面を打ち始めた。
土と雨の匂いが強くなり、静かだったお山に、様々な音が響き始めた。
「りょーた、りょーたぁ……みええぇぇ……っ」
「どうしたんだ。何かあった?」
「みぇ……ふえっ、みいぃ……」
駆け足で居間に向かうと、目に入ってきたのは薄いタオルケットを抱きしめたまま泣きじゃくる小さな子供――おみだった。
大きな海色の瞳を涙でグジュグジュにし、半開きの口からは尖った八重歯が覗いていた。普段は元気に空を向いている銀色の尻尾は悲しそうに畳の上にペしゃんと垂れている。
尻尾と同じ銀色の髪、その間から生えた茶色の小さな角。
俺の腕にすっぽり収まってしまうくらい小さな体の彼の涙につられるかのように、空から雨が落ちてくる。居間から繋がる縁側に雨が当たり、大きな音を立てていた。泣き声と重なり合って、まるで空が泣いているかのようだ。
よく見ると肩まで伸びた髪がくしゃくしゃに乱れている。その様子から、間違いなくつい先ほどまでは寝ていたはず。
この世の終わりと言わんばかりに涙を流している彼は、どうしてここまで大泣きしているんだろう。
弱冠二十六歳(しかも独身)の俺にはさっぱり見当がつかない。
それでも聞いてみないと始まらないと思い、試しに思い当たることを聞いてみることにした。
「おみ、怖い夢でも見た?」
「んーん」
「じゃあどうしたんだ?」
「むぅ……」
答えは返ってこない様子。ううん、困ったな。あまり問い詰めても怖がらせてしまうだろうし、かといって放っておくわけにはいかない。
しょうがないのでタオルケットごと小さな体を抱き上げ背中を撫でてやる。そうすると、少し安心したのか泣き声は収まってきた。翠色をした子供用の浴衣は寝乱れてぐしゃぐしゃになっている。肩からかけている薄花色の薄い羽織も同じように皺だらけだ。
ぎゅう、と俺の着物を握りしめてみぇみぇ泣く姿は、五歳の子供と変わらない気がしてきた。いや、むしろもっと泣き虫かもしれない。
「よしよし。おみは本当によく泣くなぁ」
「みいぃ……」
俺はそっとしゃがみ込んで、おみの銀色の髪をぎこちなく撫でる。それで安心したのか、はたまた別の理由か。髪の毛と同じ色をした尻尾が弱々しく床を叩いた。
これが、俺の使命。
泣き虫な龍神の子供、おみを立派に育てあげること。
子育て経験なし、結婚歴なし、おまけに一人っ子である俺に、果たしてそんなことができるのだろうか。
おみと暮らし始めて約一ヶ月。先行きは見えずいまだに暗雲が垂れ込めていた。
*
我が室生家は、代々この小さな龍神様、おみを育てる『保護役』を担ってきた。
俺の祖父が本家の次男であり、俺は分家の人間だ。直系が継ぐ本家は龍神を祀る本殿を守るという使命があり、分家に生まれた男子で、『龍神様に選ばれた者』、つまり気象病を持つ者が保護役の使命を担うのだという。分家の中で唯一その能力を持つのが俺だった、というわけだ。
この世界は神様が作ったと言われている。
火の神が人に炎を与えるように、基本的に『神がいて、人がいる』というのがこの世の構造だ。そして神様は人間や世界の知識と、人知を超えた力を持って、人間でいうと大人と同じ姿で生まれることが多い。
それから何百年、何千年、何万年と生きているから日本中の至る所に神様が存在して、俺たち人間を時には見守り、時には助け、時には罰を与えるのだ。
室生が祀る龍神は、雨を司る神様だ。雨という人間がコントロールできないものを操ることができるため、様々な場所で信仰されている。
しかし他の神様と違って幼体で生まれたおみは、人間のことも世界のことも知らなかったから、人間を見守ることも助けることも、罰を与えることもできない。
他の龍神と比べると赤ちゃんそのもので、龍神界隈では半人前なんだとか。
だから保護役がおみに人間のことを教える必要がある。
一緒に暮らしながら、人間とはどんなものかを伝えていくのだ。
人を知ることで、おみはこの世界を知っていく。世界を知ることで、龍神としてどのように力を発揮すればいいかわかってくる。
龍神として人から愛され、慕われ、信仰されることが、この小さな龍神様の大きな目標だ。
おみに霊力が溜まり、体が大きくなるまでに、龍神として立派に力を出せるようにしてやらなくてはいけない。もちろん、まだ俺の腰くらいしか身長がないおみが大きくなるまでにはあと何千年もかかるだろうが。
それでも雫がなければ大海は存在しないように、日々少しずつ人のことを教え、おみを立派な龍神に育てるのだ。
……などと本家の偉い人から説明をされたが、現状はほとんど子守のようなものだった。
抱っこをして、背中を撫でて、泣き止むまであやし続ける。
これで本当におみは立派な龍神様になれるのだろうか。
「りょーた、おみがないちゃったから、あたまいたい?」
「え? ああ、まあ。でも大丈夫」
「うにゅ……ごめんしゃい……」
「しょうがないだろ。お前が泣くと雨が降る。変に我慢してそのあと雨どころじゃなく天気が荒れたら大変だ」
そう、しょうがない。しょうがないんだ。
俺の頭が痛くなることも、おみがどうして泣いているかわからないのも。どれもしょうがないのだ。
そうやって今までも生きてきた。それもこれも、俺が室生の家に生まれたからであって、好きで選んだわけじゃない。
最初は「本当に俺でいいのか」と悩むこともあった。でも、だからといっていつまでも悩んでいても、俺の頭痛はなくならないし、俺が保護役であることに変わりはないのだ。
そんな暇があったら、家の裏にある畑に水をやっていたほうがよっぽどいい。
「そろそろお昼だし、おみ、ご飯にしようか」
「ごはん!」
そうおみに声をかけると、それまでぐずっていたおみが、途端にぱぁ、と目を輝かせた。海色の瞳がキラキラし始める。
お前、本当に単純なやつだな、と内心で呆れる。でもおみが食いしん坊でよかった。ご飯を食べている間は絶対に泣かないから。
一人暮らしが長かったおかげである程度自炊はできる。なのでおみが泣きそうになった時はいつも、軽食を作ってあげたりするのだ。
裏の畑で育てた野菜をたくさん使った料理を、おみはいつも「おいしー!」と言ってたくさん食べてくれる……ピーマン以外、だけど。
俺がどんなに細かく切り刻んで料理に混ぜてもすぐに気づき、一口食べただけで「ピーマン! やだ!」と泣いてしまう。理由は単純に「にがいから!」だそうだ。
最初は色々なレシピを調べて頑張っていたけれど、何をしても泣かれてしまうので最近はもう食べさせることを諦めている。
せっかくピーマンを植えたが、食べるのは俺ばかり。俺より長く生きているのに苦いからってだけでピーマンを食べられないなんて。これじゃ本当に子供みたいだ。
「神様業界では千歳でも子供なんだな」
「そだよ。おみ、せんさいだけど、こども」
「おみは赤ちゃんみたいだけど」
「あかちゃんじゃないもん!」
「だったらピーマンの一つや二つ、克服しておいてくれ」
「むぅ……」
俺だって茄子は七歳で克服したぞ。
そんなことを話しつつ、二人で台所に向かう。この家は典型的な日本家屋だけど、中は綺麗にリフォームされていて水回りは現代的なものだ。広いシンクに三口コンロが設備された台所は俺とおみが一緒に並んでも全く狭いと感じない。それにIHコンロだからおみの火傷を心配することもない。
もしこれが竈だったら、きっと火を起こせなくて今頃餓死しているだろう。田舎育ちとはいえ、さすがに竈は使ったことがない。
今日は暑いし、さっきたくさんトマトが採れたから素麺にしよう。大葉もあったし、ツナものせたら食べ応えがある。足りなかったら焼き茄子を作ってやればいいか。
「おみ、手洗って準備しようか」
「うぃ」
返事と共に、おみはさっそく自分用の踏み台を運んでくる。プラスチックでできた黄色の踏み台は、おみがシンクで手を洗うために用意したものだ。これの一番上に乗ると蛇口に手が届くようになる。
尻尾を振りながら手を洗うおみは、やっぱり赤ちゃんみたいだ。
「あわわーわわわ、あわわわわー」
「何それ」
「あわわのおうた」
「……何それ」
調子外れの歌を聞きながらため息をつく。さっきまで大泣きしていたのにもう上機嫌だ。ううん、子供ってわからない。いや、おみが謎なのか?
「みてー、おててあらった!」
得意げな声でそう言われ振り返ると、満面の笑みを浮かべるおみがこちらを見上げていた。嬉しそうに尻尾が揺れている。思わず口元が緩んだ。変なやつ、と思いながらトマトの入ったザルを手渡した。
今日、昼間におみが採ってきたものだ。真っ赤に熟れて今にも弾けそうなトマトは、おみのお気に入りだ。
「しっかり洗って、ヘタを取ってくれ」
「うぃ」
「台から落ちないように気をつけてな」
「あーい」
おみの両手よりも大きなトマトを一生懸命、綺麗に洗っている。トマトもピーマンも子供が嫌いになることが多い野菜だけど、おみはトマトは好きなんだよな。なんでだろう、水気が多いから?
よくわからないけれど、きっとおみの中では理由があるんだろう。
そんなことを考えていると、鍋に入れたたっぷりの水が沸騰し始めていた。二人分にしては多い量の素麺を入れて、くっつかないよう菜箸でかき混ぜる。
立ち上る湯気で額に汗が滲んだ。
「あ、おみ。洗い終わったら食器出してくれるか?」
「……ぅむ」
「おみ?」
「うむー!」
変にくぐもった声に、何事かと思って隣を見る。なんとなく予想はできていたが、たまにその予想を上回ることをするから確認は大切だ。
下手したら世界の一大事に繋がりかねない。
……まあ、食べ物に関しては大体予想通りなんだけど。
「おーみー?」
「むー! むむー!」
「……トマト、食べた?」
「んむ! むむ!」
もちもちの頬をパンパンにしたおみが、必死になって首を横に振る。ザルに視線を下ろすと、山盛りだったトマトが少し減っている。どうしてお前は、一秒でわかる嘘を平気でつくんだ……。そしてなぜ、それがバレないと思ったんだ?
「あーあ、手も顔もベタベタ……つまみ食いするなら、もう少し小さいやつにしろよ」
「んぐ、うん」
口を拭いてやりたいのはやまやまだが、あいにくと素麺が茹で上がりそうなのである。
手早く火を止め、ザルにあげて流水でぬめりを取る。ついでに、いたずらでおみの顔にも水をかけると、びっくりしたのか「ぴぇ!」と鳴いた。
少しの間素麺を洗うと、粗熱が取れ、素手で触っても大丈夫な温度になった。これならおみに任せても平気かな。
「おみ、俺が大葉を切っている間、素麺を水で洗ってくれ」
「……うぃ」
「氷入れるから冷たいけど、大丈夫か?」
「だいじょぶ……」
「おみ?」
いつもなら、何かを頼むと大喜びするのに、どうにも勢いがなかった。先ほど水をかけたことがそんなに嫌だったのだろうか。表情もどこか元気がない。落ち込んでいるというか、不安そうだ。
「おみ? どうした?」
「りょーた……おみ、トマトたべたよ」
「うん、食べたな」
「おこらないの?」
「ええ? おみが育てたトマトだから怒らないよ」
さっきのは指摘しただけで、怒ったわけじゃない。怒るほどでもないというか、おみならこの程度やるだろう、と予想していたことが当たっただけだ。
しかし、おみは腑に落ちないようだった。小首を傾げつつ、頭を抱えていた。
夏の空は、どこまでも深く青い。
草の香り、土の匂い。季節の花々はまるで命そのもののように煌めいている。
その全てがあるこの場所は、静かで穏やかだった。
ここは『お山』と呼ばれる山にある、一棟の建物の庭。
なんとなく手入れをした門代わりの生垣に囲まれて、俺――室生涼太は水の入ったバケツに雑巾を突っ込んだ。
雲一つない真昼の日差しは暑い。ジリジリと肌が焼ける感覚を首の後ろに感じていた。
バケツの水面に映る自分の姿は、いつも通り癖っ毛の黒髪。先代から引き継いだ家宝の首飾りをつけ、紺色の浴衣を着ている。どうしてこんな暑い日に濃い色の浴衣を選んでしまったんだろう。熱を吸収してますます暑く感じる気がする。
典型的な日本家屋である我が家は、古本屋をやっている。うっすらと滲んだ汗を拭いながら「室生書房」と書かれた木板の看板を布で拭き上げる。
実際はネット書店なので、ここに足を運ぶ人は存在しないが、出入り口は綺麗にしておくに越したことはない。だからと言ってどうして俺はこんな日照りの中で作業をしているんだろう。
それには、俺の使命が関係している。一人で動ける時間じゃないとここまで自由に動けないのだ。
その使命とは――
「ああ、降るかな。これは」
急にズキズキと痛み出したこめかみを押さえ、俺は遠くの空を見つめる。それまで雲一つなかった青空に、いつの間にか灰色の雨雲が現れていた。重たい色に呼応するように俺の頭もぐっと締めつけられていく。
この痛みには幼い頃からずっと悩まされていた。どんな薬を飲んでも治らないし、病院に行っても軽くなることはない。両親は雨が降っても雷が鳴っても平然としているのに。なぜか俺だけ、雨が降るたび頭痛に苦しんできた。
だから今更、こんなことで悩んだりはしない。どうしようもないのだから。
しかし今から数分後に訪れる『嵐』のことを考えると別の意味で頭が痛くなる。
「さっきまで寝てたのに……どうしたんだ、急に」
急いで看板を抱え、家の中に入る。玄関の引き戸を閉める直前に、大粒の雨が地面を打ち始めた。
土と雨の匂いが強くなり、静かだったお山に、様々な音が響き始めた。
「りょーた、りょーたぁ……みええぇぇ……っ」
「どうしたんだ。何かあった?」
「みぇ……ふえっ、みいぃ……」
駆け足で居間に向かうと、目に入ってきたのは薄いタオルケットを抱きしめたまま泣きじゃくる小さな子供――おみだった。
大きな海色の瞳を涙でグジュグジュにし、半開きの口からは尖った八重歯が覗いていた。普段は元気に空を向いている銀色の尻尾は悲しそうに畳の上にペしゃんと垂れている。
尻尾と同じ銀色の髪、その間から生えた茶色の小さな角。
俺の腕にすっぽり収まってしまうくらい小さな体の彼の涙につられるかのように、空から雨が落ちてくる。居間から繋がる縁側に雨が当たり、大きな音を立てていた。泣き声と重なり合って、まるで空が泣いているかのようだ。
よく見ると肩まで伸びた髪がくしゃくしゃに乱れている。その様子から、間違いなくつい先ほどまでは寝ていたはず。
この世の終わりと言わんばかりに涙を流している彼は、どうしてここまで大泣きしているんだろう。
弱冠二十六歳(しかも独身)の俺にはさっぱり見当がつかない。
それでも聞いてみないと始まらないと思い、試しに思い当たることを聞いてみることにした。
「おみ、怖い夢でも見た?」
「んーん」
「じゃあどうしたんだ?」
「むぅ……」
答えは返ってこない様子。ううん、困ったな。あまり問い詰めても怖がらせてしまうだろうし、かといって放っておくわけにはいかない。
しょうがないのでタオルケットごと小さな体を抱き上げ背中を撫でてやる。そうすると、少し安心したのか泣き声は収まってきた。翠色をした子供用の浴衣は寝乱れてぐしゃぐしゃになっている。肩からかけている薄花色の薄い羽織も同じように皺だらけだ。
ぎゅう、と俺の着物を握りしめてみぇみぇ泣く姿は、五歳の子供と変わらない気がしてきた。いや、むしろもっと泣き虫かもしれない。
「よしよし。おみは本当によく泣くなぁ」
「みいぃ……」
俺はそっとしゃがみ込んで、おみの銀色の髪をぎこちなく撫でる。それで安心したのか、はたまた別の理由か。髪の毛と同じ色をした尻尾が弱々しく床を叩いた。
これが、俺の使命。
泣き虫な龍神の子供、おみを立派に育てあげること。
子育て経験なし、結婚歴なし、おまけに一人っ子である俺に、果たしてそんなことができるのだろうか。
おみと暮らし始めて約一ヶ月。先行きは見えずいまだに暗雲が垂れ込めていた。
*
我が室生家は、代々この小さな龍神様、おみを育てる『保護役』を担ってきた。
俺の祖父が本家の次男であり、俺は分家の人間だ。直系が継ぐ本家は龍神を祀る本殿を守るという使命があり、分家に生まれた男子で、『龍神様に選ばれた者』、つまり気象病を持つ者が保護役の使命を担うのだという。分家の中で唯一その能力を持つのが俺だった、というわけだ。
この世界は神様が作ったと言われている。
火の神が人に炎を与えるように、基本的に『神がいて、人がいる』というのがこの世の構造だ。そして神様は人間や世界の知識と、人知を超えた力を持って、人間でいうと大人と同じ姿で生まれることが多い。
それから何百年、何千年、何万年と生きているから日本中の至る所に神様が存在して、俺たち人間を時には見守り、時には助け、時には罰を与えるのだ。
室生が祀る龍神は、雨を司る神様だ。雨という人間がコントロールできないものを操ることができるため、様々な場所で信仰されている。
しかし他の神様と違って幼体で生まれたおみは、人間のことも世界のことも知らなかったから、人間を見守ることも助けることも、罰を与えることもできない。
他の龍神と比べると赤ちゃんそのもので、龍神界隈では半人前なんだとか。
だから保護役がおみに人間のことを教える必要がある。
一緒に暮らしながら、人間とはどんなものかを伝えていくのだ。
人を知ることで、おみはこの世界を知っていく。世界を知ることで、龍神としてどのように力を発揮すればいいかわかってくる。
龍神として人から愛され、慕われ、信仰されることが、この小さな龍神様の大きな目標だ。
おみに霊力が溜まり、体が大きくなるまでに、龍神として立派に力を出せるようにしてやらなくてはいけない。もちろん、まだ俺の腰くらいしか身長がないおみが大きくなるまでにはあと何千年もかかるだろうが。
それでも雫がなければ大海は存在しないように、日々少しずつ人のことを教え、おみを立派な龍神に育てるのだ。
……などと本家の偉い人から説明をされたが、現状はほとんど子守のようなものだった。
抱っこをして、背中を撫でて、泣き止むまであやし続ける。
これで本当におみは立派な龍神様になれるのだろうか。
「りょーた、おみがないちゃったから、あたまいたい?」
「え? ああ、まあ。でも大丈夫」
「うにゅ……ごめんしゃい……」
「しょうがないだろ。お前が泣くと雨が降る。変に我慢してそのあと雨どころじゃなく天気が荒れたら大変だ」
そう、しょうがない。しょうがないんだ。
俺の頭が痛くなることも、おみがどうして泣いているかわからないのも。どれもしょうがないのだ。
そうやって今までも生きてきた。それもこれも、俺が室生の家に生まれたからであって、好きで選んだわけじゃない。
最初は「本当に俺でいいのか」と悩むこともあった。でも、だからといっていつまでも悩んでいても、俺の頭痛はなくならないし、俺が保護役であることに変わりはないのだ。
そんな暇があったら、家の裏にある畑に水をやっていたほうがよっぽどいい。
「そろそろお昼だし、おみ、ご飯にしようか」
「ごはん!」
そうおみに声をかけると、それまでぐずっていたおみが、途端にぱぁ、と目を輝かせた。海色の瞳がキラキラし始める。
お前、本当に単純なやつだな、と内心で呆れる。でもおみが食いしん坊でよかった。ご飯を食べている間は絶対に泣かないから。
一人暮らしが長かったおかげである程度自炊はできる。なのでおみが泣きそうになった時はいつも、軽食を作ってあげたりするのだ。
裏の畑で育てた野菜をたくさん使った料理を、おみはいつも「おいしー!」と言ってたくさん食べてくれる……ピーマン以外、だけど。
俺がどんなに細かく切り刻んで料理に混ぜてもすぐに気づき、一口食べただけで「ピーマン! やだ!」と泣いてしまう。理由は単純に「にがいから!」だそうだ。
最初は色々なレシピを調べて頑張っていたけれど、何をしても泣かれてしまうので最近はもう食べさせることを諦めている。
せっかくピーマンを植えたが、食べるのは俺ばかり。俺より長く生きているのに苦いからってだけでピーマンを食べられないなんて。これじゃ本当に子供みたいだ。
「神様業界では千歳でも子供なんだな」
「そだよ。おみ、せんさいだけど、こども」
「おみは赤ちゃんみたいだけど」
「あかちゃんじゃないもん!」
「だったらピーマンの一つや二つ、克服しておいてくれ」
「むぅ……」
俺だって茄子は七歳で克服したぞ。
そんなことを話しつつ、二人で台所に向かう。この家は典型的な日本家屋だけど、中は綺麗にリフォームされていて水回りは現代的なものだ。広いシンクに三口コンロが設備された台所は俺とおみが一緒に並んでも全く狭いと感じない。それにIHコンロだからおみの火傷を心配することもない。
もしこれが竈だったら、きっと火を起こせなくて今頃餓死しているだろう。田舎育ちとはいえ、さすがに竈は使ったことがない。
今日は暑いし、さっきたくさんトマトが採れたから素麺にしよう。大葉もあったし、ツナものせたら食べ応えがある。足りなかったら焼き茄子を作ってやればいいか。
「おみ、手洗って準備しようか」
「うぃ」
返事と共に、おみはさっそく自分用の踏み台を運んでくる。プラスチックでできた黄色の踏み台は、おみがシンクで手を洗うために用意したものだ。これの一番上に乗ると蛇口に手が届くようになる。
尻尾を振りながら手を洗うおみは、やっぱり赤ちゃんみたいだ。
「あわわーわわわ、あわわわわー」
「何それ」
「あわわのおうた」
「……何それ」
調子外れの歌を聞きながらため息をつく。さっきまで大泣きしていたのにもう上機嫌だ。ううん、子供ってわからない。いや、おみが謎なのか?
「みてー、おててあらった!」
得意げな声でそう言われ振り返ると、満面の笑みを浮かべるおみがこちらを見上げていた。嬉しそうに尻尾が揺れている。思わず口元が緩んだ。変なやつ、と思いながらトマトの入ったザルを手渡した。
今日、昼間におみが採ってきたものだ。真っ赤に熟れて今にも弾けそうなトマトは、おみのお気に入りだ。
「しっかり洗って、ヘタを取ってくれ」
「うぃ」
「台から落ちないように気をつけてな」
「あーい」
おみの両手よりも大きなトマトを一生懸命、綺麗に洗っている。トマトもピーマンも子供が嫌いになることが多い野菜だけど、おみはトマトは好きなんだよな。なんでだろう、水気が多いから?
よくわからないけれど、きっとおみの中では理由があるんだろう。
そんなことを考えていると、鍋に入れたたっぷりの水が沸騰し始めていた。二人分にしては多い量の素麺を入れて、くっつかないよう菜箸でかき混ぜる。
立ち上る湯気で額に汗が滲んだ。
「あ、おみ。洗い終わったら食器出してくれるか?」
「……ぅむ」
「おみ?」
「うむー!」
変にくぐもった声に、何事かと思って隣を見る。なんとなく予想はできていたが、たまにその予想を上回ることをするから確認は大切だ。
下手したら世界の一大事に繋がりかねない。
……まあ、食べ物に関しては大体予想通りなんだけど。
「おーみー?」
「むー! むむー!」
「……トマト、食べた?」
「んむ! むむ!」
もちもちの頬をパンパンにしたおみが、必死になって首を横に振る。ザルに視線を下ろすと、山盛りだったトマトが少し減っている。どうしてお前は、一秒でわかる嘘を平気でつくんだ……。そしてなぜ、それがバレないと思ったんだ?
「あーあ、手も顔もベタベタ……つまみ食いするなら、もう少し小さいやつにしろよ」
「んぐ、うん」
口を拭いてやりたいのはやまやまだが、あいにくと素麺が茹で上がりそうなのである。
手早く火を止め、ザルにあげて流水でぬめりを取る。ついでに、いたずらでおみの顔にも水をかけると、びっくりしたのか「ぴぇ!」と鳴いた。
少しの間素麺を洗うと、粗熱が取れ、素手で触っても大丈夫な温度になった。これならおみに任せても平気かな。
「おみ、俺が大葉を切っている間、素麺を水で洗ってくれ」
「……うぃ」
「氷入れるから冷たいけど、大丈夫か?」
「だいじょぶ……」
「おみ?」
いつもなら、何かを頼むと大喜びするのに、どうにも勢いがなかった。先ほど水をかけたことがそんなに嫌だったのだろうか。表情もどこか元気がない。落ち込んでいるというか、不安そうだ。
「おみ? どうした?」
「りょーた……おみ、トマトたべたよ」
「うん、食べたな」
「おこらないの?」
「ええ? おみが育てたトマトだから怒らないよ」
さっきのは指摘しただけで、怒ったわけじゃない。怒るほどでもないというか、おみならこの程度やるだろう、と予想していたことが当たっただけだ。
しかし、おみは腑に落ちないようだった。小首を傾げつつ、頭を抱えていた。
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